理想論を捨てて、現状のルールを認めること
世の中には「努力は必ず報われる」とか「みんな平等にチャンスがある」といった、耳当たりの良い言葉が溢れていますが、あれは半分正解で半分は残酷なファンタジーだと、私は思っております。
私の大好きなゴルフを例に挙げてみると、朝一番のティーショット、渾身の力で振り抜いたボールがフェアウェイのど真ん中へ飛んでいく。いいねぇとほくそ笑んで最高のスタートだと思ってボールのそばへ行ってみると、そこには不運にも「ディボット跡(前の人が削った穴)」が口を開けて待っています(泣)。ナイスショットをしたのに、ボールは穴の中。これに対して「前の人が埋めておかないのが悪い!」「ルールとして不公平だ!」とグリーンに向かって叫んでも、穴の中からボールが自動的に浮き上がってくることはありません。ゴルフという競技は、その「穴の中にあるボールをどう打つか」を競うスポーツであり、文句を垂れている間に刻々と時間は過ぎ、集中力は削がれていくのです。
ビジネスも、そしてまちづくりも、全く同じことが言えるのではないでしょうか。
「配られたカード」を呪っても、手札は1枚も変わらない
私たちが直面する現実は、いつだって不平等です。生まれた場所、親の資産、時代背景、そして3年後の金利水準。これらはすべて、自分が選んだものではなく、勝手に「配られたカード」に過ぎません。
オガールというプロジェクトを動かしているときも、あるいは沖縄の南城市で新しい景色を眺めているときも、私は常にこの「配られたカード」と向き合っていきます。というか、行くしかないのです。
地方には地方の、都市部には都市部の、それぞれの「不平等な前提」があります。「もっと予算があれば」「もっと人口が多ければ」という理想論を語るのは自由ですが、それを語っている間にも、銀行の金利は1秒ごとに発生し、建物の劣化は進んでいきます。
ここで重要なのは、不平等を嘆くことではなく、その「ルール」をまずは無条件に受け入れるという冷徹な姿勢です。
よく「自分らしく生きる」という言葉が使われますが、あれもルールを無視して良いという意味ではありません。麻雀で言えば、配牌がバラバラのときに「私は平和(ピンフ)が好きだから、無理やり平和を作るんだ!」と叫んでも、ツモってくる牌がすべて字牌であれば、そのこだわりはただの自殺行為です。今、自分の手元に何があって、卓を囲んでいる相手がどんな動きをしているのか。その「冷え切った現実」を直視することからしか、勝負は始まらないのです。
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