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ブッダの最後の食事 

 いつもの航空エッセイではないのですが、先日、坂本猫馬さんの文章を読み、胸の奥に静かに温かい灯りがともるような気持ちになりましたので感想文的なものを。

 猫馬さんは仏教の経典『涅槃経』に描かれた、お釈迦様の「最後の食事」の場面を、分かりやすく、そしてとても丁寧に綴っておられます。簡単に内容をご紹介したいと思います。

 お釈迦様は晩年のご巡錫で、チュンダという鍛冶屋の家に招かれ、供養の料理「スーカラ・マッダヴァ」を召し上がります。それが豚肉なのかキノコなのか、今日でも分かりません。しかし結果として、お釈迦様はその食事をきっかけに体調を崩され、入滅へ向かわれます。
 チュンダは激しく悔い、泣きながら自分の行為を責めました。しかし、お釈迦様は「あなたのせいではない。供養は尊い行いであり、私の死は生まれた者が必ず迎える因縁によるものだ」と優しく慰められました。
 そして、次のように語りかけられたのです。

「チュンダよ。何も嘆くことはない。私は生まれたから死ぬのである。
 あなたの供養の食事は、私の死の縁である。
 私の死の因は、私が生まれたことだ。人間生まれたものは必ず死ぬ。
 これが因縁の法だ。あなたの食事をいただかなくても、
 私は他の縁で死ぬ。だから、あなたに責任はないのだ」

臨済宗大本山妙心寺HPご法話「人は生まれたから死ぬ」より

 “死因(生まれた事)”と“死の縁(供養の食事)”を分けて捉えるこの姿勢は、誰かを責める心をそっと溶かしていく慈悲のように感じられました。
 そして「私が生涯いただいた様々なご供養の中でも、悟りを開くときにいただいたスジャータの乳粥と、そして最後にあなたからいただいた食事、この2つの供養は格別の意味があるのだ。決して自分を責めるでない」と優しく語られます。

コロナ禍で疎遠になった二人

 私の知り合いで、「Aさんのせいでコロナに感染し、死の恐怖を味わった。そして後遺症が今も続いて苦しんでいる」と恨みを口にしている方がいました。その苦しみは理解できますし、つらい経験の中で心が荒れてしまうのは自然なことだと思います。
 ところがAさんも「私も家族からの感染に気付かなかった。これは仕方なかったことだ」と反論し、お互いが被害者の立場になって言い合った結果、疎遠になってしまいました。仲のよかった人たちだったので、私もものすごく心が痛みました。

 猫馬さんの文章を読んだとき、私はこの出来事を思い出し、思わず胸に手を当ててしまいました。
 正直なところ、私自身はお釈迦様のような境地になれる自信はありません。大切な人が傷つけられれば、きっと相手を責めてしまうでしょうし、冷静ではいられないでしょう。人の心は弱く、感情は飢えた動物のように暴れます。きれいごとでは片づけられない現実もたくさんあります。

 人は苦しい時ほど「誰のせいでこうなったのか」と理由や原因を他に探し、心の痛みの矛先をどこかへ向けようとしてしまいます。たとえば、仕事で予期せぬ失敗が起きた時に「上司が正しく指示してくれなかったからだ」と感じたり(感じようとしたり)、病気になった時に「もっと早く気付いてくれれば」と家族に苛立ってしまったりすることがあります。痛みの行き場を求めて、心の矢印が世界や他人へ向かってしまうのです。
 自らの不幸の原因を分析したつもりになって、責任を転嫁する。それで一時的に復讐を果たした気になって、その後の平静な心はずっと維持できるのでしょうか。

 だからこそ、お釈迦様の言葉は、ひとつの灯台のように思えるのです。
人は生まれたから死ぬ。ただそれだけ。この絶対的事実を見つめたとき、改めて生の意味が見えてきます。であればこそ、このいただいた命をどう生きるのかと考えさせられます。
 なかなか納得できるものではないかもしれませんが、「そういう見方もあるのだな」と知っているだけで、暗がりの中に淡い光が生まれます。他人を(自分を)、世界を責めたくなった心を、ほんのわずかだけ別の角度から見つめ直すことができるのです。

「矢」の教えと一水四見

 ここで思い出されるのが、同じくお釈迦さまの「第二の矢」の教えでした。 
 第一の矢とは、避けようのない苦しみそのもの――病気、事故、別れ、思いがけない出来事。それらは、生きている以上どうしても受けてしまう矢です。人間も動物も同じです。
 第二の矢とは、その出来事に対して私たち自身の心が生み出す苦しみ――「なぜ自分だけが」「あの時こうしていれば」といった後悔や嘆き、怒りです。これは人間だけのものとされています。
 この第二の矢は、常に第一の矢に隠れていて、ほぼ同時に心に刺さります。そして第一の矢よりやっかいなことに燃え広がりやすくいつまでも刺さっています。

 しかし、この第二の矢は「一水四見(いっすいしけん)」という教えによって考え直すこともできます。
 一水四見とは、すべてのものは見る側の心によって姿を変えるという言葉です。同じ「水」でも、人間にとってはただの水、天人にとっては宝石の池、餓鬼にとっては苦しみの火、魚にとっては住処と見えるという例え話が示されます。
 物事を認識する際、自分の見方だけでなく、様々な立場の見方があり、そして他者の立場も尊重することの大切さを示しているのです。

同じ水でも見方が変わる

 このことから、生きている限り第一の矢は避けられませんが、第二の矢は自分の受け止め方次第だということが分かります。第二の矢で感情の炎を大きくするのか、それとも小さくするのかは、100%自分の心に委ねられています。周りの意見や世間の常識ではなく、自分自身が決めて良いことなのです。
 第二の火矢を草原に落とすのか、岩に落とすのかはあなたの自由という訳です。

 お釈迦様がチュンダを責めなかったのは、この“第二の矢”を大きくさせないための大きな慈悲でもあったのだと思いました。
 その姿を思い返すと、チュンダを一切責めず、むしろ労わりの言葉をかけた場面が胸に響きます。
 そして弟子たちにも「チュンダを責めずに修行を続けなさい」と説かれました。自分の入滅さえも修行の一環とせよと諭されるその姿に、深い感動を覚えます。

 この教えは、遠い昔の物語ではなく、今日を生きる私たちにも届きます。

 生きているかぎり、誰もが思いがけない出来事に揺らされます。人間関係の行き違い、病気、失敗、後悔……。もし誰かを、あるいは自分自身を責めそうになったら、一度深呼吸して、心の中でそっと問いかけてみてはいかがでしょうか。
 「第二の矢が来た。どう受け止める?」と。そうして生まれる一瞬の間こそ、第二の矢を手放し、苦しみから自由になる小さな入り口なのかもしれません。

自分は苦しい(感情と一体化)」と「苦しいと感じている自分がいる(客観視、メタ認知)」とでは、意味合いが変わってもきます。

 ちなみに私はできていません(笑)。なので皆様にお説教する立場にはありません。でも目標は知ることができました。
 第二の矢は草原ではなく岩に落とす。自分のせいで他人を不快にさせてしまうこともありますが、だからといって、とりたてて責められるいわれはありません。お互いが自分の領域を整えていけば、それで十分なのです。
 長く遠い道のりではありますが、こういう考え方をすれば今の幸せを維持できるのだなと感じています。
 そして猫馬さんの締めの言葉のように、今日一日を最後の食事と思い、いただきますを唱えたいと思います。

 私たちが日々抱える痛みや迷いが、少しでも軽くなりますように。そして、誰かを責めたくなる夜こそ、心に小さな灯台の光がともりますように。
 猫馬さんの文章を読み、そんなことを感じさせていただきました。よかったらぜひ、読んで見てください。この場を借りて改めて感謝申し上げます。

仏陀最後の食事〜『大般涅槃経』より
第二の矢〜阿含経『中部経典』第3経「毒矢経」より
一水四見〜唯識思想(『華厳経』『解深密経』)の教え

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