ワイジの曲解 / 『ハンチバック』
お気持ち
市川沙央『ハンチバック』を読み終えて
ボキボキに骨折した中指がバキバキに突き立てられている。それが最初に出てきた感想だ。この本の語り手、井沢釈華は最初から最後まで一貫して全ての登場人物を馬鹿にしている。語り手自らも含めて、病める者も健やかなる者も、富める者も貧しき者も、馬鹿みたいに丁寧に、平等に侮辱している。どうしてこんな語り手なのか?なぜこうも捻じ曲がっているのか?
おそらく『ハンチバック』の構造自体が「蔑み」を必要としていたのだと思う。
どういうことか?まず、この物語には二つの要素が並べ置かれている。「フィクション性」と「当事者性」だ。本来これらは両立が難しく、綱渡りのように繊細なバランス感覚を必要とするところだろう。
だがその難題が『ハンチバック』においては露悪的かつ強引な方法で解決されている。「弱い語り手」としての釈華が「自嘲」することで自らを貶めつつ、周囲の他者を「蔑む」ことによって、自他もろともに全員が等しく泥の舞台という低みに叩き落とされる。そういう構造になっている。
つまり「蔑み」が役者たちの高低差を埋める舞台装置として物語の構造に要請されているのであって、その意味で『ハンチバック』の露悪とは構造のために設られたフィクションである。
わざわざそんなことをしてまで泥の舞台を整え上げていること自体に主題がある。そういう場所においてすら相対的な弱者が生まれてしまうということ。そして歪まざるを得ないということを開陳しているのがこの本だ。それを見ろ、ほら読めよ、という自爆攻撃をしている。ここまでしないとわからないでしょう?という苛立ちと侮りを孕んでいる。そういう弱さの特権性を利用した糾弾の構造に当事者性を見た。
この物語はフィクションそのものに仮託された代理的な当事者表象である。もしくは構造が捻じ曲がり過ぎた呪詛である。まるで複雑骨折した中指が全方向に突き立てられているよう。読めば読むほどそう思った。
だったら、殺すために孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?
それでやっとバランスが取れない?
ああ、俺はその言葉が羨ましい。低みからブチ上げられる高らかな呪詛が妬ましい。読み手に対して部分的な理解と共感を誘っておきながら、絶対的に届き得ない距離を取ってくる文章が腹立たしい。俺自身も障害者だというのに、その呪詛を十全には理解できないことにささやかな絶望を感じる。だから解体して引きずり降ろしたい。検分して、解釈を押し付けて、理解可能な範疇に貶めたい。
そういうわけで感想はここまでにして、ここからは偏見と連想で捻じ曲がった解釈を書いていこうと思う。あくまで個人的な曲解として。
曲解①『パルプ・フィクション』

まず一つ目の曲解。これはタランティーノ映画の『パルプ・フィクション』だと思った。
なぜか?端的にいって、物語が大きく転換する場面がエゼキエル書の引用だったからだ。その他にも〈怒りと断罪〉〈シャッフルされた視点による物語の多相性〉〈泥や体液のようなモチーフ〉〈粗製濫造〉〈猥雑な内容で扱われる固い主題〉〈命を買う〉…といった要素のひとつひとつが『ハンチバック』を読み終えた俺には『パルプ・フィクション』だとしか思えなかった。
ぶっちゃけ根拠としては決め手に欠けている。だが俺には確信めいたものがあったからこのnoteを書いている。下記のとおり抜粋引用しておくので話半分程度に読んでみて欲しい。
ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻めきたらせ、あなたをとおして、わたしの聖なることを諸国民の目の前にあらわして、(中略)諸国民はわたしが主、イスラエルの聖者であることを悟る。
主なる神は言われる、見よ、これは来る、必ず成就する。これはわたしが言った日である。
エゼキエル書(本物)引用と場面転換
エゼキエル25章17節。
“(中略)私は怒りに満ちた懲罰をもって兄弟を滅ぼす者に復讐をなす。彼らに復讐をなす時私が主である事を知るだろう。”
(中略)今朝いろいろあって初めてその意味を真剣に考えた。(中略)だが真実じゃねえ。真実は貴様が弱き者。俺が”心悪しき暴虐者”だ。
エゼキエル書(大嘘)引用と回心
1.柔らかく湿った形状のない物体
2.質の悪い紙に印刷された煽情的な内容の出版物
うん。正直これではこじつけの域は脱しきれない。
だがしかし俺はこう思った。『パルプ』の構造を下敷きにしているような理由でもなければ、『ハンチバック』のエゼキエル書の引用はあまりに唐突すぎなかったか?「ゴグよ」で急に踏み込まれたアクセルに置いてけぼりにされた読者がほとんどだろう。俺もそうだ。
だが『ハンチバック』がそんな雑な構造をしているだろうか?
この本に、無駄な文章があるわけなくないか?そこは信頼するに足るはずだ。マチズモの意味もわからずググった俺でも、文章の節々からこの物語が隙のない構成になっていることぐらいはわかる。それなのに釈迦や涅槃、仏陀のような仏教用語を出しておきながら、「釈華」の退場という重要場面ではいきなり旧約聖書を引用する。おかしくはないか?なにか導線はあらかじめ引かれてはいなかったか?
読み返してみると、ゴグに繋がる導線らしきものは一応あることにはあった。次のとおりだ。
私はInglesideの陶製の番犬ゴグとマゴグの描写にじっと目を凝らす振りをしている。
『炉辺荘(イングルサイド)のアン』を読む釈華
おそらくこの描写の主な意図は釈華との対比にある。「夢みがちな少女アンが大人になり家庭を持つ」という物語を、「インターネットにフィクションを垂れ流しながらグループホームで老いていく釈華」と対比させつつ、そのついでに同名の番犬を通してゴグに接続しているのだと思う。
だが、ぶっちゃけゴグの名前を出したのは「マジのついで」のような印象を受ける。もっと他にエゼキエル書に結びつくような導線はなかったか?
さらに探してみると、イスラエルに接続する次のような描写があった。
まだ卒業研究のテーマ決めに迷っている。ワーグナー『ニーベルングの指環』の侏儒アルベリヒに見られる反ユダヤ表象について?
「反ユダヤ」≒「イスラエルを攻めたてるゴグ」という図式を経由すれば、この部分もゴグに対する導線と読めないこともないかもしれない。ユダヤ人嫌いのワーグナーの名前は場面転換を挟んで二度も登場していた。侏儒アルベリヒの名とともに。
ワーグナー自身の身長は150から167センチまでの幅をもって推定されているが、小柄だったのは間違いない。指環を呪う侏儒アルベリヒは同族嫌悪の産物かもしれない。
…だからなんなんだ?俺は『ハンチバック』が『パルプ』かどうか判断できる根拠を探したくて何度も読み返している。反ユダヤ表象なんてどうでもいい。田中への当てつけであろう小人なんてもっとどうでもいい。だが読み返していると「侏儒アルベリヒ」が妙に目につく。意味的な密度と強度が高い『ハンチバック』において、ここだけが妙に浮いている気がする。市川沙央に限って、何の意図もなしにそんなことがあるだろうか?
「侏儒」という単語にいたっては作中に三回も登場していた。
体験入店のとき、奥から赤いスーツを着た侏儒が出てきそうな真っ赤なカーテンが気に入ったからとりあえずこの店でいいやと思ったのである。
ここで気づいた。あーあ、馬鹿みたいだ。この3回目の「侏儒」に限ってはアルベリヒじゃない。ましてや『パルプ』に出てくる小人でもない。『ツイン・ピークス』だ。
「デヴィッド・リンチ作品における障害者表象」
これらの描写はおそらくセットで『ツイン・ピークス』の「小人」を参照している。
曲解②『ツイン・ピークス』

これが二つ目の曲解。おそらく『ハンチバック』は『ツイン・ピークス』に出てくる「赤い部屋」をパロっている。風俗店の「真っ赤なカーテン」はただ単に障害者の見世物的なイメージと、商品化された女性性を結びつける小道具だと思っていたが、『ツイン・ピークス 』という補助線が出てくるのであれば話はだいぶ変わってくる。
まず紗花視点の物語は風俗店の「待機部屋」で始まる。『ツイン・ピークス』の赤い部屋も「待合室」だと小人に言及されている。そして赤いスーツを着た小人が登場する部屋は夢の世界であり、表と裏の人格の交代のような現象が起こる場所である。わざわざオマージュ先を仄めかしている意図を考えると、風俗嬢紗花の語りは、障害者釈華がみた夢、あるいは精神世界のようなものだと解釈できる。もっと踏み込めば、紗花は釈華のシャドウに位置付けられているといえるかもしれない。そこに登場するミニオ=ミニオンは、小人の役割が与えられているという読み方もあり得そうだ。
まあ、わざわざ『ツイン・ピークス』を持ち出さなくても、下記引用する地の文で、ミキオと舞台を共有するワセジョのS=風俗嬢紗花は障害者釈華の創作対象であることはご丁寧に説明されているが。
ミキオが巨乳の女を抱きづらいと思うのは、ミキオの母親が垂れない巨乳だったからだ。私の母がそうだったからだ。
この地の文があるというのに、風俗嬢紗花の方が現実で障害者釈華の方がフィクションという読み方をしている人をたまに見かける。ちょっと無理があると思う。
脱線してしまったが、読んでいる手応えとしては『ツイン・ピークス』の「赤い部屋」における何らかの意味合いをモチーフにしてパロっているのは確かだと思う。その意図が「悪しき人格への交代」なのか「時間スキップ」なのか「逆再生」なのか「死んだヒロイン」なのかまではまだ掴みかねている。だが、少なくとも俺はこの参照関係を、『ハンチバック』はフィクションであることに自覚的な構造を持つという宣言として受け取った。
もうひとつ言えることがあるとすれば、「デヴィッド・リンチ作品」や「イングルサイドのアン」のようにわざわざ外部のテキストを参照している場合、それは『ハンチバック』への注釈的な役割を果たしている可能性が高いことが窺えるということである。
ということは「侏儒アルベリヒ」もきっとそうだろう。俺はもう『パルプ』とのこじつけはどうでもよくなり、一ミリも知らない『ニーベルングの指環』を履修することにした。
ただ、音楽を楽しめない俺が素直に『指環』を全て観劇しようとしたら退屈のあまり死ぬことが予想できたのでジェネリック履修に留めることにした。具体的にはネットに転がっている要約解説に目を通し、あずみ椋によるコミカライズを読む程度にしておいた。そうこうして『指環』エアプした結論を書こう。
曲解③『ニーベルングの指環』

三つ目の曲解。おそらく『ハンチバック』は、ワーグナーの『ニーベルングの指環』における「侮辱の構造」を抽出してオマージュしている。
『指環』を俺に都合よく要約すれば、こういう話になる。愛を断念した地底の小人アルベリヒが、世界を支配する力を持つ指環を手に入れる。だがその力は奪い合いの対象になり、やがてアルベリヒの呪いが、指環の持ち主たちへ連鎖していき、みんな死に世界が滅ぶ。要するに、愛の諦めが、欲望と契約と復讐の連鎖に切り替わる物語である。
さて、反ユダヤ表象としての金権批判が盛り込まれているこの物語のどこが面白いのかといえば、価値の扱い方がいちいち侮辱的なところだと思う。とりわけ『ラインの黄金』では、神々の長ヴォータンが、城を築かせた対価として差し出したフライアを取り戻すため、アルベリヒの黄金を奪いに行くという場面がある。フライアは神々の不老を支える存在であり、彼女を失った神々はたちまち老い始める。それなのに、生命線といえるほど重要なはずの彼女の身体は、今度は身代金として彼女の背丈を覆い隠せるだけの財宝の量を秤る尺度として扱われる。
ここで起こっているのは、生命が、契約の対価として女の価値に変換され、物量の尺度に変換され、金銭的価値に変換されるという事態である。つまりこれは、生命を金に換えることで成立する、契約を介した侮辱である。
「田中さんの身長分です。1センチ100万。あなたの健常な身体に価値を付けます」
この「侮辱としての換算」は、『ハンチバック』で田中の身長155cmを1億5500万円に換算する場面とよく似ている。尊厳や身体や生命を、ひいては生殖を、そのまま受け取らず、いったん数値化し、価格化し、交換可能なものへと貶める。変換それ自体による侮辱。
田中の攻撃に対して釈華が行ったカウンターがまさにこれである。そしてこのカウンターは人間を欲望する釈華自身にもてきめんに効く。自分より貧しく、自分より背が低い田中を馬鹿にするのみならず、人間を人間たらしめる生殖機能をも馬鹿にし、自らを人間としてアクティベートするために胎児殺しを欲望する自分自身をも馬鹿にしている。つくづく自爆攻撃である。
〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉
私はあの子たちの背中に追い付きたかった。産むことはできずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった。
私の身体は生きるために壊れてきた。
妊娠と中絶。生きるために壊れることの極致。釈華は「普通の人間の女」に近付こうとするが、その接近は自己破壊の形式をとるしかない。そう考えると『指環』における「愛を断念して力へ向かう」運動は、そのままではないにせよ、釈華に重なるところがあるように思う。
しかもここで面白いのは、釈華が「弱者」としてのアルベリヒだけではなく、「強者」としてのヴォータンまで引き受けているように見えるところである。もっと言えば、アルベリヒは愛を捨てて力を得る側でもあり、ヴォータンは契約と法を掲げながらも、その実、自らもまた略奪に頼り破滅する側でもある。『指環』において両者はしばしば鏡像として読まれるらしいが、『ハンチバック』ではその両面が釈華ひとりに重ね合わされているように思える。自分の命を賭けながら、同時に相手の身体にも値段をつける。契約という力を振るいながら、契約に振り回される。侮辱し侮辱される。孕み殺し壊れようとする。強者である。弱者である。
「死にかけてまでやることかよ」
文字通り、釈華にとっては死にかけてまでやることだったのだろう。単に田中にはそうではなかった。ここの賭け値の差で憐れみが発生した。誰が弱者なのかが浮き彫りになり、釈華は自らの歪みを直視せざるを得なくなった、ということだと思う。そして彼女は生殖を断念することになる。
ここまで『指環』を通して曲解してみると、『ハンチバック』における侮辱の構造が面白く見えてきたように思う。そして、その中心にはやはり「生殖機能」がある。そうすると次に気になってくるのが、妊娠、中絶、障害者、女性といった要素を異なる形で引き受けている外部テキストだった。文庫版の最後に往復書簡が載っていた荒井裕樹の『凜として灯る』がそれである。
曲解④『凛として灯る』

『凛として灯る』は、作中でも釈華が言及していた米津知子がモナ・リザに赤いスプレーを噴射するに至る半生が書かれた本である。
この本を借りて語りたいことはひとつ、「釈華というキャラクターの造形はこの本をもとにデザインされたものではないか?」という仮説についてである。
そのために断章取義的にはなってしまうが、数箇所だけ引用したい。一つは、米津知子が幼少期に教師からクラスメイトの道徳の教材のように扱われることがあったことを回想する場面である。
私に優しくすることが、その人の優しさの証明となるような私。
誰かが善良な人でいられるために、誰かに必要とされる私。
それが知子に求められた役割だった。幼心ながら、知子は自分に向けられる陰険な空気を感じ取っては悔しく思うこともあった。
だが、善意を拒絶するのは難しい。たとえそれが上辺だけのものであったとしても。善意を否定することは、ひねくれている、素直でない、といった批難を招き寄せる。その批難は、しばしば障害にまで及ぶ。障害があるから心もねじれてしまったのでは──素直になれないのは障害でつらい思いをしたから──といった具合に。
そしてもう一つは、米津知子がウーマン・リブ運動をする中で掲げていたスローガンがわかる部分である。
〈私のスローガンは『清く、貧しく美しい身障者のイメージ粉砕』ということです〉
知子は、大人しく〈善良〉な障害者だった自分を壊そうとした。
障害者として身の程をわきまえ、化粧もしなかった自分を壊そうとした。
自分の姿を直視できない自分を壊そうとした。
そして、壊れる自分を見せつけることで、道連れのように、自分をがんじがらめにしてきた世間の価値観に仕返ししようとした。
…俺はこれらの部分を読んで、釈華というキャラクターの造形は、『凜として灯る』の米津知子をもとにデザインされたものではないか?と思ってしまった。
〈お金があって健康がないと、とても清い人生になります〉
〈ねじれ〉〈身障者〉〈壊れる自分〉〈仕返し〉〈清く〉〈貧しく〉…たまたまにしては人物像が呼応し過ぎている。俺はここに何らかの意図があったと仮定して話を進めたい。これが四つ目の曲解である。
仮に米津知子という人物像から釈華という架空のキャラクターが設計されていたのであれば、両者の似て非なる部分こそが注目すべき部分になるだろう。そこにこそ、フィクションとしての『ハンチバック』の設計思想が宿るはずだからである。ということで、ここからは米津と釈華の似て非なる部分について抽出して考えてみることにする。
まず釈華は決して『清く、貧しく』はない。とても裕福である。馬鹿みたいに金持ちである。では、なぜそう設計されたのか?おそらく『ハンチバック』を進行させる上で釈華という弱者には、ある種の強者性、ひいては力が必要だったからなのだと思う。弱者を自認しながらも健常な身体を有する田中と釈華が、形だけでも対等になり、摩擦を起こすためには、金の力が必要だった。
もっと踏み込んで言えば、「介助」という善意の施しが持つ見下しの構造が、同種の構造を有する「寄付」という施しによって、はじめて双方向的に成立した。それに田中が反応し、釈華が反撃することで『ハンチバック』という復讐と契約の物語が始まったという解釈ができると思う。つまり、井沢釈華を田中順と同じ土俵に立たせるために「金」の力が用意された、という読み方になる。
そして米津と釈華の決定的な差は「金」の他にもう一つある。「社会的な身体」の有無である。まず第一に、米津は運動家であった。彼女には怒りを現実の社会へ向けることができる程度には健康な身体があった。一方で釈華にはおよそ社会的な身体というものがない。グループホーム・イングルサイドとインターネットだけが彼女の棲み家である。この差異によって『ハンチバック』では何が起こっているのだろうか?
おそらくこういうことだと思う。米津知子にはモナ・リザがあった。現実の社会に対する怒りの矛先としての攻撃対象があった。だが釈華には手の届く範囲にモナ・リザがない。攻撃対象が存在しない。現実として生きる公共空間もなく、怒りを向けるための社会的な身体もない。そもそも涅槃として清らかな生を送っている以上、摩擦を感じようがない。そこに悪趣味なヒーローのようにして現れるのが田中である。彼は手の届く攻撃対象であり、摩擦であり、生殖対象であり、背骨の曲がらない正しい設計図でもある。
つまり、「社会的な身体」の引き算の結果、『ハンチバック』はあらゆる条件を兼ね備えたスパダリ(笑)との恋愛成就の舞台が整えられているわけである。まあ、物語の設計図が骨折しすぎていて成就しないわけだが。
ここまでを総括すると、「金」を持ち、「社会的な身体」を持たない釈華というキャラクターは、健常者像とはもちろんのこと、女性障害者像ともそのまま重なることがないように強弱方向にズラされていて、その歪みこそが「弱者の相対性」という主題を立ち上げるように設計されている、という曲解になる。
そういう出自ゆえに、釈華は自身のことをこう語るのだと思う。
私の実人生とはかすりもしない。女性と障害女性がパラレルであるように、障害女性と涅槃の釈華もまたパラレルである気がした。重なるようで重なり得ない。
さて、この「涅槃の釈華」とは『ハンチバック』冒頭において読者に知らされる釈華の自己像である。この段階では「涅槃」というものが釈華にとってどのような意味を持つのかは不明瞭なままだが、終盤になってヒントが示される。
壁の向こうの隣人が乾いた音で手を叩く。私と同じような筋疾患で寝たきりの隣人女性は差し込み便器でトイレを済ませるとキッチンの辺りで控えているヘルパーを手を叩いて呼んで後始末をしてもらう。世間の人々は顔を背けて言う。「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ」と。だがそれは間違っている。隣人の彼女のように生きること。私はそこにこそ人間の尊厳があると思う。本当の涅槃がそこにある。私はまだそこまで辿り着けない。
ここから「涅槃」が意味するところを俺なりに推測するに、「世間の人々(≒社会)が尊厳だと思っているものに対して執着せずに生きること」なのだろうと思う。この点において、金の力によって田中のモナ・リザ(≒攻撃対象)になり得ると考えた釈華は、田中の悪意を利用して「普通の人間の女」に近付ける可能性に執着してしまった。だから彼女は本当の涅槃にはなれないと自覚しつつ、こう願う。
田中さんにはもっと邪悪でいてほしい。
しかしその願いは、憐れみによって潰える。あまりに弱く、あまりに痛々しい弱者としての姿を晒してしまったがために、釈華は田中の攻撃対象から外れる。
「お大事に」
そして抽斗の中にそのまま残っていた小切手の存在が、彼女の「金」に対して「憐れみ」が上回ったことを明示し、決定的な価値否定を突き付ける。それを見て彼女は自らをこう形容する。
そう。その憐れみこそが正しい距離感。
私はモナ・リザにはなれない。
私はせむしの怪物だから。
人間であるために胎児殺しを欲望した彼女は、もはや涅槃ではない。かといって人間にも近付けない。モナ・リザにもなれない。ねじくれた怪物として名乗るしかなくなった。釈華の語りはこういう幕引きで終わり、エゼキエル書が引用され、物語は紗花の視点に移行する。
さて、ここまでが米津知子と井沢釈華の間における人物像のズレをもとに、『ハンチバック』全体の設計思想を考察し、釈華の心情とその変化の解像度を上げようと試みる曲解であった。
次は風俗嬢紗花が障害者釈華と思しき人物について言及している興味深い部分について考えてみようと思う。
今でもずっと考えている。その人が最後の日まで思っていたことと、その人が最後の夜に見ていたもののことを。
曲解⑤『浄土思想』

では、釈華は最後の日に何を思って何を見ていたのだろうか?ここでは『ハンチバック』における情景描写に絞って考えてみることにする。まず、彼女が最後の日に居たのは自室である。ここで「市川沙央が無駄な文章を書くわけがない」という全幅の信頼を寄せたうえで、自室について複数回繰り返されている描写を抽出してみると次の二つになる。
西向きの窓
西向きの掃き出し窓から晴れた日は富士の頂がかすかに見えるけれど、西は右にあるから首が回らない。
缶を口に当てながら首を伸ばすように窓の外を眺める動きから、今日は富士山がよく見える日であることがわかった。寝付いていると見えない景色だ。
黒いテレビ画面
正面の壁に50インチのテレビが据えてあって、しかし滅多に私はそれを点けず、隣の入居者の部屋から壁越し聞こえるテレビの音に時々耳をそばだてた。
舞い踊る埃と私の細長いミオパチー顔貌しか映さないテレビ画面の無為な黒色を見つめながら壁の向こうの韓国ドラマを聴いていると、田中さんがデスクの前に立つ。
ここで重要なのは、釈華の自室には二つの「窓」があることだと思う。ひとつは西向きの窓であり、もうひとつはテレビ画面である。前者は現実の風景を映す窓であり、後者はフィクションを映す窓である。
だが、釈華にはそのどちらもまともに機能していない。
社会的な身体を持たない彼女は現実の風景を見ることができない。首を右に回すことができないから座していても見えず、寝付いていても見えない。そして彼女はテレビをほとんど点けない。既成のフィクション、恋愛成就の物語は、壁を隔てた距離にあるものだから。
では彼女は何を見ていたのか?彼女が見つめていたのは、自分自身である。『ハンチバック』前半において、田中というヒーローが登場するその寸前まで釈華が見ていたものは「涅槃としての釈華」という自己像だった。前半はそれで完結していた。
だが後半において、田中との関係を通じて、釈華は「人間に近付ける」という夢を見てしまった。その変化がこう描かれているのだと思う。
入院中、暇にあかせてテレビを流す習慣がついてしまった私は、リモコンを探してデスクの抽斗を開けた。
その結果がこうである。
テレビは点かなかった。
電池を入れ替えたリモコンにも反応せず、よくよく見つめると、テレビ本体の通電ランプが不自然にチッカチッカと明滅していた。赤色の点滅の意味をググる。故障のサインだという。
—―使わないうちに壊れていた。
釈華がようやく夢を見ようとしたとき、その窓はすでに壊れていた。彼女が見ていたのは壊れた画面に映る自分自身であり、その自己像は涅槃ですらない「せむしの怪物」になっていた、ということだと思う。
ここまでは釈華が見ていたものについて整理してきた。
では彼女は何を思っていたのだろうか?
ここでさらに踏み込んだ曲解をしたい。おそらく最終場面で釈華は閉経している。そうでなければ作中で閉経が早い可能性を示唆する意味がないからだ。「使わないうちに壊れていた」というのはメタファーだろう。
そして西向きの窓は、浄土思想における救済の方角としての「西方浄土」が見えないというギミックにもなっていると思う。これでもかと仏教要素を散りばめておいておきながら唯一の景色である西方の富士が浄土をメタファーしていないわけがないからだ。
そうすると最終場面の釈華は、「憐れみ」だけでなく「閉経」という角度からも望みが絶たれ、「生殖」という現世における救済を完全に断念したということになるのだと思う。
ということは残された願望は何になるのだろうか?
こういうことだと思う。
〈生まれ変わったら高級娼婦になりたい〉
曲解にすぎるかもしれないが、俺は浄土的な輪廻転生観に支えられた現世への諦めと来世への期待がこの物語の重心になっているのではないかと思う。
先ほど、釈華の自己像はせむしの怪物と名乗るしかなくなった、と書いたが、それはオフラインという現世に限った話である。彼女にはまだインターネットという泥に塗れた棲み家といくつかのアカウントが残されていた。彼女はまだBuddhaでありShakaであり、紗花である。
現実社会にも参画できない。既成のフィクションも享受できない。かといって執着も捨て去れない。ならば来世の救済を自力で創作するしかない。物語を産むしかない。…これは、そういう経緯で釈華が紗花の物語を書き始める転生譚だったのではないか。蓮の華が枯れても泥の中を走る地下茎が別の花に繋がっているように。ここまでが五つ目の曲解である。
そうして彼女はiPad miniを手に真夜中に執筆する。「最後の夜に見ていたもの」は娼婦が受胎する物語をR18小説サイトに投稿すべく打ち込むテキストアプリだろう。そこに紡がれる物語において、釈華は文学的な自殺を遂行する。そういう意味でも『ハンチバック』はフィクションに仮託された転生譚であり、創作に代理された表象なのだろうと思う。
曲解⑥『エゼキエル書』
さて、ここまで釈華の身体は生きるために壊れてきた。だが最終場面を、自らの尊厳を取り戻すために行った文学的自殺と読み替えた場合、その命題は反転しているということになると思う。「生きるために壊れる」のではなく、「復活するために死ぬ」文学をやっている。現実の身体としては退場し、文学的自殺を遂行し、別の名前、別の女、別の視点へ移るという事態が起こっている。
ここで「ゴグとは何だったのか?」という最初の問いに立ち返りたい。
エゼキエル書におけるゴグは、神の敵であると同時に、神が自らの力を顕現させるために攻め込ませる存在でもある。構造的に見れば、これはほとんど神によるマッチポンプである。自分の民を悪に攻め込ませ、誰が主であるかを知らせるための悪役。神が邪悪であることを求める存在。それがゴグである。
だとすれば、『ハンチバック』において、自らを壊し、自らを攻め込ませ、自らの尊厳を取り戻そうとする釈華は、創作という点で神に相当するはずである。そして釈華が邪悪であることを願った存在といえば…。
はじめに神は天と地をクリエイトされた。次に紗花をクリエイトされた。次に田中をとても邪悪にクリエイトされた。復讐してやる。お前を悪役にしてやる。主なる神は言われる、読者よ、見よ、これは来る、必ず成就する。
そういうわけである。これが六つ目の曲解。
曲解⑦『非当事者文学』
さて、最後に物語全体のフィクション性について整理したい。そのために風俗嬢紗花視点の物語にまずはフォーカスしていく。
ここで注目したいのは、紗花とミニオの会話劇である。紗花からミニオに対しての発言はほとんど全部が嘘になっている。学部も卒論内容もお金が必要な理由も感じてる声も避妊してるのも全部嘘、フィクションである。それに対して客であるミニオは「よくわかんないけど難しいネ」「かわいそうに」「大変だったねえ」「最高だね」「気をつけるんだよ」「頑張ってね」「出すよ」なんて馬鹿みたいなアンサーを返して射精している。
そしてこの終結部は、『ハンチバック』冒頭のコタツ記事であるハプバ体験記と鏡合わせになっている。つまりフィクションに始まりフィクションに終わっているわけである。そのフィクションの書き手は誰か?釈華である。当事者からは程遠い書き手が生産したポルノがまかりとおっている。これは皮肉である。
言ってしまえば『ハンチバック』は「非障害者による障害者表象」に対抗して「非健常者による健常者表象」を書いたのではないかと思う。障害者ポルノに対するカウンターとしての健常者ポルノ…。その結果がお下劣でナイスな『ハンチバック』である。
この本は、非当事者による当事者表象を馬鹿にしつつ、その消費の形も馬鹿にしている。そういう意味では弱者の特権性を利用した糾弾だろう。なんて構造の捻じ曲がった呪詛だろうと感動すら覚える。
個人的な曲解 / 遥か遠けきモナ・リザ
そう考えると、きれいに理解した顔をして真面目そうに「読書文化のマチズモマチズモ…」と呪文を唱えながら道徳の授業に参加している読者って本当に惨めじゃないかと思います。一方で、露悪や下品に偏重し過ぎている当事者文学だとか私小説だとか宣ってる批判も浅はかです。この本はミラーテストもパスできないような霊長類の前に鏡を置いて馬鹿にしている…そういう構造をしています。なので、この文章が孕む毒に対して、その意味を深追いしようとするまでもなく、障害者がグチグチ言ってんじゃねえと素直にグーで殴り返そうとするほうがよっぽど誠実で、結果的には正しいですよ。結局これは復讐であり呪詛なので。それでも釈華に寄り添いたいと思うなら「私を憐れむな障害者を憐れむな田中よ健常者よお前を悪役にしてやる」という話なのでそもそものスタンスが間違っています。イライラします。でも市川沙央はこう言っています。
怒りだけで書きました。『ハンチバック』で復讐をするつもりでした。私に怒りを孕ませてくれて、どうもありがとう。でも、こうして皆様に囲まれていると、復讐はむなしいということもわかりました。私は愚かで、浅はかであったと思います。怒りの作家から、愛の作家になれるように、これから頑張っていきたいと思います。
はい。もうカウンターを打つ余地もありません。梯子はもう外されています。芥川賞受賞によって復讐は既に終わり、彼女は愛の作家になろうとしているので攻撃できません。遥か遠けきモナ・リザです。俺は『ハンチバック』以外に芥川賞の受賞作を一冊も読んだことのないような人間ですし、ネットを漁ってみてもこういう読み方をしている人は見つけられませんでした。なのでとんでもない曲解をしている可能性はあると思いますけれど、ひとりの読者として確信めいたものがあったからこのnoteを書いています。もしこの曲解が正しかったなら、この小説に向けられた賞賛も、わかったような顔も、批判すらも、なにもかもひどく空しいだろうと思います。
