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正しい議論は無意味である

 日常の論理に「反例があるから偽」というルールを適用したら、大抵のことは偽になってしまいます。日常の論理に絶対の正しさを求めたら、ほとんど無意味な発言しかできません。
 絶対に正しい議論とは、実は無意味な議論なのです。3例示します。


カラスは黒いのか?

 命題「素数は奇数である」は偽です。反例があるからです。「2」は素数ですが、奇数ではありません。
 命題「4の倍数は偶数である」は真です。これは証明できます。そして、反例はありません。論理的には、
  ◇ 真であることを示すには証明する
  ◇ 偽であることを示すには反例をあげる
そうすることで、真偽がはっきりします。
 ところで、このルールを日常の論理に適用すると、大抵のことは偽になってしまいます。

 さて、カラスは黒いのでしょうか?
 これが真だと証明できるかというと、すべてのカラスをチェックすることは現実的には無理ですね。ということは、真であることを示せないということです。
 それでもガンバってチェックしてみるとどうなるでしょうか。おそらく、やがて反例に巡り合って、「カラスは黒い」が偽であることを示す結果になるでしょう。突然変異で黒くないカラスだってどこかにいるでしょうから。
 「Aさんは正直者である」という文も、「正直者=ウソをついたことが無い」と解釈すると、偽になるでしょう。誰だって一度くらいはウソをついたことがあるでしょうから。
 だからといって、「誰でも一度はウソをついたことがある」と言ったら、これもたぶん偽になります。世界中に一人くらいはウソをついたことがない人だっているでしょうから。
 少なくとも、どちらの文も真であると証明することは不可能です。

 さて、カラスの話に戻りましょう。ではどうすれば、カラスの色について論理的に正しい表現ができるでしょうか。
 「カラスは黒い。ただし、例外を除く」はどうでしょうか。いいえ、こんなのは全然ダメです。これが良いなら、「地球は平らである。ただし、例外を除く」も良くなってしまいます。
 「大抵のカラスは黒い」はどうでしょうか。いいえ、これも全然ダメです。まず「大抵」というのがあいまいですし、そもそも統計を取らずにそんなことが言えるはずがありません。
 「私が見たカラスは黒かった」というのはどうでしょうか。残念でした、これもダメです。これは「私が見た宇宙人には目が3つあった」というのと同じで、「勝手に言ってろ」という話です。

 カラスの色について論理的に正しい表現は1つしかありません。それは「黒いカラスは黒い」です。
 日常の論理に「反例があるから偽」というルールを適用したら、大抵のことは偽になってしまいます。日常の論理に論理学的な正しさを求めたら、ほとんど無意味な発言しかできません。

「ソクラテスは死ぬ」のか?

 論理学の教科書にしばしば出てくる例(もしかしたら古代ギリシャの時代から使われてる例文なのかもしれません)に、次のようなものがあります。

前提1 : すべての人間は死ぬ(べき存在である)。
前提2 : ソクラテスは人間である。
結論  : よって、ソクラテスは死ぬ(べき存在である)。

前提1と前提2から結論が導けますから、これは正しい演繹です。
 でも実は、これでは「ソクラテスは死ぬ(べき存在である)」ことを証明したことにはならないのです。なぜでしょうか?
 結論が正しいと言えるためには前提1と前提2が正しくなければならないのですが、前提1と前提2を吟味してみると、それらが正しいかどうだか怪しいのです。
 まず、前提1について。これまでに死んだ人を書き連ねても、前提1が正しいことを示したことにはなりません。前提1が正しいことを示すためには、いま生きている人とこれから産まれてくる人がすべて死ぬことを示さなければならないのですが、それは不可能です(まぁ人類が滅亡すると言えればいいんですが、それは予言であって、証明ではない)。つまり、前提1が正しいことはどう転んでも示せないのです。だから、結論が正しいとは言えないのです。
 前提2「ソクラテスは人間である」を正しいものとして前提1を考えると、またまたおかしなことが起きてきます。「すべての人間」の中には当然ソクラテスも含まれます。ということは、「ソクラテスが死ぬ」ことを確認してからでないと、「すべての人間が死ぬ」ことが言えないのです。結論が成り立たなければ、前提1は成り立たないのです。つまりこの論法は、結論を認めた上で、いったん前提1へ迂回して、再び結論が成り立つと主張しているのです。
 次に、前提2について。これを示すためには、まず「人間」を定義しなければなりません。「条件 ・・・ を満たすものを人間という」のように。その上で 「ソクラテスは・・・を満たすから、ソクラテスは人間である」と、このように前提2を示すことになります。
 でも、これも単に迂回しているにすぎません。というのは、なにもソクラテスを含む集団を定義しなくても、ソクラテスだけを定義すれば十分ですよね。そうすると、前提2は「前提」というより、「定義」そのものになります。
 つまり、前提2は「ソクラテスを人間と定義する」というのと実質的に同じです。要するに、前提2は「正しいか正しくないか」という問題ではなくて、単に一方的に「宣言」しているにすぎません。
 以上まとめると、

前提1 : すべての人間は死ぬ。
前提2 : ソクラテスは人間である。
結論  : よって、ソクラテスは死ぬ。

この最初に挙げた例文は、

定義 : ソクラテスや他のある者を人間とする。
前提 : (ソクラテスを含む)すべての人間は死ぬ。
結論 : よって、ソクラテスは死ぬ。

と同じです。そしてこの論は、「人間」に言及しなければ、

前提 : ソクラテスと他のある者は死ぬ。
結論 : よって、ソクラテスは死ぬ。

と同じです。さらに、「他の者」に言及しなければ、

前提 : ソクラテスは死ぬ。
結論 : よって、ソクラテスは死ぬ。

と同じです。
 演繹とはそういうものです。前提から結論を導くことはできても、結論が正しいことは示せないのです。前提が正しいことを示せないからです。前提が結論を含んでいるから、必然的にそういうことになります。

バカを論証する

 次の2つの文のうち、絶対に正しいのはどちらでしょうか?

(文1)~~と言う人はバカである。
    ○○は~~と言った。よって、○○はバカである。
(文2)○○は~~と言った。よって、○○はバカである。

(文1)を「命題」と受け取れば、これは絶対に正しい。誰が見ても正しいはずです。典型的な3段論法です。一方、(文2)は絶対に正しいとは言えない。誰が見ても正しいとはとても言えないでしょう。
 ところで、(文1)と(文2)を比べてみると、(文2)は(文1)の一部です。(文2)に「~~と言う人はバカである」という条件を付け足したものが(文1)です。つまり、(文2)だけでは正しくないけれど、それにもう1つの条件を付け足すことで、(文1)が正しい文になるということです。
 でも、(文1)の方が(文2)よりも優れていると考えたら、大間違いです。(文2)は(文1)の出来そこないだと考えるのも、大間違いです。説明しましょう。

 「(文1)が正しい」という意味は、「前提から結論を正しく導いている」という意味です。決して、「前提が正しい」ということでもないし、「結論が正しい」ということでもありません。つまり、(文1)は絶対に正しいのだけれども、「○○がバカである」ことを示したことにならないのです。
 (文1)において「結論が正しい」ことを言うためには、「前提が正しい」ことを言わなければなりません。さて、どうやったら「前提が正しい」ことが言えるでしょうか?
 ここで2つ目の前提「○○は~~と言った」は正しいものとしましょう(現実には「誤解だ、曲解だ、揚げ足取りだ」のように、ここが問題になることが多いのですが、ここではそういうことは除外して考えます)。そうすると、1つ目の前提「~~と言う人はバカである」が正しければ、結論が正しいことになります。
 では、どうすれば「~~と言う人はバカである」が正しいことを示せるでしょうか? ここでちょっと、それと(文2)を見比べてください。

(文1)’~~と言う人はバカである。(文1の前提)
(文2)○○は~~と言った。よって、○○はバカである。

(文1)’は(文2)よりはるかに多くのことを述べなければならないことがお分かりいただけるでしょうか。(文2)は「○○は~~と言ったから、○○はバカだ」と言っているのに対して、(文1)’は「~~と言う人は、みんなバカだ」と言わなければならないのです。(文2)は「特定の場面において、特定個人のことだけ」を言えばいいのに対して、(文1)’では「誰であっても、どんな場面であってもそれが成り立つ」と言わなければならないのです。(文1)’が正しいと示すことは、(文2)が正しいことを示すより、ずっとハードルが高いのです。当たり前です。(文1)’は(文2)を含んでいるからです。
 ところで、(文1)も(文2)も結論は同じです。「○○はバカである」、これがゴールです。では、スタートは?というと、(文2)にとっては「○○は~~と言った」こと、これがスタート(根拠)です。
 では、(文1)にとってのスタートは何でしょう? 形式的には「前提」が(文1)のスタートなのですが、先ほども申しあげたように、それでは結論が正しいことを示したことにならないのです。それでは、ゴールにたどり着かないのです。「○○はバカである」というゴール(結論)にたどり着くためには、上記(文1)’を示さなければならなくて、それは(文2)を含みますから、結局のところ(文1)のスタートラインは(文2)のそれと同じだと考えざるをえないのです。
 ここでもう一度(文1)と(文2)を見てみましょう。

(文1)~~と言う人はバカである。
    ○○は~~と言った。よって、○○はバカである。
(文2)○○は~~と言った。よって、○○はバカである。

(文1)は絶対に正しくて、(文2)は正しいとは言えないわけです。(文1)は前提から結論が正しく導けますが、(文2)では前提から結論を正しく導いているとは言えませんから。
 (文2)は論理的にぶっ飛んでいます。確かにそのとおりです。でも、(文1)を使って結論が正しいことを示そうとしたら、もっと激しくぶっ飛ぶしかないのです。

 そのことを図に表すと、下のようになります。図の階段の高さは「情報量」を表しています。

(文2)は上にジャンプしています。先ほどは「ぶっ飛ぶ」と言いましたが、「論理が飛躍している」と言ってもいいでしょう。
 一方、階段を降りるようなイメージのものが(文1)です。前提の方が情報量が多くて、論証を進めるうちにだんだんと情報量が減っていって、結論に至ります。ここには一切の飛躍はありません。「前提から結論を正しく導く」というのはそういうことです。
 けれども、そのことと「結論が正しい」かどうかは別物で、結論が正しいことを示すためには、前提が正しいことを示さなければならなくて、そのためには(文2)のジャンプよりはるかに大きなジャンプ(論理の飛躍)をしなければならないのです。そして、そうなると飛躍が大きい分、(文2)よりよっぽど怪しい議論になるでしょう。結局のところ(文1)で「結論が正しい」ことを示そうとすると、無駄に遠回りをして、無茶な飛躍をして、論理的に破綻するのがオチなのです。

 では、どうすればいいのでしょう? 単純な話です。(文2)で語ればいいのです。「○○が~~と言ったこと」が「○○はバカだ」と判断する十分な根拠になると思えば、「○○はバカだ」と判断すればいいのです(それを公言・放言するかどうかは、また別の話です)。
 (文2)で語るときのポイントは説得力です。根拠をきちんと説明することです。でも、絶対に「正しい論理」になんかなりません。それでいいんです。
 記事「論理には4種類ある」で論理を「記号論理」(命題論理)と「数学の論理」と「科学の論理」と「議論の論理」の4つに分けました。(文1)の論理が「記号論理」(命題論理)です。(文2)の論理が「議論の論理」です。

◇      ◇      ◇

〜 論理的正しさの化けの皮 〜 
▷ 論理には4種類ある   
▷ パラドックスのからくり 
▷ 正しい議論は無意味である


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