見出し画像

映画『ブーニン』初日舞台挨拶レポ――「いいことあるよ」と戦ってきた人の言葉

映画の冒頭に流れたのは、ショパンのノクターン「遺作」を演奏するブーニンの横顔のアップだった。

その一音目を聴いた瞬間、この映画はきっと、ブーニンという人の人生そのものを映すのだと感じた。

私は、もう泣きそうになっていた。

実は、私はこの映画と初日舞台挨拶のレポを、すぐには書けなかった。

時間はあった。
書こうと思えば書けた。

でも、書けなかった。

学生時代に夢中になったブーニンと、
怪我をし、長い時間を経て、
それでもピアノに戻ろうとしていたブーニン。

その二人が、私の中でうまく重ならなかったからだ。

私は、ブーニンがそんな時間を過ごしていたことを知らなかった。
名前をあまり耳にしなくなったのは、外国の人だからだろう、とどこかで思っていた。

映画で真実を知った。
衝撃だった。

上映中、客席では手元は暗くてまったく見えなかった。

だから、音がしないペンを使い、自分の著書『ショパンコンクール鑑賞手帳2025』に、ほとんど勘でメモを書き進めていった。

文字が曲がっているかもしれない。
行もずれているかもしれない。

後で見返したら、やっぱり文字は曲がっていたし、行もずれていた。

衣装や右手の指輪が光っていたことはイラストで

でも、自分の字だった。
何が書いてあるのかは、ちゃんとわかった。
舞台挨拶だけで10ページ分、メモしていた。

暗闇の中で必死に残した、その瞬間の記録だった。

映画はノクターン「遺作」から始まり、バッハで終わった。

「遺作」は、これからつらい物語が始まるという暗示のように聴こえた。

そして最後のバッハは、まるでこう言っているようだった。

こんなにつらい時間があった。
身体が自由に動かない日々があった。
それでも戻ってきた。
負けなかった。

「負けなければ、いいことあるよ」

舞台挨拶でブーニンは言った。

どんなことがあっても、自分の道を見失わないこと。外れないことが大事だと。

決意を口にするのは、ほんの数秒。

けれど、その裏側には、身体が思うように動かないまま、それでもピアニストとして復帰をあきらめなかった、長い時間がある。

その時間の長さを思うと、私は簡単にはうなずけなかった。

ブーニンの人生も、まっすぐではなかった。
ずれもあった。
思い通りにいかない時間もあった。

でも、音は残った。
彼自身の音として。

暗闇の中で曲がってしまった私の文字も、
私自身の記録として残っている。

まっすぐでなくてもいい。
ずれていてもいい。

残そうとしたものは、残る。

最後にブーニンは客席に向かってこう言った。

「お願いですから、手や足を折ったり、怪我をしたりしないでください。健康でいてください。」

その言葉に、涙があふれた。

そして、こうも言った。

「いいことあるよ、と思って戦ってきた。」

その言葉を聞いたとき、ふと思った。

学生時代の私に教えてあげたい。

あなたがカセットテープで聴いていたあのブーニンは、
40年後に映画になり、
60歳になったあなたは、舞台挨拶を客席のすぐ近くで見ることになるよ、と。

あの頃は、コンサートに行くお金もなかった。

でも、部屋のラジカセの横には、友人の手書きで「ブーニン」と書かれたカセットがいつも置いてあった。
その光景は、今でもはっきりと覚えている。

映画『ブーニン』は、復活の物語というより、道を外れない物語だった。

あの「遺作」の一音目から、最後のバッハまで、
それは一つの人生だった。

__________________________

前の記事はこちらです。


今回、暗闇の中で書き込んだのは
『ショパンコンクール鑑賞手帳2025』でした。

音楽の一瞬を、言葉で残すために作った手帳です。

▶︎ 『ショパンコンクール鑑賞手帳2025』はこちら

なお、一般の演奏会にも使える
『コンサート鑑賞手帳』を新たに制作いたしました。
50回分の鑑賞記録ページのほか、
アーティストのサインをいただいたり、チケットを貼ったりする自由記録ページもあります。


【追記】
この記事が、noteのハッシュタグ #映画感想 で特にスキを集めた記事としてコングラボードに表示されました。
読んでくださったみなさま、本当にありがとうございます。
「なぜこの記事だったのだろう?」と思い、理由を考察した記事も書きました。
よろしければこちらもご覧ください。

※この記事には Amazonアソシエイトのアフィリエイトリンクを含みます

いいなと思ったら応援しよう!

小川なっち|作家/体験を未来へ残す出版プロデューサー よろしければサポートをお願いします! いただいたサポートは、より良い記事のための活動費に使わせていただきます😊

この記事が参加している募集