恋愛小説、書けません。/Lesson16:「実体験に基づいて」
帰宅して、山崎の告白を断った理由について耀介は考えていた。
――確かに山崎さんは素敵な女性だと思うし、俺なんかには勿体無い。それに俺が恋愛感情を抱かないまま付き合うのは、山崎さんの誠意ある告白に対して失礼だ。幾度かデートを重ねて山崎の魅力に気付いて惹かれたら、交際に発展する可能性はあったのかもしれない――と。
しかしどこか耀介の心の中に違和感が生じる。そして胸の痛み。
それが何であるか、分からない。女心が分からないどころか、果ては耀介自身の心すらも見えなくなってしまっていた。
◆
「進まなかったのかい?」
「申し訳ありません」
いつもの応接室のソファで、耀介が萎縮している。
山崎からの告白を聞いて、女心と自分の心について考えあぐねている内に期日が来てしまったのだ。
「うーん……菅原くん、これは提案なんだが」
「何でしょう」
「いっそのこと、主人公を菅原くんのような境遇の男性にしてしまえばいいのではないかな?」
「と、申しますと」
「君は初恋すらまだだ、と言っていただろう? そこまで極端ではなくても、恋愛に対して不器用な男性を描いてみたらどうだい、と言っているんだ」
「それは文学というよりは、私小説になるのではないのでしょうか……」
「私小説も立派な文学の一つだよ」
「ですが……」
耀介が俯く。戸惑っている理由はただ一つ。作家としてのプライドだった。自分をモデルにしてしまえば確かに楽であることは間違いない。でも、それをせずに今までやって来たのだ。もっと言えば、耀介のような主人公の小説は「共感すら得られない」気もしていた。
「伊田滝先生」
急に木下が菅原くん、ではなく伊田滝の名前を口にする。耀介が顔を上げると、そこには学生時代最も恐れていた『鬼編集者』の木下がいた。
「君は『書かなくてはいけない人間』なのだよ。読者は待っている。待たせるのも販売方法の一つだが、今回ばかりは待たせてはいけない。君を待っているファンに、自分の作家としてのエゴを押し通して裏切るつもりかい?」
膝に置いた握り拳に力が入る。木下が言っていることは間違っていない。
「青木賞というものがどれだけ重たいものか、まだ菅原くんは理解していないような印象を受ける。これからはその重たい冠をつけた状態で作品を創り上げて行くんだよ。だからこそ、私は次回作に恋愛小説を勧めた。それは『伊田滝登』の新しい挑戦としてだ。そして確信している。その小説は売れる、と。伊田滝登の世界観を知っている読者は勿論だが、今回の受賞で君は知名度を上げた。新規読者を獲得するチャンスだ。既存読者を驚かせ、そして新規読者を掴む為に、必要なことだ」
「……仰る通りです。申し訳ございません」
耀介は悔しい、という気持ちよりも、情けない気持ちで一杯になってしまった。きっと絢乃もこうなることを予測していたからこそ、親身に相談に乗ってくれていたのだと気付く。
「とは言っても、私も昔ほど『鬼編集者』ではなくなったからね。もう少しだけ時間をあげよう。でもこれが最後の時間だと思って取り組んで貰いたい。分かるね?」
「はい……肝に銘じます。木下さんのご厚意を無駄にしないよう精進します」
耀介はかなりのダメージを受けていた。青木賞の重みを確かに考えていなかった自分への怒りと、それに気付けなかった若輩者の自分への呆れが交互に襲う。
「ちょっとお灸を据え過ぎたかな? 学生時代の菅原くんとのやり取りを思い出してしまったよ」
そこで木下が微笑む。本当にこの人無しでは、耀介の小説家としての道はなかっただろう。
「あの頃、君は大学生だったね……。今より少しあどけない表情で、それでも小説に対する真摯な姿勢は、他の作家にも見習って貰いたいと思ったぐらいだ」
「恐れ多いです」
こんなにも自分を必要としてくれる人が目の前にいるのにと、益々耀介は沈む気持ちを浮き上がらせられなくなり、項垂れた。
「期待しているんだ。伊田滝登、という一人の作家を。だからあの頃から私は君に高いハードルを跳べと言ってしまっていた。しかし君は期待以上に跳んでくれる。それは売れるからじゃないんだ」
恐れていた声が突然柔らかくなる。
耀介は何が起こったのだろう、と顔を上げると木下が一言。
「私が、君の作品の最初のファンだからだよ」
その言葉が、耀介の胸に突き刺さった。
◆
作家としてのキャリアは9年だが、こんなに作品のアイディアが出てこない事は今までなかっただけに、耀介は困り果ててしまった。
自宅のパソコンの前で、走り書きのメモ帳を横目に深い溜息を一つ。
すると珍しい着信音が鳴った。家族設定の着信音。
「もしもし? 珍しいじゃないか」
電話の主は、耀介の実兄の侑介からだった。
『ヨウ、お前明日暇? 久し振りにあの店で飲まないか? ちょっと話したい事があってさ』
「……別に構わないが」
木下に手厳しい事を言われた手前、本当ならば集中しなければならないのだが、家族に関しては耀介は『小説以上に大切なもの』と位置付けている。
「それにしても兄貴、珍しいな。どうした? 電話では無理な話なのだろうか」
『あ、うーん……それは店で話すから』
「偉く曖昧な返答だな」
『今職場からなんだ。悪いな。じゃあ明日の18時に予約しておくから』
「分かった」
変な電話だった。兄らしくないと弟として思う。その「兄らしくない」電話が、耀介にとってとんでもない「事実」だと気付くのは、もう少し先になる。
Lesson17はこちらから↓
Lesson1はこちらから↓
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたチップは私の書籍購入代や「豊かな感性」の生活のための資金にさせていただきます!今後とも応援よろしくお願いいたします!!