見出し画像

私は「何人」という枠を越えていく――このモヤモヤこそが、私のグラデーション

「あなたは、何人(なにじん)ですか?」

そう問われるたびに、私の心には小さな、けれど消えない「モヤモヤ」が広がる。 多くの人が迷いなく「日本人です」と答え、その問いを通り過ぎていく中で、私は自分の内側にある複雑な色合いをどう説明すべきか、いつも言葉に詰まってしまうのだ。

わかりづらいようでいて、実は私の中ではわかりきっていること。 けれど、世の中の「枠」に当てはめようとすると、どうしても形が合わない。そんな感覚を言葉にしてみようと思う。


18歳の「ジャパニーズ」という衝撃

私が「日本人」というナショナリティー(国籍)を強烈に意識したのは、18歳で海外に出たときだった。

沖縄の強い光と風の中で育った私にとって、それまでの自分は何者でもなく、ただの「自分」だった。あるいは、ごく自然な「沖縄の人間(ウチナーンチュ)」だった。 しかし、外の世界は私に、一枚のラベルを貼り付けた。 「You are Japanese.(君は日本人だね)」

その言葉を投げかけられたとき、初めて自分が「日本」という巨大な箱の中に放り込まれている事実に気づかされた。しかし同時に、猛烈な違和感が私を襲った。 彼らが思い描く「日本」のイメージ——桜、温泉、雪。 申し訳ないけれど、それらは私の人生の実感にはなかったものだ。


桜が散ったら、卒業式

よく「桜咲いたら一年生」というけれど、私の故郷では、桜が散る頃に卒業式が始まる。 この数ヶ月の季節のズレ。これこそが、私のアイデンティティと「国家のスタンダード」の間にある、決定的な距離を象徴している。

日本は、広いのだ。 それなのに、テレビも教科書も、あたかも日本中が同じ景色、同じ時間軸で動いているかのように語りかけてくる。

私は雪を知らず、桜と共に別れを惜しんで育った。 「日本代表」的なイメージが指し示すものと、私の内側にある「沖縄」という手触りは、どうしても重ならない。パスポートという「外側の箱」は同じでも、中身の「魂の色(エスニシティ)」は、明らかに別の熱を帯びている。


統一というリスク、グラデーションという豊かさ

「日本人なら、こうあるべき」という単一のイメージで全てを統一しようとすることは、一見、国をまとめる近道に見えるかもしれない。 けれど、それは本当は、多様性を否定し、国を脆くさせる「リスク」ではないだろうか。

島国として閉ざされるのではなく、沖縄があり、アイヌがあり、多様なルーツが混ざり合う。そんな「割り切れないグラデーション」を抱えたまま共存する方が、国としてよっぽどタフで、豊かであるはずだ。


抱え続ける「モヤモヤ」の正体

正直に言えば、今もまだモヤモヤしている。 「日本人である」ことと「沖縄人である」こと。その間に引かれた境界線は、決してスッキリした一本の線ではない。

私は分離独立をしたいわけではない。けれど、完全に同化して自分を消すこともできない。 国家というシステム(ナショナリティー)の中にいながら、自分の精神的な聖域(アイデンティティ)は別の場所にある。この「国家との距離感」こそが、私が私であるための誠実さなのだと思う。

私は、日本人である前に、沖縄人である。 それは日本を否定することではなく、自分らしくこの国籍を生きるという宣言だ。

私は「何人」という既存の枠には収まるつもりはない。 これからも、このモヤモヤとした豊かなグラデーションを、大切に抱えたまま生きていこうと思う。

たぶん、私だけじゃない。本当はみんな、どこかでなんとなく気づいているはずなのだ。「日本人」というたった一言の枠の中に、収まりきらない自分たちがいることに。

いいなと思ったら応援しよう!