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永遠の命を求めた人の姿― ―「博士ちゃん」で見たラムセス2世のミイラ


2026年7月11日、テレビ朝日系列の『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』で、「エジプト最強王ラムセス2世SP 2026年特別版」が放送された。

番組の中心となったのは、「古代エジプト博士ちゃん」として知られる田中環子さんである。エジプトでのロケ当時は14歳の中学3年生だったという。

田中環子さんは、幼いころから古代エジプト文明に強い関心を持ち、考古学者の論文を読み、自宅で魚のミイラ作りにまで挑戦してきた。彼女にとってラムセス2世は、教科書に登場する大昔の王というだけではない。長い時間をかけて学び、思い続けてきた、特別な存在だった。

今回の旅で彼女は、アブ・シンベル神殿、ラムセウム、ルクソール神殿、王家の谷など、ラムセス2世に関係する遺跡を訪ねた。そして旅の最後に、カイロの国立エジプト文明博物館で、ラムセス2世本人のミイラと対面した。

番組では、この対面を「最愛の人との対面」と表現していた。

「きれい」という言葉では足りない

スタジオの出演者たちは、ラムセス2世のミイラを見て、「美しい」「きれいに残っている」といった感想を口にしていた。

確かに、美しいという面はある。

三千年以上という時間を超えて、一人の人間の顔や手や身体が、現在まで残されている。その保存状態には驚かされるし、長い時間そのものが作り出した美しさもあるだろう。

しかし、私は最初に、グロテスクだと思った。

ここでいうグロテスクとは、街の店先や娯楽施設に飾られている、客を驚かせるために作られた作り物の怖さではない。

ラムセス2世のミイラは、誰かが恐ろしい姿に見えるように演出したものではない。人間の身体が死に、乾燥し、縮み、三千年以上の時間を受けた現実の姿である。

だからこそ、そのグロテスクさは重い。

同時に、それは単純な嫌悪でもない。痛々しさがあり、悲しさがあり、それでも目を離すことのできない美しさがある。

「美しい」「きれい」という言葉だけで包んでしまうと、あの身体が伝えている現実の半分を取りこぼしてしまうように、私は感じた。

何かを求めているような手

ラムセス2世のミイラの腕は、埋葬の際に一定の形に整えられたものなのだろう。

しかし、現在の姿を見ると、腕は不自然に曲がり、手は何かを求めて伸ばされているようにも見えた。

助けを求めているのか。

何かをつかもうとしているのか。

失われたものを取り戻そうとしているのか。

もちろん、実際にそのような意味をもって手が配置されたわけではないだろう。死の瞬間に本人が取った姿勢でもない。見る側である私が、そこに意味を読み込んでいるだけである。

それでも、あの手は、私には「永遠」を求めて伸ばされた手のように見えた。

永遠の命を求めて旅立った人

ラムセス2世自身が、どのような気持ちで死を迎えたのかは分からない。

本当に心の底から永遠の命を信じ、求めていたのか。それとも、王として定められた葬送儀礼を受けただけなのか。現代の私たちには、本人の内心までは分からない。

しかし、少なくとも古代エジプトの宗教と葬送の仕組みの中では、ラムセス2世は、死後の世界へ旅立ち、そこで再び生きる者として扱われたはずである。

ミイラ作りも、墓も、副葬品も、神殿も、呪文も、死者が再生し、永遠の生命を得るためのものだった。

その意味で、目の前にあるのは、永遠の命を求めて旅立ったことになっている人の姿である。

ところが、現実の身体は、理想どおりの永遠の生命を得てはいない。

若々しい王の姿のまま、力強く立ち上がったわけではない。乾き、縮み、腕を硬く曲げ、見る者に痛々しささえ感じさせる姿で横たわっている。

巨大な神殿や彫像に表されたラムセス2世は、若く、強く、堂々としている。

一方、現実に残った本人の身体は、小さく、もろく、傷つきやすそうである。

その落差が、私は悲しかった。

どこまでも、どこまでも永遠を求めたとしても、人間は理想どおりの永遠の命を得ることはできない。

あのミイラは、人間の願いの大きさと、人間の身体の限界を、同時に示しているように見えた。

満面の笑みにならなかった博士ちゃん

そして、私が最も心を動かされたのは、ラムセス2世のミイラそのものだけではなかった。

ミイラと対面した田中環子さんの反応だった。

普通のテレビ番組であれば、長年憧れてきた人物と対面した出演者には、満面の笑みや歓声が期待されるかもしれない。

「やっと会えた」

「夢がかないました」

そのような分かりやすい喜びの言葉が、番組としては使いやすいだろう。

しかし、田中環子さんの最初の表情は、喜びに満ちた笑顔ではなかった。

戸惑いだった。

驚きだった。

私には、「え?」という表情に見えた。

「これが、本当にラムセス2世なのか」

「私がずっと思い続けてきた人が、この姿なのか」

そんな言葉にならない問いが、一瞬、彼女の中に浮かんだように見えた。

彼女はすぐに大きな表情を作ることも、知識を披露することもできなかった。長い間、言葉を発することができず、ミイラを見つめていた。

そして、とうとう目を背けた。

ミイラのそばを離れ、「ちょっと待ってください」と言って部屋の隅へ行き、泣いた。

この反応が、私はとてもよかったと思った。

もちろんテレビ番組である以上、編集はあるだろう。音楽も加えられ、場面の順序や長さが調整されているかもしれない。まったく演出のない映像だとは言えない。

それでも、最初の戸惑った表情、言葉を失った時間、目を背け、身体ごとその場から離れた動きには、演出だけでは作れないものがあったように思う。

あの表情には、確かな本当の反応があった。

憧れの人ではなく、死者に会った

田中環子さんは、その瞬間まで、ラムセス2世について膨大な知識を持っていた。

どのような王だったのか。

どのような神殿を建てたのか。

どのような政治を行い、どのような家族を持ち、どのように後世へ自分を残そうとしたのか。

しかし、ミイラを前にしたとき、知識だけでは受け止められない現実が現れた。

ラムセス2世は、単なる歴史上の英雄ではなかった。

本当に生きていた。

そして、本当に死んだ。

彼女はその場で初めて、憧れの王ではなく、一人の死者としてのラムセス2世に会ったのではないだろうか。

彼女の涙は、夢がかなった喜びだけではなかったと思う。

会えた喜び。

実在していたことへの驚き。

身体の姿への衝撃。

永遠を求めた人が、現実にはこのような姿で残っていることへの悲しみ。

それらが一度に押し寄せた涙だったのではないか。

私は、番組に出ていた人々の中で、彼女が一番大人であり、同時に一番子どもだったと感じた。

考古学や歴史に向き合う態度は、誰よりも落ち着き、対象への敬意を持っていた。その意味では大人だった。

しかし、長年思い続けてきた人を前にして、受け止めきれずに泣いた姿は、非常に純粋な子どもの姿でもあった。

そして、あれは一人の子どもが大人になる瞬間でもあったのではないかと思う。

理想どおりではない永遠

ラムセス2世は、理想どおりの永遠の命を得ることはできなかった。

少なくとも、現代の私たちが目で見ることのできる身体は、古代エジプト人が思い描いた、若く完全な姿での再生を示してはいない。

しかし、不思議なことに、彼は完全には消えていない。

名前が残った。

神殿が残った。

像が残った。

物語が残った。

そして何より、本人の身体が残った。

三千年以上後に、日本の一人の少女が彼について学び続け、エジプトまで会いに行き、その死を悲しんだ。

古代エジプト人が願った来世とは、まったく違う形かもしれない。

それでも、ラムセス2世は誰かの心の中に存在し続けている。

理想どおりの永遠の生命ではない。

若さを失わず、肉体が再生し、死後の世界で生き続けるという永遠ではない。

しかし、人から人へと名前や記憶が受け渡され、遠い未来の人間がその人を思うという、別の形の永続は実現した。

そこには、わずかな救いもある。

けれども、あのミイラを見て最初に感じるのは、やはり勝利ではなく、悲しさだった。

永遠を求める人間の願いは、あまりにも大きい。

そして、人間の身体は、あまりにも弱い。

『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』で田中環子さんが見せた沈黙と涙は、その両方を、言葉よりも深く伝えていたように思う。


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