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私の1日は、だいたい迷子

 私の1日は、だいたい名づけられないまま終わる。
 朝起きて、顔を洗って、パンを焼いて、会社に行って、帰ってきて、風呂に入り、眠る。こうして並べてみると、立派に「1日」なのに、夜になると、心の自分に「今日は何があったのか?」と聞かれて、私はしばし黙る。頭の中で、何かが行方不明になる音がする。
 
 事件は起きていない。奇跡も降ってこない。だから私は、今日を「特に何もなかった日」と呼びそうになる。けれど、それはいつも少しだけ、嘘をついている気分になる呼び方だ。
 
 私は、忘れっぽい。
 さっきまで探していた眼鏡を、眼鏡をかけたまま探す程度には、日常の扱いが雑である。だから1日という単位を、きちんと記憶するなど、そもそも無理なのかもしれない。私の脳はどうやら、「大事件優先保存」「その他は自動削除」という冷酷な仕様で動いている。
 
 それでも、削除されたはずの1日が、ふいに胸をつつくことがある。
 
 例えば、雨の日の帰り道。
 傘をさしても靴下は濡れ、買い物袋は指に食い込み、私は少しだけ不機嫌だった。なのに、信号待ちの間に見た水たまりが、思いがけずきれいだった。街灯と空が混ざって、世界が二重に存在しているみたいだった。私は一瞬、足を踏み出すのを忘れた。
 その出来事を、私は誰にも話していない。話すほどのことではないからだ。でも、なぜかそのとき、「ああ、今日もちゃんと生きたな。」と思った。理屈はまったくわからない。
 
 私の1日は、こういう「理由のない納得」でできている。
 
 こうした瞬間は、すぐに逃げる。
 メモを取る前に、名前をつける前に、意味を与える前に、すっと消える。まるで、こちらが気づくかどうかを試しているみたいに。
 
 だから私は、短い言葉に頼るようになった。
 長く書こうとすると、私は途端に余計なことを考え始める。「これは本当に価値があるだろうか?」「後で読んで面白いだろうか?」「そもそも読むことなどあるのだろうか?」。そうやって考え込んでいるうちに、肝心の感覚は逃げてしまう。
 短い言葉なら、逃げ足の速い感情も捕まえられる気がした。逃げる鳥に、網ではなく、そっと差し出す指のようなものだ。
 
 面白いのは、その言葉をあとで読み返すと、当時とは違う景色が現れることだ。
 雨と書いたはずなのに、なぜか夏の夕方を思い出す。
 夕焼けと書いたはずなのに、冬の駅の匂いがする。
 私は自分の書いたものに対して、「そんなつもりじゃなかったのだが・・・」と内心つぶやきながら、それでも少し嬉しくなる。どうやら、言葉は私の管理下を離れたほうが、生き生きするらしい。
 
 それを誰かが読めば、なおさらだ。
 私の1日は、他人の人生と勝手に手を取り合う。
 知らない人の記憶の引き出しを、無断で開けてしまう。
 それを申し訳なく思うどころか、私はどこか誇らしい。自分の何気ない1日が、誰かの過去にそっと触れるなんて、なかなかに図々しく、そして愉快なことだ。
 
 そこには、採点も判定もない。
 「こう感じるべき」という正解は、最初から用意されていない。
 むしろ、ずれているほうが面白い。噛み合わない記憶同士が、意外なところで仲良くなる。その様子を、私は少し離れた場所から眺めている。
 
 日常は、本当に足が速い。
 洗濯物を干したことは、干して数分も経たぬ間に忘れるし、お風呂など、何回沸かしたことか。ため息に至っては、吐いた本人が一番覚えていない。
 けれど、それらが積み重なって、今の私ができている。思い出せない材料でできた自分というのは、考えてみると、なかなか不思議な存在だ。
 
 短い言葉は、その矛盾を責めない。
 「そんなもの、取るに足らない。」と言わない。
 むしろ、「それで構わない。」と、肩をすくめて笑う。
 その態度が、私は好きだ。過剰に慰めず、過剰に持ち上げもしない。ただ隣に座って、同じ方向を見ている感じがする。
 
 誰かに評価されるためではない。
 誰かに褒められるためでもない。
 自分が、自分の1日を見失わないためだ。
 
 もし私が、「今日は無駄だった」と思いそうになったら、短い言葉を置いておく。
 それは「無駄ではなかった」と主張するためではない。
 ただ、「私はここにいた」と確認するためだ。生きていた証明としては、ずいぶん控えめだが、私にはちょうどいい。
 
 後になって読み返すと、そこには必ず何かが残っている。
 匂い、音、温度、言葉にできなかった感情。
 それらは、時間が経つほど、少しずつ形を変えながら、私の中で居場所を見つけていく。
 
 名もない1日は、いつの間にか、私の背中を押す。
 大きな力ではない。けれど確実に、否定せず、急かさず、黙って歩調を合わせてくれる。
 
 今日もまた、私は迷子のまま1日を終えるだろう。
 それでも構わない。
 迷子になった場所に、小さな言葉を置いてきたのだから。
 
 それはきっと、明日の私が、少しだけ安心して歩くための、目印になる。

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