16年務めた社長を、降りました。──降りることまでが、はじめから設計図でありました。
2026年7月24日、私はオガールプラザ株式会社の代表取締役を退任いたしました。16年以上にわたって務めてきた社長業を、この日、降りました。私の人生で、社長という役職を自ら降りた、初めての日でもあります。
こう書くと、多くの方が「岡崎はオガールから引退したのか」「寂しい区切りだな」と受け取られるかもしれません。ですが、まず最初に、はっきりと申し上げておきたいことがあります。私はオガールから離れたわけでは、まったくありません。
株式会社オガール、オガールセンター株式会社、オガールディベロップメンツ合同会社、そしてマザーオガール地方創生アカデミー株式会社。オガールの名を冠するこれらの会社の社長は、私はいまも変わらず務めております。降りたのは、オガールプラザ株式会社という、たった一つの会社の代表の座であります。だから私は、これからも当たり前のように、オガールに関わり続けてまいります。
その上で、正直な胸の内を申し上げます。この退任を、私はまったく寂しいとは思っておりません。むしろ、深く安堵しているのであります。なぜなら、この日が来ることこそが、16年前に私が思い描いた設計図の、最後の一手だったからに他なりません。
社長が降りても回っていく。それを見届けられたことが、私にとっては何よりの成果なのであります。
そもそも、オガールプラザとは何だったのか
話を始める前に、オガールプラザという建物が、いったい何者だったのかを書いておかなければなりません。
岩手県紫波町。盛岡と花巻のちょうど真ん中にある、人口3万2千人ほどの町であります。この町の紫波中央駅前に、10.7ヘクタールもの町有地が、長らく手つかずのまま眠っておりました。1998年、町はこの土地を28億5000万円で取得したものの、143億円に上る公共施設集約の構想は財政難で凍結され、駅前の一等地は「塩漬け土地」と呼ばれる負の遺産になっていたのであります。
この土地が動き出したのが、2007年。当時の藤原孝町長が「公民連携元年」を宣言し、行政と民間が役割を分け合って駅前を再生する、日本ではまだ誰も本気でやっていなかった挑戦が始まりました。その最初の象徴として2012年に生まれたのが、オガールプラザであります。
一つの建物の中に、町の図書館と子育て支援センターという「官」の機能と、紫波マルシェという産直や、眼科・歯科・学習塾・居酒屋といった「民」の商いが、同居している。官と民が一つ屋根の下で、それぞれの采配で動く。この官民複合施設は、当時の日本の常識からすれば、ずいぶんと風変わりな器でありました。
とりわけ図書館は、単なる本の倉庫ではありません。もともとは町出身の作家・野村胡堂が蔵書を寄贈した「胡堂文庫」を源流に持ち、農業と商業の支援に特化した、全国でも例のない図書館として設計されました。司書が農地や商店街まで出向いていく。この図書館は、のちにLibrary of the Year 2016で優秀賞を受け、全米図書館協会の大会にまで登壇することになります。駅前の塩漬け土地に建った建物が、世界に紹介されるまでになったのであります。
なぜ、人ではなく「器」に事業を託したのか
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