見出し画像

落雁のように、私は崩れてよかった

本当に大事なことって、たいてい「あと味」で気づく。
人の言葉も、別れ際の表情も、朝に飲んだお茶の渋みでさえも。
すぐにはわからないのに、じわじわ染みて、あとから効いてくる。


私はといえば、最近ようやく、「わからなかったもの」を拾い直すような日々を送っている。
まるで、誰かが落としていった落雁のかけらを、縁側の下からそっとすくい上げるように。
やわらかくて、すぐに崩れてしまいそうだけれど、その断片には、案外たくさんの光が詰まっている。


昔の私は、祖母の作る落雁を、ただ「甘い粉の固まり」としてしか見ていなかった。
けれど、いま思い出すと、あの桜のかたちには、春のうららかさだけじゃなく、
「散ることを恐れないやさしさ」
が刻まれていたのだと思う。
押し型でぐっと固められていながら、口の中ではすぐにほろりと崩れるあの繊細さ。
それは、ずっとがんばってきた人だけが知っている「手放し方」のようだった。


崩れてしまうことを、私はずっと怖がっていた。
ちゃんとしなきゃ、とか、しっかりしなくちゃ、とか、
まるで世界に対して説明責任でも負っているかのように、
自分をカチコチに固めていた。
けれど祖母の手の中では、そんな力みはいつも
ふわりと溶けていた。


祖母の作った落雁を、いま思い出せるのは、その一瞬の味だけじゃない。
粉を詰めるときの無言の集中や、仕上がりを確かめる指先のやさしさ、桐箱をそっと閉じるときの静かな満足。
どれもこれも、人生の「いい時間」だった。


私はときどき、落雁になりたいと思う。
強くなくても、派手じゃなくても、
季節を映して、ほんのり甘くて、崩れてしまっても愛される存在。
口の中で一度ほどけてから、心の奥に残るような。
そんなふうに、生きていけたらと思うのだ。


もちろん、落雁だって、型に入れるまではただの粉だ。
ばらばらで、どうしようもなくて、風に舞えばすぐ消えてしまう。
けれど、誰かが手を添えてくれれば、それは形になる。
桜にもなれるし、千鳥にもなる。
私は、今まで祖母に押し固めてもらっていたんだ。
私はちゃんと形になっていたのだ。


人間は、いつか崩れる。
でも、崩れるから、沁みるのだと思う。
祖母の言っていた、「すぐ溶けちゃうけど、心には残るのよ。」
あの言葉が、今になって涙になる。


生きるというのは、溶けてゆく過程に似ている。
そしてたぶん、うまく溶けるには、ちょっとした工夫と、あたたかい掌が必要なのだ。
ひとりではできないけれど、誰かのためなら、できる。
誰かがいてくれたら、崩れても、やさしく広がっていける。


だから今日も、私は落雁のように、崩れて、またすこし、甘くなっていく。
それは敗北なんかじゃない。
崩れたあとにしか見えない景色があるということを、
祖母がそっと教えてくれていたから。


明日はもう少し、やわらかくいてもいいかもしれない。
ちょっと崩れても、それはそれで美しいから。

いいなと思ったら応援しよう!

Ogion よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!