見出し画像

こころの経済学

私たちは、日常生活の中で「調子はどう?」と尋ねられたとき、自然に「今日は元気だ」とか「最近ちょっと疲れていてね」と自分の状態について話します。しかし、この時に浮かんでいるのは、一体何なのでしょうか?

こうした直観的な活力を扱うのが、ここで述べる「こころの経済学」です。

このこころの経済学とは、もともとは心理学者ピエール・ジャネが提案した心理的経済(psychological economics)のことであり、その精神療法のためのプランを立てるために用いたものになります。ここでは、その中のいくつかの概念について、簡単にその概略を述べたいと思います。

エネルギーと効率性

心理的エネルギー

まずは、心理的エネルギーの概念についてです。

この心理的エネルギーとは、もともと心理的力(psychological force)と呼ばれるジャネの概念です。これは、いわばその人の持つ素朴なエネルギーの量になります。まずこの心理的力の重要な特徴は、純粋な精神的なものではないと言うことです。心理的エネルギーは、ある程度は生理的なエネルギーと一致しているのです。そのため心理的エネルギーが低下した状態は、睡眠や食事などによっても回復されることになります。

もう一つ重要な特徴としては、この心理的エネルギーとはあくまで心理学的な、つまり仮説的な概念であるということです。ジャネはこの心理的エネルギーが実体的なものであろうと考えていましたが、しかしそれが客観的に測定することができないものであることを認めていたのです(これは現在もそうなります)。そのため、この心理的エネルギーは「本人の主観的な体験の報告」ないしは「外部から観察できる活動量」によって、心理的概念として把握されることになります。

たとえば、最近の調子を尋ねたとき、相手から「元気です」「力があふれてます」というような返答があれば、その人の心理的エネルギーは一定量以上はあるだろうことが期待できます。しかし、反対に「元気ではないです」「いつも疲れてしまっています」というような報告があれば、その人の心理的力は少なくなってしまっているとみなすことができます。

また、ある行動について、それを最後までやり切ることができていたり、あるいは学校や会社など日常生活における活動を問題なくこなすことができていても、その人の心理的エネルギーは十分であると考えることができます。その一方で、特定の行動を取り組んだとしても、それを途中で投げ出したり、あるいは学校や仕事を休みがちであったりすると、心理的エネルギーが不足していると推察できます。

もちろん、こうした報告は、文字通り受け取らなくてはならないと言うことではありません。容易に想像できるように、本人が元気だ、大丈夫だと言っているだけで、全く元気がないということもあり得ます。そのため、その報告はチェックしなくてはならないのです。その際、もう一つの目安である活動量は、その人の本当の心理的エネルギーを推察するために用いることができます。

ただし、この活動量も単に大きければ大きいほど良いというわけではありません。実際、完全にエネルギーを消耗し切ったように見えた人でも、時と場合によって突然大きな力を発揮することがあります。この矛盾を説明するのが、次の心理的効率の概念なのです。

心理的効率

心理的効率とは、もともとジャネが心理的緊張(psychological tension)と呼んでいた概念となります。これは、その人が心理的エネルギーをより複雑に、そしてより適応的な方法で用いる能力のことです。

たとえ大きなエネルギーが用いられていたとしても、それが心理的効率が高くない活動であるのであれば、それは良いものとは言えません。たとえば何か不安なことがあり、交際相手に真夜中に何十通もメールを送り、何十件も電話をかけるというのは、とても大きなエネルギーを使用するものとなりますが、しかし心理的効率は低い活動となります。この場合、不安感に耐えるということがより心理的効率の高い活動となります。

一般的に、求められるよりも低いレベルの心理的効率でエネルギーが使われると、結果的にうまくいかずエネルギーが無駄に浪費されてしまいます。その一方で、適切なレベルの心理的効率でエネルギーが使用されると、いわゆる「達成感」として、使った以上のエネルギーが回収されるのです。そしてそれは、より高いレベルの心理的効率でのエネルギーの使用を可能にすることになるのです。

アンバランスとしての病理

この心理的エネルギーと心理的効率のバランスが悪いとき、病理が現れることになります。ジャネのアイデアでは、心理的エネルギーが大きいにもかかわらず心理的効率が低い状態がヒステリー、心理的効率が高いにもかかわらず心理的エネルギーが低い状態が精神衰弱という二系統に分けられることになりますが、いずれもその人が環境に合わせて活動を適応的に最後まで完遂することができないということになります。

そのため治療モデルは、心理的エネルギーと心理的効率のバランスの悪さを修正し、その人にとって適切な活動ができるように導くことが目指されることになります。それが、こころの経済学なのです。

こころの経済学

こころの経済学は、まず心理的エネルギーをお金とたとえることから始まります。病理をこの仮想的なお金をめぐる問題であると考え、その解決を目指すのです。

まず、心理的エネルギーが不足している状態から取り上げましょう。この状態は「抑うつ」あるいはしばしば「うつ病」と名付けられますが、ここではその名称についてそこまでこだわりません(実践ではとても重要で、精神医学的アセスメントは必須なのですが)。

とにかく問題を心理的エネルギーの不足として考えるのであれば、それはお金が足りない貧困の状況であるといえます。まずは、それを増やすことから始めなくてはなりません。

貧困の状況を改善していくためには、次のようなことをする必要があります。それが①収入を増やし、②支出を減らし、③負債を返済する、ということになります。同様のことを心理的エネルギーで試みるのが、こころの経済学となるのです。

収入を増やす

まず収入、つまり心理的エネルギーを増やすことから始めましょう。先にも述べたように、心理的エネルギーはある割合までは生理的な力と同一であるため、睡眠や食事、休息といったものによって増加させることができます。

他にも、軽い運動や入浴といったものも、結果的に心理的エネルギーを増大させます。また、楽しみや趣味、親しい人物との交流なども、心理的エネルギーを増やす上でとても重要な要素です。ただし、これらをなすことは一定の心理的エネルギーが必要であり、後に述べる「投資」という側面があります。そのため、まずは睡眠や食事、休息といった生理的力の回復が優先されることになります。睡眠障害や抑うつ状態に対する薬物療法も効果が期待できます。

一般的な心理療法で言うと、いわゆる支持的心理療法、あるいはリラクゼーションやマインドフルネスといったものがここに含まれることになります。

しかし、しばしばここで誰かから「奪う」ことで自身の心理的エネルギーを増加させようとしてしまう人がいます(この背景には一種防衛や反復強迫という作用があります)。誰かを屈服させる、操作する、無理に言うことをきかせるなどをして、相手の心理的エネルギーを奪おうとするのです。しかしながら、これは不当な収入であり、それを基盤とする財政は不健全です。相手から奪う行為は短期的にはエネルギーを増大させますが、しかしそのコストは最終的に得られるエネルギーを上回ることになります。つまり、それは不安定で長続きしないのです。回復を目指すためには、健全な財務状況を作る必要があるのです。

支出を減らす

次に行うことは、支出の管理、すなわち不必要なエネルギーの出費を減らしていくということになります。ここでも、生理的力の問題を先に扱う必要があります。身体的な疾患や障害が存在している場合、その治療を優先しなくてはなりません。あまりにも体力を消費するような活動が存在するのであれば、その調整も必要となります。仕事や学校など周囲の環境に合わせるために多大な心理的エネルギーを使ってしまうのであれば、少しずつでもその流出を抑えるようにしなくてはなりません。

しかし、ジャネが強調するように、われわれがもっとも心理的エネルギーを消費する活動とは、その対人関係においてなのです。

ジャネは、その人が築いている人間関係において、その人たちからエネルギーをもらっているのか、それとも奪われているのかを尋ねる必要があると述べています。先に述べたように、親密で友好的な関係から、私たちは心理的エネルギーを得ることができます。しかし一方で、いわゆる自他境界を侵害してくるような相手からはエネルギーが吸い取られてしまうのです。

とりわけジャネは、「蛭(ヒル)」と呼ばれるようなエネルギーを膨大に吸い取る人物がいる場合、そこと距離をとるの重要性を強調しています。現代の言葉でいえば、ジャネは自他境界の明確化、すなわち「バウンダリー」を設定することの重要性を述べているのです。ここで述べるバウンダリーの考えについては、この記事か、あるいは次の書籍を参照にしてくださいませ。

一般的な心理療法においては、心理教育や生活指導、あるいは認知行動療法におけるさまざまなアプローチが、この支出を減らすことにつながると考えることができます。

負債を返済する

収入を増やし、支出を減らすことができたのであれば、次に「負債」を返済することに進みます。ジャネは、過去に起こった事件、葛藤、病気、人生の局面というものが未解決に終わっていると、継続的に心理的エネルギーが流出してしまう、いわば借金がある状況であると考えました。

一般的な心理療法では、もともとジャネが取り組んでいたトラウマ記憶の統合を目指すトラウマ処理、現在で言うとEMDRやPEがここに当たります。あるいは精神分析など洞察によって過去を統合していくアプローチもここに含めることができます。

こころの経済学における重要な視点は、すべての人がこの負債の解消を目指す必要がない、と言うことになります。借金があるからといって、いきなりそれを返済することに全てを費やしてはいけません。返済するにしても、まずはある程度収入が必要になるのです。そのため、まずは心理的エネルギーを増やすこと、そしてその支出を減らすことが最優先のミッションとなります。

バウンダリーの文脈で述べるのであれば、負債を返済する前、すなわちトラウマ治療や洞察的アプローチを行う前に、次のことをする必要があります。それが、エネルギーを得ることができる人間関係を作り上げたあとで、問題のある人間関係を切り離すということになります。あるいは誰かの境界線を侵害することに力を使ってしまっている状態から、相手のバウンダリーを尊重するために力を使えるようになることです。

そしてトラウマ治療や洞察的アプローチも、その目的は休息や環境調整と同じく、心理的エネルギーの増大にあるのです。つまり、手段としてのトラウマ治療は、休息や環境調整として同価値なのであるということは、ジャネの考えに基づくこころの経済学における大事なポイントであると思います。つまりトラウマ治療や洞察的アプローチにおけるゴールは、その道だけではなく迂回路が存在している、ということになります。

消費をする

また、心理的エネルギーは単に増やすだけではなく、時に正しい消費をしていくことも大事になります。

何か問題が生じると、私たちはそこに向けて心理的エネルギーを動員することになります(興奮)。しかし、本来は未解決の問題へと注ぐべき心理的エネルギーが何らかの理由によってそこに充てることができないと、一時的に余剰エネルギーが発生することになります。その場合、それを正しく消費する仕方を覚えなくてはなりません。

心理的エネルギーにせよ、現実のお金にせよ、アルコールを伴うような遊行やギャンブルなどは、そうした過剰エネルギーを解消するにはうってつけです。しかし、しばしばそれは嗜癖(依存症)の病態をきたすことになってしまいます。ここに、人間関係に対する嗜癖としての執着などを含めることができるでしょう。ジャネは強迫性障害や不安障害などの背景にこうした機制があると考えており、確かに現在でもこうした症状の一部の背景を理解することに役立てることができます。

一般的な心理療法では、ストレスコーピングと呼ばれるものをここに当てはめることができます。過剰な心理的エネルギーをうまく解消する方法を見つけ、それを行うようにするのです。散歩や運動、ゲーム、勉強などを適度にこなすことは有益となります。

また、一部の鎮静を目的とした薬物療法はこうした過度の消費を抑えるという効果を狙って用いられると考えることができます。

投資をする

最後に述べるのは、心理的エネルギーを使用することによって、さらに大きな心理的エネルギーを獲得するという、いわばお金がお金を生むという「投資」についてです。心理的エネルギーにおいてこれを可能にするためには、上手なその使い方、すなわち高い心理的効率が必要となります。

ジャネの述べる心理的効率の高める方法は「完遂し終結した活動はその人の心理的効率を高いレベルに進め、逆に、未完成のまま中途で放棄された活動は心理的効率を低いレベルに下げる」と定式化することができます。すなわち、心理的エネルギーの投資を可能にするような高い心理的効率は、活動をひとつづつ最後までやり切ることをコツコツと続けることによって達成することができるのです。一発逆転ホームランではなく、地道にコツコツと積み重ねることによって、私たちは使った以上のエネルギーを得ることができるようになるのです。

もう少し手順を具体化すると、次のようになります。新しい趣味、技術、仕事、言語など、その人の持つ能力の中でも、かなり高いレベルで働かなければ行うことができない作業を一つ定めます。それをまずゆっくりと全部を完璧に仕上げるように指示し、そしてだんだんと作業水準を上げていくように促していくのです。

ポイントは、ここで定める作業は何でも良いということです。つまり、それは社会的に望ましいとか、誰かのためになるとか、あるいは他の人たちよりも自分が優れているとかを示すものではなく、等身大の自分が本当に好きなものである必要があるのです。この自分が本当に好きなものとは何か、というものを見つけるためにも、まずはバウンダリーが必要になると考えることができます。

一般的な心理療法においては、認知行動療法やトラウマ治療におけるソマティックなアプローチがここに含まれると考えられます。

おわりに

以上が、ピエール・ジャネの心理療法の原則に基づく、こころの経済学の基本的な考え方となります。実際の支援においては、より細かく聞き取りをしていくことで、収入と支出のバランスをとることを狙っていくことになります。また心理的エネルギーのバランスが崩れると、それが身体感覚として表れることがあるため、それを修正していく技法も使用されることになります。

エランベルジェは、ジャネの心理療法を評して「どんな患者にも適応可能な柔軟性と包括性を備えた方法で<中略>精神療法の特別な一つの方法に終わらない」と述べています。トラウマ治療のみならず、多くの人の支援に用いることができる考え方であろうと思われます。

いいなと思ったら応援しよう!