パワハラ部長 最後の日(短編小説)

パワハラ部長 最後の日
序章
朝のオフィスはまだ暗く、時計の針がかすかな音を刻んでいた。
山崎晃は、自分の席で膝を抱えるように座り、鞄に忍ばせた鉄のハンマーの重みを感じていた。
「本当にやるのか……」
心の奥底から湧き上がる声は、もはや制御できなかった。
地獄の年月
晃の記憶には、運送会社で働いていた頃の穏やかな日々もあった。
だが、借金が彼を訪問販売の世界へと引きずり込んだ。
そこで待っていたのは、殴られ、晒され、人格を奪われる日々。
「命をかけろや!」「数字がゼロなら人間じゃねえ!」
部長の怒号が耳にこびりつく。
自分の名前を呼ばれるたび、晃は体が震え、視界が揺れた。
——人間として扱われていない。
やがて、怒りと恐怖は「殺意」という名に変わった。
崩壊の朝
部長がいつものように早く出社してきた。
「珍しいな、こんな時間に」
冷たい目で見下ろしながら電卓を叩く。
「山崎、見込みを出せ。命かけろやな」
晃の中で何かが完全に切れた。
立ち上がり、ハンマーを手に歩み寄る。
「なんだ、どうした」
その声を最後に、鉄の衝撃が空間を切り裂いた。
血と脳漿が弾け、真っ白なワイシャツは赤に染まる。
部長の身体は机に崩れ落ち、動かなくなった。
——終わった。
そう思った瞬間、胸に広がったのは解放ではなく、深い虚無だった。
幻影
席に戻り、缶コーヒーを開ける。苦みが喉を滑る。
ふと視界の端に、かつての自分が見えた気がした。
まだ借金もなく、両親と食卓を囲んでいた頃の晃。
「なんでこうなったんだ……」
呟いた声は自分のものか、それとも幻影のものか。
やがて女子社員の悲鳴が響き、現実は一気に崩れ落ちる。
警察に取り押さえられた時、彼は微かに笑った。
「これで、もう……怖くなくなる」
法廷
法廷で晃は淡々と語った。
「私は人間ではありませんでした。ただの数字を生む機械でした」
「恐怖と屈辱しかなかった。毎日が生き地獄でした」
傍聴席からすすり泣きが聞こえた。
同じような経験をした人間が、そこには何人もいた。
判決は懲役刑。死刑は免れた。だが、社会に落とされた問いは重く残った。
終章
会社の奥には、さらに暗い闇が広がっていた。
部長でさえ「つるし上げ会議」で殴られ、裏社会の影が経営を操っていた。
全員が被害者であり、同時に加害者でもあった。
鉄の衝撃音は、ひとりの男の怒りではなく、時代そのものが放った悲鳴だった。
——働くことは、生きることと同じではない。
その当たり前の真実を、昭和という時代の闇は、血で証明してしまったのだ。
