幕間:届かなくなった言葉
一方その頃、アイゼムでは
ルミエーナ失踪の手がかりを追い、トッタたちは夜のアイゼムで聞き込みを進めていた。
その同じ頃。
夕暮れの港町アイゼムで、ピルカは不自然な明るさを取り戻した雑貨屋の娘と出会う。
そして、その小さな違和感を辿るように、【希望の灯】代表アルカディアスが彼女の前に現れる。
文字数:約6,700字
読了目安:約10〜12分
穏やかな街角の会話は、やがて互いの危うさを測る静かな探り合いへ変わっていく。
一 夕暮れの違和感
その頃、アイゼムのメインストリートでは、夕暮れ前のざわめきがゆるやかに膨らみはじめていた。
魚市場帰りの荷車が石畳を鳴らし、露店では焼き菓子の甘い匂いと香辛料の刺激が入り混じっている。港町らしい湿った潮風が、人いきれのあいだをすり抜けていった。
ピルカは、その喧騒の少し上を、ふわりと漂うように進んでいた。
羽ばたいている、というほど大げさな動きではない。そこに立つことと同じ自然さで、空中に浮いている。彼女にとっては、歩くことと飛ぶことの境目など、たぶん最初から曖昧なのだろう。
淡い水色の金属光沢を帯びた四枚の羽が、夕暮れの光を薄く弾く。
少し離れた場所では、カミナが工具屋の店先で、店主と何か話していた。
例の剣片が届いてから、彼は工房にこもりきりだった。今日はどうしても必要なものがあり、やむなく街まで出てきたのだ。
ピルカも同行はしたが、買い出しを手伝うには、彼女ひとりでは持てる荷が限られている。だから今は、ほんの少しだけ別行動だった。
「ピルカちゃん!」
弾んだ声に振り向くと、見覚えのある若い娘が、花でも見つけたみたいな顔で手を振っていた。
よく神殿帰りに通りかかる、雑貨屋の娘だ。
顔を合わせれば軽く立ち話をする程度の間柄だが、以前はもっと、うつむきがちな子だったはずである。
「お、ひさしぶりじゃん。元気そー」
「うん、すっごく元気!」
娘は胸元で両手を合わせるようにして笑った。
「最近、なんかね、前よりちゃんと前向きになれた気がするの!」
その笑顔は明るかった。
明るい――のだけれど。
ピルカは相手の顔を見て、ほんのわずかに目を細めた。
前より顔色はいい。
声にも張りがある。
笑顔も、仕草も、少なくとも無理をしているようには見えなかった。
それでも、ピルカの中には、小さな引っかかりが残った。
笑顔そのものが不自然なのではない。
その笑顔がそこにあることが、妙に馴染まない。
沈んでいた顔が、少しずつ上を向いたのではない。
どこか、唐突に角度だけを上向けられたような。
笑顔の形だけを、誰かに整えられたような。
そんな座りの悪さが残っている。
「ふーん。なんかあった?」
「えへへ、ちょっとね。すっごく話を聞くのが上手な人がいて。悩んでたこと、すうって軽くなったんだ」
「へー」
「ピルカちゃんも、なんか悩みとかあったら相談してみるといいかも! すっごく優しくて、安心できるんだから!」
娘はそう言って、無意識のように胸元へ触れた。
何かを確かめる仕草。
あるいは、そこに置かれた何かを撫でるような仕草。
少しだけ、不気味だった。
「そっか。ま、元気ならよかったじゃん」
「うん! またね、ピルカちゃん!」
娘は軽やかに去っていく。
その背中を見送りながら、ピルカはふと、別の顔を思い出していた。
少し前、たまたま通りで見かけたルミエーナ。
あの時も、笑ってはいた。
ちゃんと笑おうとしていた。
けれど、その笑い方のどこかに、薄くひびが入っているような気配があった。
(……なんか、似てたかも)

二 届かなくなった言葉
そう思った時だった。
「少し、お時間よろしいでしょうか」
柔らかな声が、すぐ背後からかかった。
押しつけがましさはない。
人に安心を与えるよう、ちょうどよく整えられた声色だった。
ピルカはゆっくり振り向く。
そこに立っていたのは、きちんとした身なりの男だった。
年の頃は、三十代半ばほどだろうか。
灰色をわずかに含んだ濃い茶髪は、襟にかからない長さで丁寧に整えられている。細身の顔立ちに浮かぶ笑みは穏やかで、淡い灰緑色の瞳にも、相手を急かすような強さはなかった。
生成り色の立ち襟シャツに、深い灰青色の上着。濃紺の外套の襟元には、暗い赤褐色の留め具が控えめに光っている。
華美ではない。
けれど、袖口から磨かれた靴まで、どこにも乱れがなかった。
誰かに悩みを打ち明けるなら、こういう男がいい。
初めて見た者に、そう思わせるような姿だった。
(……うわ、なんかヤバそーなの来た)
「んー? あーし?」
「ええ。突然、申し訳ありません」
男は軽く一礼した。
「少し、この街についてお聞きしたいことがありまして」
「街のこと?」
「はい。小さな相談ごとを扱う身でして。人の様子を見ていると、時おり気になる変化に出会うことがあるのです」
言いながら、男の視線が、ほんの一瞬だけピルカの背へ触れた。
淡い水色の羽。
小さな体。
派手な装い。
人の街に溶け込んでいるようで、けれどどこか現実から半歩浮いた存在感。
男はそれらを、丁寧に、しかし無駄なく測った。
(……これが、アイゼム支部からの報告にあったフェリア)
彼の内側で、言葉が静かに並ぶ。
(少なくとも、こちらの声にすぐ安心する相手ではなさそうですね)
表情は変わらない。
笑みも、声色も、穏やかなままだった。
(まずは、急がず測るべき相手ですね)
ピルカは何食わぬ顔で肩をすくめる。
「アンタ、フェリア見るの初めて?」
「いいえ。ただ、珍しい色合いの羽でしたので、つい目が行ってしまいました」
「ふーん。ま、目立つしね。あーし」
「ええ。とても」
男は穏やかに微笑んだ。
「申し遅れました。私は【希望の灯】代表、アルカディアスと申します」
その名前に、ピルカは表面上だけ気のない顔をした。
「へー」
「反応が薄いですね」
「初対面でしょ?」
「……ええ、初対面です」
「じゃ、そんなもんじゃん?」
ピルカは軽く笑った。
その笑い方に合わせるように、アルカディアスも笑みを深める。
通りの脇で、善人そうな団体代表と、街で少し浮いたフェリアがにこやかに立ち話をしている。
傍から見れば、その程度の光景だった。
実際、通り過ぎる人々はちらと視線を向けるだけで、すぐに興味を失っていく。
仮に言葉の端を拾ったとしても、きっと「アルカディアスさんのことだから、また誰かを気遣っているんだろう」としか思わないだろう。
「最近、この街で、私たちの輪から距離を置く方が何人か続きまして」
「ふーん」
「皆さん、少し前までは、私たちの活動にも熱心に耳を傾けてくださっていたのですが」
「気が変わったんじゃない?」
「ええ。人の心は移ろうものですから」
アルカディアスは、穏やかに受け止めた。
ピルカもそれ以上は言わず、ただ相手の次の言葉を待つ。
アルカディアスの言葉は、ただの世間話ではない。
声の高さ。
間の置き方。
視線の柔らかさ。
相手が安心しやすい語順。
疑問を抱く前に、先に用意される逃げ道。
それらを重ね、相手がほんの少しだけ呼吸を合わせるように、言葉の流れを作る。
普通の人間なら、置かれたことにも気づかない。
疑い深い者でさえ、「自分でそう考えた」と感じる。
だが。
(……乗らない)
アルカディアスは、内心だけでそう捉えた。
言葉は届いている。
意味も理解している。
けれど、こちらの置いた流れに足を乗せない。
普通なら、相手はほんの少しだけ呼吸を合わせる。
頷き、迷い、考える間に、こちらが用意した道筋へ視線を向ける。
だが、目の前のフェリアは違った。
言葉の中身よりも、その置き方の方へ目を向けている。
少なくとも、アルカディアスにはそう感じられた。
「人の心は繊細ですから」
アルカディアスは柔らかな口調のまま続けた。
「私たちの輪に馴染み、ようやく日々の落ち着きを取り戻した方が、また足元を見失いそうになると、少し気になってしまうのですよ」
それ自体は、善意の言葉にしか聞こえない。
だがピルカには、その言い回しの奥に、ほんの少しだけ別の温度が混じったように感じられた。
(……“落ち着きを取り戻した”ねぇ)
「相談屋って大変じゃん」
「そうでもありません」
「うそだぁ。人の悩みとか、あーし絶対めんどいもん」
「本当に困っている方に手を差し伸べるのは、そう悪いことではありませんよ」
「そっかぁ」
軽い返事。
だが、その目は、アルカディアスの指先の揺れまで見ていた。
「ただ」
アルカディアスは、そこでほんの少しだけ声を落とした。
「離れた方々の話を辿ると、ひとつ、共通していることがありまして」
「……」
「皆さん、距離を置く少し前に、同じ方と言葉を交わしていたそうなのです」
その一言で、会話の芯が一段深く沈んだ。
ピルカはすぐには答えなかった。
代わりに、通りの向こうで風に揺れる布を見た。
そこへ興味がある、とでも言うような顔で。
(……はいはい)
(……ちょい奥、見るか)
本来なら、相手の内側へ勝手に踏み込むような真似はしない。
フェリアにとっても、それは気軽に使っていい力ではなかった。
けれど、今の言葉は、ルミエーナや雑貨屋の子に感じた違和感と無関係には聞こえない。
ピルカの意識が、ほんの少しだけ静かになる。
【心の声】。
万色なる彷徨いの月から、フェリアが授かる〈月の贈り物〉のひとつ。
今、ピルカが探ろうとしたのは、相手の思考そのものではない。
言葉になる前にこぼれる、感情の揺れだった。
そしてピルカが扱うそれは、同じ〈月の贈り物〉を授かったフェリアの中でも、並外れて深く届く。
表情は変わらない。
声も変わらない。
ただ、内側だけが静かに研ぎ澄まされていく。
「へー。なんか、服の話でもしてるみたい」
ピルカがようやく口を開いた。
「服、ですか」
「うん。馴染んできたのに、急に合わなくなったみたいな言い方してるじゃん」
「そう聞こえましたか」
「合わなかったから、自分で脱いだだけかもしんないのに」
その言葉に、アルカディアスのまぶたが、ほんのわずかに下りた。
傍目には、ただの瞬きだった。
(――因果の置き方に乗らない)
胸の奥に生まれた驚きは、即座に畳まれる。
(偶然ではない。こちらの言葉の表面ではなく、その前提を見ている)
そして、その驚きすらも。
「あ、今のちょっと刺さった?」
ピルカは、さらりと言った。
アルカディアスは微笑んだまま、首を傾げる。
「何のことでしょう」
「んー? 別に?」
ピルカも笑う。
通りを行く人々には、ただの軽口にしか見えない。
だが、二人の間にあるものは、もうただの世間話ではなかった。
「……面白いことを仰る」
「そっちが先に面白いこと言ってんじゃん」
「そうでしょうか」
「うん。なんか、相談屋っていうより……」
ピルカは一瞬だけ言葉を切った。
ルミエーナの、あの少しだけ無理をした笑い顔が、ちらりと脳裏をよぎる。
雑貨屋の子の、急すぎる明るさも。
「……占い師っぽいかも」
それはただの軽口のようでもあった。
だが、アルカディアスの沈黙が、ほんの一拍だけ落ちた。
(当たり、かも)
ピルカは、心の中でそう呟く。
「では、少しだけ聞き方を変えましょう」
アルカディアスは穏やかに言った。
「近頃、私たちの言葉が届かなくなった方々と、あなたは何をお話しになったのですか」
周囲に聞かれれば、団体を離れた者たちを案じる代表者の、穏やかな事実確認にしか聞こえない。
だが当人同士には、それで十分だった。
ピルカは、ようやく相手を真正面から見た。
(……あ、こいつ)
(最初から、あーしを調べて来たんだ)
まだ、ルミエーナや雑貨屋の子に感じた違和感まで、すべてが一本に繋がったわけではない。
けれど、少なくとも偶然声をかけてきたわけではない。
そう見てもよさそうだった。
だから答えは、少しズラす。
「さあ?」
肩をすくめる。
「でも、もしあーしと話した人がいたとしてもさ」
「はい」
「それって、“届かなくなった”んじゃなくて、“元に戻った”だけかもしんないじゃん?」
アルカディアスは、初めてまったく動かなくなった。
笑みも、姿勢も、そのままだ。
だが、沈黙だけが一段重くなる。
(……やはり、乗らない)
彼は内側で、もう一度確認した。
言葉は届く。
問いも届く。
含ませた棘も、たぶん届いている。
だが、このフェリアは、こちらが用意した道筋の上を歩こうとしない。
三 四枚の奥に見えたもの
(……もう少し、踏み込む必要がありそうですね)
その判断は、感情ではなかった。
苛立ちでも、焦りでもない。
ただ、目の前の相手を測るために、いつもより一段深い場所へ指先を伸ばそうとしただけだった。
ここまでは、声の高さや間の置き方、言葉の選び方で相手を導いていた。
それは、人の心を扱うことに長けた者の話術だった。
だが、今度は違う。
アルカディアスは、表情も呼吸も変えないまま、次の言葉を受け入れさせるための働きかけを、目の前のフェリアへ向けた。
声もない。
身振りもない。
傍から見れば、二人はただ黙って向かい合っているだけだった。
働きかけは、確かにピルカへ届いた。
そして、その内側へ入り込もうとした瞬間。
何かに、退けられた。
強い意志に押し返されたのとは違う。
拒絶の壁にぶつかったのでもない。
触れたはずの経路そのものが、唐突に断ち切られた。
その瞬間だった。
目の前のフェリアの背で、四枚に見えていた羽の奥に、何か薄い輪郭が重なったように見えた。
もう一対――そう見えた。
羽、と呼ぶにはあまりに淡い。
幻、と片づけるには、あまりに確かな輪郭だった。
瞬きの次には、そこには四枚の羽しかなかった。
見間違いか。
ほんの一瞬、アルカディアスの内側に、その判断が浮かぶ。
人の目は、ときに余計なものを見る。
夕暮れの光。
羽の反射。
こちらの働きかけが退けられた、その一瞬の緊張。
それらが重なれば、ありもしない輪郭を見たと思い込むこともあるだろう。
だが。
アルカディアスは、その判断を静かに退けた。
見間違いと決めて捨てるには、あまりに間が悪すぎる。
こちらの働きかけが退けられた、その瞬間。
目の前のフェリアの背に、四枚ではない何かが重なった。
偶然で済ませるには、整いすぎている。
(……能力、あるいはそれに近い性質……か?)
断定はしない。
だが、可能性として捨てることもしない。
そして、万が一それが正しいのなら。
(……今は、踏み込むべきではありませんね)
アルカディアスは、それ以上の働きかけを重ねることをやめた。
次の言葉は、まだ胸の内に留めておく。
正体の分からないものへ、確かめもせず手を伸ばすほど、彼は無謀ではなかった。
ピルカは、小さく眉を寄せた。
ほんの一瞬だけ、自分の内側で何かが途切れたような感覚があった。
それが何だったのかは、分からない。
(……あ、こいつ、いま何かやったかな)
ピルカは、何も気づかなかったように笑った。
「……なるほど」
アルカディアスは、先ほどまでと変わらぬ笑みを浮かべた。
「ものの見方が、なかなか鋭い」
「そっちが分かりやすいだけじゃん」
「痛いところを突かれました」
「へー、痛いんだ」
ピルカはくすっと笑った。
しかし、その目はもう遊んでいない。
「アンタさ」
「はい」
「中身、全然笑ってなくね?」
アルカディアスは否定もしなければ、肯定もしなかった。
ただ、穏やかな仮面のまま一礼する。

「失礼しました。どうやら、私も少し話しすぎたようです」
「うん、そだね」
「もし何か思い出すことがあれば、またお話を」
「ないない。あーし、初対面の男にそんなぺらぺら喋るほど軽くないし」
「それは重畳です」
「会いたくはないかも」
「それでも、縁があれば」
そう言って、アルカディアスは人波の方へ溶けるように去っていった。
最後まで、感じの良い代表者の顔を崩さないままで。
ピルカはその背を見送りながら、しばらく動かなかった。
(……めんどくさい線、踏んだなぁ)
ルミエーナに感じた、あの小さな違和感。
雑貨屋の子の、急すぎる明るさ。
そして、今の男。
会話の途中にあった、あの妙な感覚。
まだ一本には繋がらない。
でも、たぶん同じ匂いのする線だ。
ピルカは、アルカディアスが消えた人波の向こうをもう一度だけ見た。
(……カミナには、話しとこ)
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