【随筆】蚊取り線香の煙…風を見る③
時に僕は、
旅人の真似をする。
夏の夕暮れ。
蚊取り線香へ火をつける。
最初は小さな赤い火。
やがて、
細い煙が、
ゆっくりと立ち上っていく。
煙は、
真っすぐ空へ向かわない。
右へ揺れ。
左へ揺れ。
少し戻って。
また進む。
まるで、
どちらへ行けばいいのか、
風と相談しているようだ。
子どもの頃は、
そんな煙を、
ぼんやり眺めていたわけじゃない。
「なんで、
あの煙は、
くねくね曲がるんだろう。」
そんなことばかり考えていた。
確かめたくなって、
新聞紙を煙の上へかざしてみた。
どうなるんだろう。
煙は、
どこへ行くんだろう。
もちろん、
すぐに祖母に見つかった。
「何してるの!」
そう言いながら、
笑っていたのか、
本気で怒っていたのか、
もう思い出せない。
なんで、
煙は上へ向かうんだろう。
どうして、
煙は熱くないんだろう。
子どもの僕には、
最後まで分からなかった。
でも、
分からないからこそ、
何度も眺めていた。
大人になった今は、
つい、
人生を重ねてしまう。
人生も、
真っすぐ進めた日なんて、
思っているほど多くない。
寄り道をしたり。
遠回りをしたり。
立ち止まったり。
引き返したり。
それでも、
振り返ってみれば、
ちゃんと前へ進んでいる。
煙は、
風に逆らわない。
だからといって、
風任せでもない。
風を受け入れながら、
その時々の形を変えていく。
そんなふうにも見える。
だから僕は、
煙を見ていると、
少し安心する。
真っすぐじゃなくても、
いいんだ。
迷いながらでも、
いいんだ。
子どもの頃は、
煙の向こうに答えを探していた。
大人になった今は、
答えよりも、
煙そのものを眺めている。
蚊取り線香は、
蚊を追い払うためにある。
そんなことは、
もちろん知っている。
でも僕には、
あの煙のほうが、
何か大切なことを伝えたくて、
空へ昇っているように見える。
今日もまた、
風が吹く。
煙は、
迷いながら、
静かに空へ向かっていく。
そして僕は、
今日も、
蚊取り線香のゆらぎの中に、
風を見ている。
