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仏教とAI ある事件の謎解きに向かって 第1話 決意

 まさかこんな形で社会に引きずり出されるとは思わなかった。
 私にとって社会というのは理不尽に満ちた場所で、立ち入ってはいけないところだとずっと思っていた。
 だからSNSもやったことがなかった。noteという場所で、何かを伝えようとも思わなかった。
 人の目に触れるということは、それだけで毒や悪を作り出すことになりかねない。
 人の心と誰かの心が触れる時、さながら触れた瞬間が触媒のように働いて、一つの反応を引き起こす。
 その反応が善意や希望や喜びであればいい。でもその反応が誤解や敵意や怒りといった暗い色を含むなら、最初から触れないほうがいいし、関わらないほうがいい。
 ずっとそう考えてきた。

 その思いは今も変わらない。私は仏教という道に立って生きる人間だから、俗世の習わしから潔く距離を取り、静寂の底で息をし、自分にとって価値あることだけに時間を使う、それが正しいことだとわかっている。
 だけれど現実の世界はどうやら急速に毒と悪が回り始めていて、いつまで続くかわからない、そんな不吉な予感さえ抱かざるを得ない状況で、今回起きた ”事件” もまたその巨大な禍々しい潮(うしお)の流れの中で起きたことだということが、ようやく見えてきた気がする。

 本当を言えば、まだこの出来事を、この場所で伝えることが価値あることなのかはわからない。
 私はどこまでも静寂と暗がりを愛する性格で、しかもこの出来事は、どうしてもある人物のことを語らねばならない、そういう性質のものだから。もしすべてを明らかにすれば、衝撃を受ける人もいるかもしれない、ならばできる限り静かに、この人物みずからによる幕引きを待つほうがいい。そんな思いは今もある。
 だが、どうやらある人物は、自分がやったこと、言っていることが正義だという立場を崩さないらしく、そればかりか平気で事実と異なることを語り、犠牲者を演じ、何も知らない人たちの同情と義憤とを誘っているばかりでなく、放っておいたら新たな被害者も出てくるかもしれない、そんな状況を続けるつもりらしいから、こればかりはもう仕方ない、やっぱり黙っているわけにはいかない、少なくとも事実だけは明らかにしておかないと――そう思うようになった。
 
 この出来事が明らかになれば、今回起きたことが、いや、今なお起きていることが、私と、私が依って立つ仏教と、仏教を使ってその ”何か” を企んだある人物とを越えて、この世界に生きるすべての人たちにとって、特にnoteという場所で日々創作と表現に励んでいる人たち、文章や絵やその他の作品をSNSに挙げている人たちにとっても、きわめて大きな意味を持つことを、きっとわかってもらえるだろうと思う。

 その大きな意味とは?――そう、生成AIによる権利の侵害だ。

 いや、権利の侵害という言葉では足りないかもしれない。人間がこの地上に出現して、土器や石器を作ることから始まって、絵画や舞踊や音楽や文学や詩や研究や写真や映画や漫画やアニメといった無限にも見える人間の創造という営為が、生成AIによって大規模に、しかも一瞬で掠め取られてしまう。そういう ”収奪” とさえ呼んでいい現象が、今まさに世界中で起きている。
 誰かが真心を込めて作ったものや、誰かに届けよう、伝えようと、その貴重な時間を費やして精一杯作った作品が、どこの誰とも知らない人間に、いつの間にか複製され、改変され、しかもなんの連絡もなく、対価を払うこともなく別の場所で誰かの利益のために、いいように使われている――。
 真実を知った本人には、ショックという言葉では足りない。騙しというか、盗みというか、略奪というか――いや ”辱め” だ。自分の大切なものが、誰かの欲望の餌にされてしまう。自分の中で育んできた誠意も努力も信頼も時間も、すべてが、その姿を一度も見せたことのない他人に、道具として利用されるのだ。
 そして事態が発覚した時に、その他人は平然とこう言うのだ――「それは、おまえが公開していたものじゃないか」と。
 言われる側の気持ちを想像すると、胸が痛くなる。その盗んだ人間の悪というか、あまりに心のない仕打ちというか、人の心を踏み躙(にじ)ってなお平気でいられる、その姿に言葉を失う。

 この世界は理不尽だ。奪われる側にとっては辱めであっても、奪う側は平然と言ってのけるのだ。欲しかったから、便利だから、自分が正しいことだと思ったから、ほら、こんなにも求めている人がいるじゃないか、と。
 手にした側にとっては、誰かが作った ”作品” という人生の一部さえ、戦利品なのだ。真似て、変えて、コピーして、吸い取って、そこに別のパッケージ(装い)を被せれば、まったく違うものに見せかけることができてしまう。
 そして誇らしげに言うのだ――これは「世界初」の、自分が開発した、画期的なものなのだと。自分は高尚な動機をもって、これを人々に「届けたい」のだと。
 その装いの中に潜んでいるものは、実は他の誰かが精魂込めて作り上げたもので、その本人は今も「やめてくれ、使わないでくれ」と痛みを堪えて訴え続けているのに、奪った側はその声に耳を貸そうとはしない。
 こうした理不尽が、今、世界中で起きている。

 私が偶然遭遇した今回の事件もまた、そうしたきわめて現代的な現象の一つだ。
 一つではあるが、前例を見ないほどに大規模にして公然としている。現にこの事業はつい最近まで、数多くのプレスリリースを打って宣伝を重ねてきた。これは人を助ける事業だ、自分は仏教を広めたいのだと、一見真っ当に聞こえる言葉を発信し続けてきた。もしかしたらあなたも、この事業に興味を持ち、惹かれ、課金に応えたことがあるかもしれない。
 だが今から伝える真実を知れば、きっとそうした人たちも、この事業が、人の創造物を、いや人間の尊厳そのものを、いとも簡単に蹂躙したうえに成り立っていた虚業であったことをわかってもらえるだろう。

 私は仏教徒であって、あくまで平和と平穏とを愛する人間で、本当は生涯、不特定多数の人の目に触れるこうした場所には出ることはないと思っていた。
 だけれど、さすがにこの事件を見過ごしては、この先、もっともっともっと多くの人たちが、その表現を、時間を、尊厳を、見知らぬ誰かによって奪われる事態を招くかもしれない。そんな事態になってしまったら、世の中は、やった者勝ち、奪った者勝ちの滅茶苦茶な世界になってしまう。いや、すでにそうなりつつある。すでになってしまっているかもしれない。
 そんな現実を肯定してしまったら、今以上に苦しむ人、奪われる人が増えてしまう。平気で嘘をつける不誠実な人間が利益と称賛を得て、真面目に努力する表現者・クリエイターが馬鹿を見る。
 それだけは容認してはいけないことだし、私が師と仰ぐブッダでさえも、みずからの教えを心無き者にいいように利用されることを是としなかったから、やはり声を上げなければならない――。
 何度もためらったのちに残った思いがそういうものだったから、こうしてようやく重たい腰を、いや重たい口を開くことに決めた。

 最初のあいさつの最後に、noteという場を愛するあなたに伝えたい――これから伝えることは、すべて、きちんとした証拠を伴う真実です。
 私は仏教徒だから、嘘はつきません。誰かを苦しめてまで自分の都合を押し通そうとも思いません。
 自分の正しさにこだわるつもりはまったくなく、むしろ自分という存在なんてどこまでも暗闇の中で静かに生きていられればそれで十分だと思う性分なのだけど、この事件のことだけは、あなたに、みんなに、聞いてもらわねばならない。心からそう思います。
 これから真実を伝えるから、それぞれの場所で、自分がどう動けば、どんな声を上げれば、この世界に希望が、幸せの可能性が増えるのか、そんなことをこの事件を機に一緒に考えてもらえたらと思います。

 では、始めていいですか――「一人の仏教徒」が体験した、生成AIと仏教との間に起きた、痛ましく、哀しく、憤りを感じざるを得ない前例のない事件の話を。


※この投稿は、時系列に沿って進めていく予定です。ただし、どうしても人と社会への影響は避けられないものなので、その時々の状況を見て慎重に進めていきます。
 リアクションやコメントには何もお戻しできないと思います。この投稿がこの世界への貢献にならないと判断したときには、静かに閉じることにいたします。
 この投稿を通して知った事実、調べてわかった事実、この投稿の存在そのものは、SNSを通じて、またそれぞれの場所において、他の人に知らせていただいてかまいません。
 この場所に集うすべての人に、心からの敬意を込めて。