フジファブリック "記憶を美化し季節に敏感でいれる"
フジファブリック
2014年に初めて存在を知ってから今の今までずっと好きなバンド、について今から文章を書き進めていく。長くなりそうな予感がする。どうしてこの文章を書こうと思ったかというと、ツイッターでフジファブリックの歌詞が話題になっているのを見かけたから。色んな人にフジファブリックの曲と共に記憶や思い出があり、感情があり、そこに自分も便乗したくなった。書きたいことや想いは溢れるほどあるのだが、どれも断片的で上手く言語化できるか分からないが、書き進めていくうちに曖昧な部分も言葉になっていくだろうと信じて書いていきます。
フジファブリックとの出会い
遡ること2014年の秋、フジファブリックに出会う。
スピッツのロックロックこんにちは!というライブの1日目 9/25に行ったのだが、フジファブリックは9/26に出演していた、のでライブを見て知ったとかそんな感じではない。きっと理由も何もなかった。直感でなにこれって思って数日後、YouTubeで検索した。実際にみた25日に出演していたアーティストよりもなぜか気になってしまった。バンド名だけで。
2014年のYouTubeは今と比べると著作権とかのルールがガバガバでそこら中にライブ映像が溢れていた。正直かなりありがたかったというのが本音。当時、学校から帰ってやることといえばYouTubeに溢れていたスピッツのライブ映像を観ること。飽きるくらいに見た、ライブMCも一言一句言えるくらい。ちなみに後にそれらのライブDVDはちゃんと買ったので許して欲しい。スピッツに関するnoteもいつか作りたいと思っているのでここではスピッツの話は一旦置いておきます。
そして2014年の9月、学校終わりのルーティン "スピッツを聴く" にフジファブリックが入ってくる。初めて聞いたフジファブリックの曲はSTAR。2014年のMETROCKというフェスにフジファブリックが出たときのライブ映像を見た。そこからダンス2000とか徒然モノクロームとかLIFEのライブ映像も見た。今思えばダンス2000とか象徴的な曲なのに当時の自分にはそんな印象に残らなかった。そして2014年のROCK IN JAPAN FES.の夜明けのBEATのライブ映像にたどり着く。今でも忘れない。あのイントロを聴いた瞬間に衝撃を覚えた。びっくりした。なんじゃこれは!?と。イントロのギターリフに衝撃を受けて、一瞬で終わるサビにまた衝撃を受けて、ギターソロの総さんの背面ギターにまた衝撃を受けて、そしてサビに戻ってアウトロでまたあのギターリフ。すぐに2回目再生した。決めつけはよくないけど、あの類の衝撃を音楽、というかギターリフで味わうことはこの先、二度とないんだろうなと思う。実際、2014年から2026年の今までは一度もなかった。夜明けのBEAT一曲だけ。
でもこの衝撃、まだ終わらなかった。夜明けのBEATのことが忘れられなくて、翌日に今は亡き近くのTSUTAYAに行ってシングル集と夜明けのBEATが入っているという理由で『MUSIC』を借りた。家に帰って、WALKMANに入れてすぐに夜明けのBEATを再生する。ここで頭が混乱する。声が違う。昨日、ライブ映像で聴いたボーカルの声じゃない。すぐにWikipediaで調べる、そして志村正彦を知る。遡っていくように、ある意味、人とは違う志村との出会い方だった。
この日を境にフジファブリックの虜になった。狂ったようにフジファブリックの音楽を聴いた。受験生なのに勉強に全く身が入らなかったのはフジファブリックのせいでもある。けどあの頃の嫌な記憶さえもフジファブリックの曲と共に美化できる。
茜色の夕日
人生で出会ってきた数々の音楽のそれぞれに記憶と感情が伴っていて順位をつけるのはほぼ不可能。どれも大切です。だから何番とかは言わないがこの曲がその一つであることは確か。1番なのかはたまた10番なのかそれはワカラナイ。ただずっと聴き続ける曲です。
2008年の富士吉田市のライブ映像で初めてこの曲を聴いた。この曲、というか映像を見終わったときに彼はもうこの世にいないんだと悲しくなったのを覚えてる。あの志村のMCは15歳の自分に理解するのは少し難しかったし、なんなら20歳の時もなんとなーく分かるような分からないような、と解像度はそんなに高くなかった。今が一番響く。それはこのライブをしたときの彼が27歳で2026年、自分もまた27歳になる。彼の苦悩を理解できるなんて思わないが自分の苦労が彼の作る音楽や言葉に救われている感覚は昔よりも強くなっている気がする。
MCを要約すると「普通の大人になりたくなかったから音楽を始めたのにそれを不安視している自分がいて、かたやなりたくなかった大人になっていく普通の人たちが妙に幸せそうに見えて、そういう人たちが羨ましくなって、また不安になる。」
自分で進むと決めた道なのにそこにいる自分をこれでいいのだろうかと不安視して、別の道を歩いている人の方が幸せそうに見えるってことだと解釈しています。

このMCの話には後から繋がるのだが、一旦2022年に遡る。茜色の夕日のジャケット写真は有名な高円寺陸橋。2022年の10月、無職になった自分は初めて高円寺に向かいました。乗り換えや乗り継ぎで東京駅や羽田空港に行ったことはあったが、今まで人生で一度も東京の地に降り立ったことはなかった。新卒で入社した会社の配属で9月末に人生初、東京の街に降り立ち、配属初日の10月1日にほとんど勢いみたいな感じで辞めますと言って会社を飛び出した。ここにいてはいけないと感じた。無職になった。いけないことをしてしまったという後ろめたさはありつつ、敷かれたレールから逸れるという経験から肩の荷が降りたような気がした。
無職になったので予定も責任も何もかも無くなった。その瞬間、高円寺に行こう、というか高円寺に行く以外にすることは思いつかなかった。午前中に会社を辞めて、その日の午後、高円寺をひたすら歩いた。志村正彦を感じるために。高円寺駅、高円寺陸橋、Los Angeles Club、全部行きました。そこに志村正彦はもういないと分かっていても、かつてそこにいたという事実だけで良かった。やっと来ることができた。歩道橋で茜色の夕日を聴いた。
その日の夜、確かに東京の空の星は見えないこともないなぁとなんとなく思った。なんとなく。フジファブリックを聴いている夜は孤独でも寂しくない。この日、一人で過ごす時間があったことが良かった。会社を辞めてすぐ新幹線に乗って帰っても良かったのだが、そうではなく高円寺に行ったことでこの日のことを良い記憶として保存できている。また東京に来たいと思った。



そして仕事を辞めてからの半年間は何がしたいのか、はたまた何ができるのかを考え、たどり着いた今の場所であり今の仕事なのだが、今の仕事ももう辞めたくなっている。昔の会社の時のような勢いではなく、今はなぜ辞めたいと感じるのか明確に言語化できるし、それに関しては前回のnoteでしている。
ここでMCの話に戻るのだが、今の自分の状況が自分で良かれと思って選んだ場所にいるはずなのになぜかこれで良いのだろうかと常に不安で、逆にあの時の会社で辞めずに今も続けている一緒に入社したあの人やあの人はもうすぐ5年目になり、少しは良いポジションについているのかしらと考えても仕方ないことを考える。羨ましいと言ってしまうと何も知らないくせにと言われそうだし、まさにその通りなのでそうは言わない。
志村がMCで話していた「のほほんと楽しそうにやっているように見えるかもしれないが、喜びを感じる瞬間なんてほんの一瞬で、音楽をやってきた9年間は楽しいだけではなかった」というようにみんなどこかで見えない苦悩を抱えていて、それでも何とか生きているのなら自分もそうでありたいと思うし、今の自分は彼の言葉に背中を押されている。前を向くとかポジティブな言葉はあまり好きではないが、少しはそうでありたいとも思うようになった。
茜色の夕日という曲から記憶を辿り、結果的に曲とは関係ないところに着地してしまった感じがする。結論もよく分からないけど、無理にまとめるなら自分のことを不安視しない自分でいたい。自分が良いと思える場所や環境、人間関係をまた見つけられたら良いみたいなことだと思います。

CHRONICLE - 弱い自分も肯定できる
フジファブリックのアルバムで一番、というかこの世界に存在する全ての音楽作品の中で4th アルバム『CHRONICLE』が自分の中で一番大切なアルバムで思い入れがある。仮にこれから長い時間をかけてこの世界に存在する全ての音楽作品を聴いたとしても『CHRONICLE』が自分の中での一番、ここだけはブレないと言い切れる。

ではなぜこのアルバムに強い想いがあるのかというと、ここも感覚の部分で上手く言葉にできるか分からないが、端的にいうなら題名に書いたよう "弱い自分も肯定できる" から。志村正彦という人物に会ったこともなければ話したこともない、だけど彼は完璧主義者で外側はガチガチに固めているけど、実はとても弱くて繊細な人物なんだと思う。このアルバムを聴けばそう感じる。バンドとして大成功と言えるくらいに人気はあっただろうし、彼の日記を読んでもライブもツアーも上手く行っていたように思えるけど、彼はずっと孤独と隣り合わせで常に悲しみや寂しさの中を生きていたように思う。
「君は僕のことを 僕は君のことを
どうせ忘れちゃうんだ そう悩むのであります」
クロニクルの歌詞、不特定多数のリスナーに向けてというよりかは明確な "あなた" がいる。だからあなたに届けばいい。そんな想いを感じます。弱いなぁと思いながらも自分もそうでいいと思える。少なくとも志村がそうだったならば。
"誰かと関わると出会う前の自分には戻れなくなってしまう。それが幸福なことか不幸なことなのかは分からない" というのは自分が読んだ小説の一部分なので自分の言葉ではないのだが、この部分が自分の中でとても印象に残った。というのは、過去の経験や記憶、関わった人の影響を受けて今の自分自身を形成していると信じている、もしくはそういう考え方に変わったので、"わたし" と あなたと関わった "わたし" 、それら全てを含めて今の自分自身であるのなら、それらを肯定しなければいけないと思う。もしくは肯定してみようかなと少し前向きになれる。それならば目を背けたくなるような事実でさえもきっと必要なことだったと美化してくれるような気がする。それは強くあることとはまた違う、自分の中だけで消化できる感覚なのかもしれないが。
「キミに会えた事は キミのいない今日も
人生でかけがえのないものでありつづけます」
そしてもう一つ、このアルバム、もしくはフジファブリックの音楽を聴くことで普段意識しない、けど心のどこかに常にあるような感覚に意識が向く。また何気ない日常の風景に敏感になれる。それは当たり前の日常が実はいちばんの贅沢だったと気が付いたから。非日常が日常になってしまうと良くも悪くも感覚は麻痺する。少なくとも自分のような性格を持ち合わせている人間には。孤独じゃないのに孤独を感じたりする。ワカラナイ。本当はそうかもしれない。周りに人がいる、いないだけではなくて心の貧しさも孤独を定義する上での一つの要素になる。日々、何百人という人に囲まれていても、逆に一人で暮らしていても前者と後者、どちらが孤独なのかは人それぞれ。
行ってみたかった大抵の国には行ったし、五つ星のホテルにも何度も泊まった。だがこれらの体験で一時的に感激することはあってもすぐに忘れてしまう。これはまさに自分の性格の話で、Material (物質的なもの) が満たされたとしても、内側が枯渇しているならば、一時的には感激してもすぐに忘れちゃうよなぁと俯瞰的に自分の生活を見たときにそう感じる。
「映画をみて感激をしてもすぐに忘れるから」
ここで志村のいう映画というのが物質的な豊かさとすれば、この歌詞がまさに今の自分自身と重なる。
だから今の自分にとって心を満たすための手段を考え、とにかくインプット、アウトプット(note)を繰り返すことで内側から満たしていく努力をしている。数はそんなに重要ではないのだが、今月だけで3冊本を読んだし、歌詞とは少し矛盾するようだが、映画を見たり、普段は見ないドラマを見たり。これらは全てインプットで、本や映画やドラマに感激を求めているわけではなくあくまで共感を求めている。誰かの表現や感情に共感できたときに自分の知らないどこでもう一つ孤独があるなら大丈夫かと名前のない安心感を覚える。(さっきから意味の分からない言葉ばかりを並べている気がする。ここまで読んでいる人がいるならどうか伝わってほしい)。
「僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ」
そして最後、僕は結局ちっとも何にも変われずにいるってのが志村らしくて良い。人ってそんなすぐに変われないよなぁと改めて思う。仮に今悩んでることが数年後にはどうでもよくなっていたとしても、きっと別のことで頭抱えている自分は容易に想像ができるし、欲望も尽きない。けどそれでいい。そんな自分も肯定してくれているような気がする。少なくとも否定はされていない、そう解釈する。"同じ月" という曲。背中を押されるとか勇気をもらえるではなく、ただただ共感、自分も同じだと思えることに安心する。
10年前、ライブの帰り道、月が見えた。
アンコールで同じ月を聴いた日。

Gum
8th アルバム『LIFE』の2曲目。
この曲を聴くと自分の中の思考がいつもパンクしそうになる。想いに溢れてしまう。だからここで一度言語化しておきたいと思うのです。フジファブリックを題材に2月に書き始めたこの文章だが、今は3月に入り、脳内に散らばる断片的な思考や想いを言葉にするのには自分が思っている以上に時間とエネルギーを消費するんだと痛感。ぼくが住む街にはまたミサイルが落ちたけど生きているので文章を書き進めていく。深夜3時過ぎ、お気に入りのマグカップで珈琲を飲みながら自身の思考に向き合う。当たり前の日常がいちばんの贅沢とはまさにこのことだなぁと思う。
この曲の中にもクロニクルと同様に明確な "あなた" が存在している。だからここで書きたいのはあなたが自分の中で生き続けるということ。そしてこの歌には志村が抱えていた弱さみたいなものがそのまま生きているような気がして、ある意味この曲自体がCHRONICLEというアルバムの続きのようにも感じるのでこの構成にしました。
自分が過去に好きになった人の影響が自分のなかで生き続けている
という言葉が公式に公開されているアルバムのライナーノーツに残っている。確かに普段はあまり意識しないけど、言われてみたらそんな気がする、と共感。自分の考え方、嗜好、色んな方向から影響を受けている気がする。
考え方の変化でいうと自分の生活を彩りたいと思うようになったこと。以前のnoteでも少し書いたことだが、自分は初めて行った街でポストカードを買うようにしている。だから自分の部屋には色んな街で買い集めたポストカードが並んでいる。自分が好きな空間を作りたいと思うようになった。確実に影響を受けている。この感覚、色彩は自分のなかでずっと生き続けるんだろうなとこの曲を聴くと思います。
そしてもう一つ、この歌が抱える弱さや優しさみたいな部分に自分を重ねることで救われたような気持ちになる。花に対してあなたのように強くありたいと思う優しさや僕はまだ何も変われないんだというある種CHRONICLEから続いているような弱さ。フジファブリックというバンドの音楽を聴くと普段は意識しない、けど心のどこかにあるような感覚に意識が向く、そして過去の記憶を必要なことだったと美化してくれるような気がする。
Gumという曲はきっと春の曲。だから春に聴きたくなるけど、季節に関係なくずっと聴き続ける、と思う。フジファブリックの音楽には季節の風景や匂いがあって桜や金木犀や夏の終わりの花火、そういった日常のありふれた景色を特別視できる。書き始めでは曖昧だった思考も書いていくうちに少しずつ言葉になった気がする。伝わる形で言語化できているかは分からないが、少なくとも自分の中では消化できている。
今日から3月、もうすぐな桜の季節にはわくわくしている。穏やかな春を過ごしたいのです。話は変わり2024年、2025年の12月はストックホルムを訪れたのだが、今年は富士吉田に行ってみようかな。とりあえず長くなったのでこの辺で終わりにします。もしここまで読んでいる人がいるならばありがとうございます。
「いつか見てたあの花のように
少し ほんの少しでも
強くいたいと思うのです」

