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「生きる」と「観る」が分かれなくなった日のこと


「瞑想、続かないんです」

そう打ち明けてくださる方に、これまで何人もお会いしてきました。アプリを入れて、静かな音楽を流して、目を閉じて。けれど三日もすると、いつの間にかやらなくなっている。そして「自分は意志が弱いのかもしれない」と、どこかで自分を責めてしまう。


こんな経験は、ありませんか。

実を言うと、私自身には「瞑想をする」という感覚が、もう長いことありません。25年以上、瞑想と呼べるものを続けてきたはずなのに、です。今日はその、少し不思議な話をしてみたいと思います。

私には「瞑想をする」という感覚が、あまりありません

なぜかというと、生きていることそのものが、ずっと瞑想のようなものだからです。

朝、目が覚めて、まず体の調子を見ます。よく眠れたのか。体は重いのか、軽いのか。人と会ったあとに、どんな疲れ方をしているのか。食べたものが、体にどう響いているのか。気持ちは揺れているのか、静かなのか。

そういうことを、私はいつも、なんとなく観ています。特別な時間を区切っているわけではありません。ただ、起きている間じゅう、自分の内側で起きていることに、目を配り続けている感じなのです。

17歳のときにタイへ留学し、ヴィパッサナー瞑想(観察を通して、ものごとをありのままに見る瞑想)に出会いました。あれから25年以上。気がつけば「観る」ことは、私にとって暮らしそのものになっていました。

サティ——「今、何が起きているかを忘れない」という実践

原始仏教には、サティ(sati)という言葉があります。

一般には「気づき」や「マインドフルネス」と訳されることが多いのですが、本来の意味は、もっと生活に近いところにあります。

歩いていることを、知る。座っていることを、知る。怒っていることを、知る。疲れていることを、知る。体が緊張していることを、知る。——つまり、今、自分に何が起きているのかを、忘れないでいること。これがサティです。

おもしろいのは、ここで求められているのが「無になること」でも「心を空っぽにすること」でもない、という点です。怒っていてもいい。疲れていてもいい。ただ、その怒りや疲れを「ある」と知っていればいい。消そうとしなくていいのです。

瞑想と聞いて多くの方が思い浮かべるイメージと、ずいぶん違うと思いませんか。

静かな部屋で目を閉じることだけが、瞑想ではない

もちろん、静かな部屋で座り、目を閉じ、呼吸を見つめる——あの時間も、とても大切な実践です。私もその時間を否定するつもりは、まったくありません。

けれど、私にとっての瞑想は、それだけにはとどまりませんでした。

朝の体の重さ。誰かと話したあとに、胸のあたりに残る感覚。心がざわりとする瞬間。ふっと安心がおとずれる瞬間。そうした日常の小さな変化を、見つめ続けること。それ自体が、私には瞑想にとても近いものに感じられるのです。

そう考えると、「瞑想する時間がない」という悩みは、もしかしたら少し形を変えるかもしれません。時間をつくれないのではなく、すでに過ぎていく一日のなかに、観るための材料がいくらでもある、ということなのですから。

「生きる」と「観る」が、分かれていない

だから私のなかでは、「生きる」と「観る」が、あまり分かれていません。

どこかに特別な時間をつくって、そこで瞑想する。そういう感覚ではなく、生きていることそのものが、もう観察であり、気づきの実践になっている。座布団の上だけが道場ではなく、台所も、通勤電車も、人と向き合う数分間も、ぜんぶが「観る」場所になっている、という感じです。

これは、頑張って到達した境地、というわけではありません。25年という時間をかけて、ゆっくりと、生活のほうが瞑想に溶けていった、という方が近いように思います。

健康も、たぶん同じ構造をしている

そして私は、健康というものも、これと同じ構造をしているのではないか、と思っています。

健康とは、症状を消すことだけではありません。今、自分の身に何が起きているのかを知ること。体だけでなく、感情も、思考も、人間関係も含めて見つめること。その積み重ねが、少しずつ、自分という存在への理解を深めていきます。

私はもともと、言葉を訳す仕事を長くしてきました。通訳という仕事では、自分の状態が揺れていると、訳すものまで濁ってしまいます。聞こえてくる声をそのまま渡すには、まず自分が静かでなければならない。——自分を観るというのは、だから贅沢なことではなく、誰かのそばに立つための前提条件なのだと、私はずっと感じてきました。

支える人ほど、自分を観てあげてほしい

これは、誰かを支える立場にある方ほど、切実なことかもしれません。

医療や対人支援の現場にいる方。人をケアする仕事をされている方。家族の体調を、いつも気にかけている方。支える人自身は、案外、誰にも支えられていないことが多いのです。自分の状態を後回しにし続けたまま、ずっと誰かのために立ち続けている。そんな方を、私は何度も見てきました。

だからこそ、6月28日に横浜で、小さな会を開きます。テーマは「人を支える人が、自分を支えるために」。予防歯科の視点から森到先生に、そしてHealy(パーソナルなウェルビーイングを観るための機器)による体験デモを館林保江さんとご一緒にお届けします。会場は日本大通ビル パークホール、定員30名・参加費2,000円のささやかな集まりです。ご都合が合えば、ぜひいらしてくださいね。
→ https://peatix.com/event/5027950

生きていることが、瞑想みたいなもの。それは険しい修行ではなく、日々のなかでサティを忘れずに生きていく、というだけのことなのかもしれません。その静かな一歩は、今日のあなたの体調を、一度ていねいに見てみる。そんなところから、始められます。

——「観る」という実践をもう少し深めたい方には、25年分の時間をまとめた拙著『観る瞑想』(Kindle)もあります。
→ https://amzn.asia/d/0jg4qGc

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ヨーコ 17歳でタイにてヴィパッサナー瞑想を学び、25年以上実践。CIF認定TimeWaverプラクティショナー。神奈川歯科大学大学院 統合医療講座修了

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