母がこの世を去った。余命宣告を受けてからわずか3週間。肝臓がん多発、脳梗塞を併発したトルソー症候群だった。母が最後に私に教えてくれたことは、「死」という絶対的なものの前では、「生きる」は圧倒的に無力だということだった。
1.余命宣告
5月下旬から来てもらっていた訪問看護師さんから「お母様の調子が本当にわるそうなので、一度担当医に全身を見てもらった方がいいと思います」とLINEが入ったのが6月6日。
全身を見てもらうとはどういうこと?検査?
昨年4度の入退院を繰り返し、2度の手術、3度の圧迫骨折を経て、
「もう入院は、嫌。病院は、嫌や。」
と言葉を絞り出すように言っていた母を見て、私はもう「家で看取る準備をしよう」と思っていた。あまりご飯が食べられず、日に日に衰えていく母を、これ以上検査や入院で辛い目に遭わせたくなかったのだ。しかし医療のプロである訪問看護師が「全身を見てもらった方がいい」というのはよくよくの事なんだろうと思い、以前入院していた病院の夜間診療に連れて行った。
検査の結果、脳梗塞が11個見つかった。
そして炎症反応が異常に高いというので、さらなる検査の結果、肝臓にがんらしきものが広がっていることが分かった。そのまま母を入院させ、私が病院を後にした時には、既に日付が変わっていた。
これだけの事実が目の前に突きつけられたのに、私も父も、まだ事の重大性がわかっていなかった。
4日後の6月10日、以前母の手術を執刀してくれた主治医から詳しい話を聞いた。
肝臓にがんが多発。
脳梗塞が散らばっている。
手術不可。
この状況で抗がん剤は毒にしかならない。
緩和ケア病棟を検討に。
最後に、非常に言葉を選んで主治医が言った。
「余命というところで言うと、あと数週間だと思います。」
母は、去年の3月までは自転車で毎日買い物に出かけるぐらい元気だった。今年2月に受けたCT検査でも、特に異常は見当たらなかった。
急変。それ以外の言葉が浮かばなかった。
2.密会
詳しい病状の説明の後、看護師長が来て、
「お母様、個室に移動してもらいますね。」
と言うので、「個室って、差額ベッド代がかかるんじゃないですか?」と恐る恐る聞くと、
「いえ、看護師が必要と判断したので、免除されます。面会は、24時間いつ来ていただいても大丈夫です。」
と言うではないか。
24時間いつでも面会可能とは、それほどの事なのか。
4日ぶりに会う母は、もう自分で体を動かすことも、話をすることもできなくなっていた。意識はあったが、言葉を発することができない。話しかけると頷くことはできたが、目を開けるのもしんどそうだった。
こんなことになるなんて。全く思ってもいなかった。
母と最後に交わした言葉は何だったのか。はっきりと思い出せない。
たぶん、何の感情もない事務的な会話だったように思う。
もっとなにか大切なことを伝えておけばよかった、と取り返しがつかない後悔が沸き起こりそうで、意識的に思い出すことを避けている。
看護師長の「いつ面会に来てもらっても構わない」という言葉を真に受け、私は仕事を終え晩御飯を済ませてから、ほぼ毎日一人車を走らせて母の病室へ向かった。
昼間家族と一緒に面会に行くのとは違う感覚。
たった一人で余命僅かな母のもとへ行くというのに、静かな道路を運転している時、なんだかワクワクした。
不謹慎だなぁ。病院に行くのに、ワクワクするなんて。
でもその時の私は、まるで今から会ってはならない人とこっそり密会するような気持ちだった。
もう誰も歩いていない静かな病棟を歩き、個室のカーテンを開けて、
「来たでー。調子どないですかー。」
いつものように明るく母に声をかけると、力なくこちらを向いて目を開けた。何か言いたげだ。ありがとうなのか、痛くてしんどいなのか。脳梗塞特有のその表情からは読み解けない。
母はもう話せないが、私が他愛のない話をしていると、時々少し微笑むように表情が緩んだ。目を開けているのがしんどいのだろう。少し声を張ったときだけ重そうに瞼を開いた。
本当に普段通りの会話。なんの特別感もない。日常の一コマ。
でもこの時間が、すごく愛おしかった。
母を亡くした今でも、このシーンをよく思い出す。
3.転院
入院している病院は、いわゆる基幹病院で急性期病棟なので、治療を目的とした人たちのためにある。母のように余命が分かっていて、もう手の施しようがないという患者を長期間置いておくことはできない。
先日の主治医の説明通り、緩和ケア病棟を探すことになった。病院には、医療連携部署というのがあり、専門の看護師が、近隣の緩和ケア病棟一覧表を持ってきてくれた。同じ市内で、緩和ケア病棟がある病院はたった2つ。しかも30床しかない。
たったこれだけですか?
と思わず聞いてしまった。満床で待っている人がいて、当分空きはないという事だった。
やっぱり。
諦めとため息が同時に出た。
(間に合うのか?)と思ったので、看護師に「もしどこも空きがないままだったら、退院しないといけないんでしょうか?」と聞くと、「いえ、その場合は、この病院で最後までいていただいて大丈夫です。」と言われたので、少し安心した。とはいえ、今の病院なら24時間いつでも面会できるが、緩和ケア病棟に移ったら面会時間に制限がある。泊まることもできるらしいが、夜こっそり会いに行く「密会」ができなくなるのが、少し寂しかった。
4.緩和ケア病棟
手の施しようがないと言われながらも、頻繁に看護師やリハビリ担当者がやってきて母を看護してくれる様子を見て、もう緩和ケア病棟が空かないならこのままでもいいかなと思っていた矢先の6月24日、「明日なら入れます」と急に連絡が入った。
先週末、空きがないと言われたばかり。どういう事なんだろう?末期がんは急変するというから、本当に予測不能なんだろうなと思った。緩和ケア病棟に空きが出るという事は、誰かが亡くなったという事。これって、ドナーからの移植を待つ患者の気持ちに少し似てるかも。複雑な気持ちだった。
6月25日朝、緩和ケア病棟へ転院した。結果的にここで看取れたことは、母にとっても、私たち家族にとっても最良の選択だった。常に医療のプロがいて、母のことを24時間体制で見守っていてくれる。自宅だったら、誰かがつきっきりで看ていなければならない。私は仕事があるし、父は認知症だし、母の要介護認定の期限が切れてしまっていたこともあり、新たに在宅看取り体制を整えるには、マンパワーと時間があまりにも足りなかった。
緩和ケア病棟は、普通の病院とは違い、独特の匂いや喧噪がない。看護師が忙しそうに走り回ることもない。心電図もないし、点滴もない。電子音やナースコールが響かない空間は、急性期の病院とは全く違う雰囲気だ。
それはきっと、入院患者がみんな末期がんで、余命が残りわずかと知っているから。積極的治療は行わず、痛みや苦しみをできるだけ緩和して自然に任せて人生の終わりを迎えようとしている人たちが集まっている場所だから。とても静かで、落ち着いた独特の時間が流れている空間だった。
母の部屋は南向きの大きな窓が心地いい個室で、10畳ぐらいの広さだった。もう何も話せないし、見ることもできないけど、きっと母なら、「いやー、ええ部屋やん。こんなとこ、ほんまに使わせてもらってええの?」と言いそうだった。
5.母の耳元で聞かせたメモリーズ・オブ・ユー
7月1日朝、見覚えのない電話番号から着信があった。市外局番から考えると、もしかして母の病院からではないか。緩和ケア病棟から電話がかかってくるという事は、単なる御用聞きであるはずがない。きっと、そういうことだ。
いきなり走る緊張感。
ついに来たか。
私はその時、電話をつかみ損ねるぐらい明らかに動揺していた。
「先ほどから下顎呼吸が始まっています。足のネフローゼ(むくみ)も昨日よりひどくなっているので、できるだけ早く来ていただいた方がいいと思います。」と看護師から言われたので、食べかけの朝ごはんを食べて、父に電話して、主人と一緒に病室に向かい、少し遅れて子ども達と古くからの友人も駆け付けてくれた。
病室に着くと、母は、「ザ・下顎呼吸」という感じで、下あごをアップアップさせて息をしていた。でも胸が上下していない。呼吸が浅い。手首の脈も感じることができない。のどの脈だけが弱々しく動いていた。
ああ、あと数時間しかない。
そう思った私はスマホを取り出して、母がいつも聞いていた日曜夕方のABCラジオ「メモリーズ・オブ・ユー」をradikoで再生した。これといった趣味を持たない母だったが、唯一このラジオだけは、毎週欠かさず懐かしそうに聞いていたのだ。
「A列車で行こう」「二人でお茶を」「ビギン・ザ・ビギン」「家へおいでよ」「ケセラセラ」「On The Sunnyside Of The Street」などなど、古き良き時代の懐メロが静かな病室に流れ、家族も古くからの友人も緊張した表情が少しほぐれた様だった。
「あー、このラジオ、ようおばあちゃんが聞いてたなぁ。覚えてるわ。」高校三年生の息子がつぶやいた。
月初でギガが満タンにあったのもマジでよかった。そして、母の手に数珠を持たせ耳元で、
「今までほんまにありがとう。後のことは大丈夫やから、心配せんでええから、私に任せて。もうしんどい思いして痛いの我慢せんでええから、南無阿弥陀仏やで。阿弥陀様に救い取ってもらうんやで。南無阿弥陀仏を唱えるんやで」
と繰り返した。友人は「ちょっと、あっちゃん」と私の言葉に苦笑いしていたが、私は仏教が好きで、仏教から多分に影響を受けた死生観を持っているので、ごく自然にこの言葉が出たのだ。人は必ず死んで生まれ変わる。すべての結果には必ず原因があり、その原因は過去世で自分が種まきしたものである。あの世で阿弥陀仏に救ってもらうと未来永劫、極楽浄土へ行ける。そんな教えにすごく共感し、母も是非、阿弥陀仏に救い取っていただきたいと思っていた。
6.答えのない問い。仏教に救いを求める
何をバカな事を言ってるの?
もっと感謝の言葉とか伝えるべきことがあるでしょう!
とおっしゃる方もいるかもしれない。人は、目に見えるものを信じる傾向がある。それは、ここ数百年の目覚ましい科学の発展のお陰で、あらゆる不思議な出来事が科学で解明されてきたからだ。
でも、人の死は、特に自分の大切な人の死は、科学や知識だけでは解決できない得体のしれない恐怖や悲しみに襲われるのだ。そんな時、古の昔からある宗教に救いを求めるのは、むしろ自然なことではないだろうか。無宗教と言いながら、お葬式ではお経を上げてもらう人が多数なのも、無意識に万物を超えた力に救われたいという思いがあるからなのではないか。
7.冷静と動揺のあいだ
母の急激な変化に動揺しながらも冷静に受け止められたのは、私が母からキャッシュカードなどの金融情報をすべて預かっていたこと、銀行引き落としの内容と金額、タイミングを知っていたこと、事前に葬儀社へ相談し見積をもらって段取りを整えていたことで、次に何をすればいいのかをわかっていたからというのが大きな理由だった。
でもそれ以上に、ずっと、生きるとは何か、死とは何か、死んだらどうなるのかといった答えのない問いを考え続けてきたから、母の臨終の際も自然の流れの一部として見守ることができたのではないかと思う。
死を忌み嫌うものとしてではなく、そうあるべきものとして受け入れられたというか。できればもっと遅い方がよかったけど、まあ、もう来てしまったんだったらしょうがない。玄関先ではなんですから、どうぞおあがりください、的な。
人は、みんないつか必ず死ぬ。
でもそれがいつなのかは誰にも分からない。
確実にやって来る未来なのに、誰も死に方や死んだらどうなるのかを考えようとはしない。たぶん色んな話を聞いても当事者にならないと腑に落ちないからだろう。
でも、当事者になったときには、既に遅いかもしれない。
だから手遅れになる前に、死んだらどうなるのか、どう生きれば死後救われるのかを考えることは、決して無駄ではないと思う。
母は最後に私に大切な事を教えてくれた。
「生きる」は圧倒的に無力。「死」の前では。
死は抗いがたい強い引力を持っていて、我々がどれだけ抵抗しても勝てない。ただただ自分の無力さを思い知らされる。それが死の持つ圧倒的な力なのだと。
8.後悔は残る。そのことを前提で動く
母は、本当に自然に逝った。
痛みも苦しみもなく、最後の呼吸を終えて自ら口を閉じた。
ああ、これが人間の死にざまなんだなぁと、感動すら覚える最期だった。大きな時の流れの一部にくみ取られていったような、悲しさ、寂しさ、切なさを超えて、偉大な存在になったというか。
でももしかすると母は、
家に帰りたかった。
こんなはずじゃなかった。
もっと生きたかった。
あれもこれも食べたかった。
と思っていたかもしれない。時間が経てば経つほど色んな思いが私の中に湧いてくる。
どんなに手を尽くしても、後悔をゼロにすることはできない。人は生きていれば必ず、次から次へと欲が出てくるからだ。でもそれは、一生懸命前向きに生きてきたことの証でもあるから、後悔が残ることを恐れたり、罪悪感を覚える必要は全くないと思う。
不思議なことに、最後の息を終えた母を見ると、眉間のしわが消えて、すごく穏やかに微笑んでいるように見えた。想定外ではあったかもしれないけど、まるで、
「みんなよう来てくれたなぁ。そのラジオ聞きたかってん。ありがとう。」
と言っているようだった。
母を送った日の空は広く晴れ渡っていた。
母はよく、「ほら、あの大きな雲、孫悟空が走り回ってるみたいやん。気持ちよさそうやなぁ」と無邪気に笑っていた。「そうやなぁ。ほんまに気持ちよさそうやなぁ。」私も何度も笑った。
白い雲を見ると、いつもその言葉を思い出す。
今日も晴れ。雲が綺麗。
認知症の父を見守りながら、私は今日も生きてゆく。
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終活って、ひとりでやろうとすると、途中で挫折したりします。趣味:終活って言ってる終活プロデューサー(終活P)の私を頼ってください!多分お役に立てると思います。