自他境界(バウンダリー)の書籍について
今回、自他境界(バウンダリー)について本を書いて、それが出版されることになった。
端的に言い表すのであれば、本書は「バウンダリーの概念について、臨床心理学に基づいて(ある程度)包括的に述べた一般向けの書籍」と言い得ると思う。
お話をいただいてからおよそ1年間くらい作業にかかったのだが、その執筆は心理的にも体力的にもかなり悪戦苦闘の連続であった。しかし、その過程で学んだことは非常に大きかったし、個人的に納得する形で最後まで書き終えることができた。
ただ、本を書く過程の中で気づいたことや学んだことが全て書籍に反映できたわけではないので、そうしたバウンダリーについてのあれこれを書いていこうと思う。
まず今回は、執筆過程を振り返りながら、この本がバウンダリーについて扱った数々の書籍のなかでどのような位置付けになるのか、他の書籍の特徴について言及しながら述べていきたいと思う(ただし、くれぐれも、あくまで筆者の主観であることを承知してほしい)。
最初のきっかけ
全てのきっかけは、以下の記事である。
最初にバウンダリーの概念を知り、気になって調べたものをまとめたものであるのだが、やたらと長文である。そもそも筆者は、ほとんど誰に見せるわけでもなく、調べたことを文章に起こすという奇行をここ10年くらいやっている。数年前にたまたまnoteというプラットフォームを見つけ、そこにアップロードをするようになっただけである。そのため、多少は読者に読んでもらうことを意識はして文体を整えてはいるものの、基本的に好き勝手書いている。これはだいたい1ヶ月くらいかけて書いた記事なのであるが、思いもよらず多くの人に読まれることになった(どう考えても長すぎるのに)。これを読んだ編集者さんから声をかけていただいた、という経緯である。
ではそもそもこの記事はどんなものであるのか?ネタ本としては主に次の二冊である。
とりわけ前者のクラウドとタウンゼントの著作は、臨床心理学に基づいてバウンダリー概念を整理した、非常に重要な著作である。実際、この本に基づいてバウンダリー概念について説明した記事もいくつかある。しかし、それらの記事では、この本の中で提示されている非常に重要な視点が抜け落ちていたと感じた。そのため、当事者研究の視点からバウンダリー概念を鋭く記述した上岡・大嶋の両先生による名著を補助線として、そこを「たった一つの方法」として強調する形で再構成したのが上記のnoteである。
最初の問題:バウンダリーの中にあるベクトル
執筆の依頼は、上記のnoteの内容に基づいてなされることになった。そのため執筆を開始したのであるが、実際描き始めると大きな問題が立ち上がることになる。それが、クラウドとタウンゼントの著作が、臨床心理学だけではなく、聖書の概念に基づいて書かれていた、ということである。たまたま筆者は神学に少し触れた過去があるので、この本において貫かれている(と筆者が読んだ)霊性の概念を自然に受け入れることができたが、日本語文献にしようとするとそういうわけにはいかない。ここに頭を悩ますことになったのである。
最初は聖書的な概念を削除して記述しようとしたが、それではうまくいかなかった。クラウドとタウンゼントがバウンダリーの概念の説明において霊性を必要としたのは、いわばそこに「ベクトル」を導入するためであると考えられる。バウンダリーとは、単に「いや」といえばいい、という話ではない(実際、欧米でそのような使用法がなされることに批判がされており、本書でも一部取り上げた)。バウンダリーを実践的な概念とするためには、その人の責任と可能性、すなわち「自由」を拡大するために行われるものでなくてはならない。聖書の概念は、いわば羅針盤として必要とされていたのである。
そこで筆者が導入したのが、ピエール・ジャネの心理学である。ジャネはその治療論を述べた著書のなかで、隔離(Isolation)としてバウンダリーとほぼ同一の概念の重要性を展開している。そして霊性ではなく、心理的エネルギーと心理的効率という力動的概念を用いてそれを説明している(※1)。これを援用することによって、クラウドとタウンゼントが用いた聖書的なアイデアの空白を埋めることが可能となった。
また思わぬ副産物として、自他境界が機能不全を起こしている状態を段階的に区別し、それぞれによって対処法を変えるというアイデアをきれいに説明することができた。「いやならいやと言えばいい」とわかっていたとしても、どうしてもそれが言えないという状態はなぜ生じるのか、そしてそれに対してどのようにアプローチをすればいいのかということについて、上記の記事で簡単に触れていたアイデアを本書において明確化することができたというのは、ジャネの心理学について学んだことが多い(※2)。
ライバル!?いや、補完的な・・・
もちろん、本書はバウンダリーについての唯一の著作ではない。クラウドとタウンゼント以外にも、多くの有益な本もある。悔しい(?)ことにそれは認めなくてはいけない。
まず最初に既刊本としてあったのは、以下の翻訳本である。
ネドラ・グローバー・タワブによる、率直に良い本である。いかにバウンダリーを自己主張(アサーション)するかということについて、明確に述べられている。そして、バウンダリーを設定する上で生じる罪悪感をどう捉えるのかについて、非常に重要な知見が述べられている。これらは本書においても重要なポイントとして引用している箇所である。
ただし、タワブが自己主張の効果を強調するのに対して、本書はそれをあくまで重要な方法の一つとして取り上げるに留めている(※3)。自己主張以外の方法や段階的な解決法を提案したというのは、本書の意義ではあると考えている。
そして本書の企画が動き出したときに出たのが、次の本である。
あまりにいい本であったため、執筆するモチベーションが一瞬消失しかけた鴻巣麻里香先生による本である(そう鴻巣先生には某所で伝えた)。実際、この本のため、本書では大人と子供の間のバウンダリーについての記述が少なくなっているのは事実である。
この本が数ある関連本の中でも白眉の出来であるのは、バウンダリーが人権を守るものであるという点を明確にしているからである。バウンダリーによって守られる究極のものは、その人の尊厳(dignity)である。そして全ての人に尊厳があるからこそ、私たちはお互いのバウンダリーを守らなくてはならないのであり、バウンダリーを攻撃(侵害)の手段ではなく防御(擁護)とする原理であると思う(※4)。
鴻巣先生の著作と本書の差異としては、本書が大人同士のバウンダリーの話をしていることに加えて、鴻巣先生が人権というところから組み立てているのに対して、本書は臨床心理学的視点に基づいている点である。とりわけマーラーの再接近期を参照した発達論的なバウンダリー概念の把握は、クラウドとタウンゼントに倣い本書でも依拠している。ややわかりにくいにもかかわらず、本書の議論においてここを維持することを許してくれた編集方針に感謝するところである。
そして本書を書き切った時に出版されたのが、この本である。
精神科医の藤野智哉先生による著作である。しかも同じ出版社からである。どういうこと!?と思ったのであるが、内容を読むと確かに棲み分けができている。
藤野先生の著作は、ワークが多く実践的な内容である。欧米ではこうしたワークブックは出版されているのであるが、本邦ではこうした著作は存在していない。時期的に書き上げてしまったので藤野先生の著作を読み込んで参照することができなかったのであるが、ほとんど同一のものを見ていると勝手に思っている(あえて言及はしないがちょっと違うなこれはという著作も存在しているのである)。ただ、藤野先生の著作に比べると、本書はよりバウンダリーの概念自体を掘り下げることに紙面を使っているように思う。
なので藤野先生の著作を読んでもっとバウンダリーの概念について知りたいと思ったのであれば本書を手に取って欲しいし、反対にもし本書を読んでより実践的な側面からバウンダリー設定に取り組みたいと思うのであれば、藤野先生の著作は役に立つと思う。
本書の位置付け
という経緯の中で、本書は完成することになったのである。結果的に、数多く出版されている関連本の中で、本書は以下のような位置づけを持つものだと個人的には思う。それが、最初に述べた「バウンダリーの概念について、臨床心理学に基づいて(ある程度)包括的に述べた一般向けの書籍」というものである。
とはいうものの、臨床心理学に則った本書のバウンダリー概念の整理の仕方は、支援者にとってもそれを自然に臨床の中に取り込む助けとすることができるようなものであると思う。
一点こだわったのは、バウンダリーを特定の病理や疾病概念と結びつけることを極力さけたということである。唯一の例外はトラウマの話であるが、ただしあくまで捕捉的なものに留まっている。これはバウンダリーの概念を用いて、特定の属性の人を攻撃することがないようにして欲しいからである。
あとがきにも書いたのであるが、本書は筆者の長大な反省文という側面がある(慰められることにこれは他のバウンダリーについての著者たちも口を揃えていうことではあるのだが)。バウンダリーの概念に向き合うということは、自分のバウンダリーの甘さに気づいていくことであった。それは、バウンダリーとは他者を攻撃するのではなく、防衛の手段であるという性格に由来するからであるからと言える。というか、そういうものとしてバウンダリーを描写しないのであれば、本書を執筆する意味はないと思ったのである。
本書をきっかけにバウンダリーの概念を棍棒にして、誰かを殴るということが少しでも減ればいいな、と願う次第である。
※1 霊性をエネルギーとその使用法に分けて把握するのは、パウル・ティリッヒが神的力としてのエクスタシーとその構造であるロゴスの組み合わせとして描写したその組織神学のアイデアと繋がるかもしれない。しかし、ジャネの時代のプロテスタント神学というのは、理性主義者による自由神学が力を持っていた時代である。エランベルジェが100%理性主義者の申し子と述べたジャネのアイデアで聖書的な概念を置き換えるというのは、その後の新正統主義神学を学生時代に学んでいた身からすると、皮肉なもんだなと思うところである。
※2 本書の執筆は完全にピエール・ジャネについての研究書の翻訳作業の最後のツメの段階と重なっていた。正直両者を並行するのは大変であったのだが、それなりに意味があったと思う。ちなみにこの研究書は完全に専門家向けであり、一方でバウンダリーについての書籍は一般向けである。温度差で日本語が無茶苦茶になり、それぞれ編集者や執筆を助けてくれた友人に迷惑をかけてしまった。
※3 アサーションというのはとても有効なメソッドではあるが、しかしこれは西洋的な自他境界の性格の上でこそ十分な効果を発揮するものかもしれない。文化的影響については本書で筆者自身が考えるよりも言及するスペースは少なくなってしまった部分であるので、そのうちnoteでも取り上げたい話題である。
※4 尊厳に関する議論は、本書の中で泣く泣くカットしなくてはならなかった部分である。これもそのうちnoteで取り上げることにする話題である。
