モネより高かった男──美術史に忘れられた市場の王、メッソニエ
1枚の絵で豪邸が買えた画家
今から約150年前のパリ。季節は春だった。
1874年、写真家ナダールのアトリエには、まだ名も定まらない新しい絵画を見ようと、約3,500人が訪れた。のちに「第一回印象派展」と呼ばれることになる、独立画家たちの展覧会である。
場所は同じパリ。そのわずか二週間後に開かれた公式サロンには、40万人を超える人々が押し寄せた。
いまの私たちは、つい印象派の側から19世紀を見てしまう。モネ、ルノワール、ドガ。彼らこそが新しい絵画を切り開いたのだと、すでに知っているからだ。
しかし、当時のパリの空気はまったく異なっていた。
人はサロンに集まっていた。市場が信じていたのも、公式に認められた画家たちだった。そのサロンの中心に、いまではあまり語られない一人の画家がいた。
ジャン=ルイ=エルネスト・メッソニエ。
1815年生まれ。メッソニエは、ナポレオンがワーテルローで敗れた年に生まれた画家だ。
メッソニエはエドゥアール・マネより17歳年上だった。そのマネは、のちにモネやルノワールといった若い画家から、兄貴分のように慕われる存在になる。つまりメッソニエは、その“兄貴分”よりもさらに一世代上の画家だった。
現在の知名度では、マネやモネのほうが圧倒的に上だ。けれど、マネがサロンで波紋を起こし、モネたちが独立展へ向かっていった1860〜70年代のパリで、圧倒的に「成功した画家」だったのはメッソニエだった。
彼は、サロンの寵児だった。
ナポレオン時代の軍人、馬、軍服、戦場へ向かう隊列。そうした歴史的な場面を、驚くほど細密に描いた。彼の絵は、ただ大きな歴史を描いたものではない。ボタン、鞍、ブーツ、剣、馬の筋肉、軍服の縫い目まで、目で触れられそうなほど細かく作り込まれていた。
当時のフランスでは、ナポレオンの記憶はまだ遠い歴史ではなかった。栄光と敗北が混じったその時代を、メッソニエは軍服や馬具の細部まで再現することで、目の前に蘇らせたのである。
その人気は市場にも表れていた。
1876年、メッソニエの大作《フリートラント、1807年》は、アメリカの実業家A・T・スチュワートに、6万ドルという破格の金額で購入された。

The Metropolitan Museum of Art, Public Domain
それは、当時のアメリカ大統領の年俸を上回る金額だった。さらに、マーク・トウェインが1874年に住み始めたハートフォードの25室の邸宅の建築費と比べても、同じかそれ以上の規模に見える金額だった。
ただし、メッソニエをただの「古いアカデミックな画家」として片づけると、話は少し単純になりすぎる。
彼は最初から戦場ばかりを描いていたわけではない。若いころのメッソニエが得意にしたのは、煙草を吸う男、読書する男、カード遊び、音楽家、画家のアトリエといった、小さな室内劇だった。
その小さな劇を支えていた異常な細密さが、やがて軍服、馬具、騎兵、ナポレオンの戦場へ向かっていく。室内の観察者が、歴史の再現者になったのである。
アトリエには、軍服があり、武器があり、馬具があり、歴史的な小道具があった。彼はナポレオン戦争を実際に見た世代ではない。だからこそ、彼は自分が経験していない戦争を、資料と道具と観察によって絵画にしようとした。
《フリートラント、1807年》のためには、多くの素描や油彩習作に加えて、主要な騎兵のための蝋模型まで作られた。
つまり彼は、過去を想像だけで描いたのではない。
まず、その時代をセットとして組み立てた。
衣装部。小道具部。美術部。動作研究。そして監督。そのすべてを、一人で抱え込むような、映画製作会社のようだった。
モネが外へ出て、変わり続ける光を追ったのだとすれば、メッソニエは逆に、過去をアトリエの中に呼び戻した。
一方は空気を描き、一方は時代そのものを再現しようとした。
時代の再現は高く売れた。後年になると《フランス戦役、1814年》は85万フランという異様な価格に達する。
この時点で、メッソニエは単なる人気画家ではない。美術市場における巨大企業のような存在だった。
けれど、同じ時代に、別の場所で苦しんでいた画家がいた。
エドゥアール・マネである。
「落とされる側」だった、マネ
マネは、いまでは近代絵画の扉を開いた画家として語られるが、1860年代の彼は、まだ制度の中で勝っていた画家ではなかった。
1861年、29歳のマネには、一度サロンの扉が開いた。《スペインの歌手》が入選したのである。けれど、その扉はすぐにまた重く閉じる。
そのわずか2年後、《草上の昼食》は公式サロンに拒否され、落選者展へ回された。マネの絵は、そこで嘲笑とスキャンダルの中心になった。
サロンはアカデミックな価値観を守り、カバネル、ブグロー、そしてメッソニエのような画家たちが称賛される場だった。
マネの苦悩の一方で、メッソニエが30歳を迎えるころには、サロンの扉は大きく開いていた。彼はただサロンに入れてもらうというだけでなく、大きく迎え入れられる画家になっていた。
彼はサロンで次々とメダルを受け、批評家に褒められ、コレクターに求められていた。まだナポレオンの大作で市場を揺らす前から、メッソニエはもう「迎え入れられる画家」になっていたのである。
つまり、当時の構図はこうだった。
マネは、審査される側だった。
メッソニエは、その制度の中で評価され、称賛され、高額で買われる側だった。
美術史の教科書を読むと、マネが勝者に見える。
だが、1860年代のパリを当時の視点で見ると、勝っていたのはメッソニエだった。
この上下関係は、戦争の中でも奇妙に重なる。
普仏戦争でパリが包囲された1870年、マネは国民衛兵としてパリ防衛に関わった。包囲は1870年9月から翌1871年1月まで続き、街は飢えと不安に覆われていく。マネはその後、1871年2月にパリを離れ、多くの期間を市外で過ごしたが、5月末には戻り、鎮圧の惨状を目撃している。
普仏戦争そのものは、1871年5月のフランクフルト講和条約で正式に終わった。
その軍務の中で、メッソニエはマネの上官、あるいは指揮系統上の上位者だったとされる。後世の美術史ではマネが近代絵画の勝者になる。しかし当時の制度の中では、サロンでも軍務でも、メッソニエのほうが上にいた。
メッソニエからのマネへの距離感について、印象派寄りの批評家テオドール・デュレは次のように伝えている。メッソニエのマネに対する態度は、礼儀はあるが親しさはない。挨拶はする。けれど、近づきはしない。
おそらくそれは敵意というより、同じ絵画の世界にいながら、別の基準で生きている者同士の距離だったのかもしれない。
それでも、ただの旧体制ではなかった
ただし、ここでメッソニエを「マネを拒んだ古い権威」の象徴としてだけ描いてしまうことはまた、事実と異なる。
実際、彼の技術は、次の世代の画家たちにも無視されていなかった。
たとえばドガである。
ドガはメッソニエを全面的に尊敬していたわけではない。むしろ、かなり皮肉な目で見ていた。だが同時に、彼はメッソニエの馬の描写を見ていた。
メトロポリタン美術館のドガ資料では、ドガが1864年から1872年にかけて何度か、メッソニエの《ナポレオン3世、ソルフェリーノの戦い》を参照して描いたと説明されている。また別の研究では、ドガがメッソニエを「小人たちの巨人」と呼んだことも紹介されている。つまり、皮肉と敬意が混ざっていた。
近代絵画は、アカデミックな絵画をただ破壊したのではない。
古い制度を批判しながらも、必要なところではその技術を見ていた。
ドガは、メッソニエを笑いながら、馬を見ていた。
ゴッホもまた、メッソニエを単純には退けてはいない。1888年の弟テオ宛の手紙で、ゴッホはメッソニエ《読書する男》の版画を「いつも立派だと思っていた」と書き、「メッソニエを好きにならずにいられない」と述べている。さらに1889年には、メッソニエを「第一級の芸術家」とまで評価している。
もちろん、ドガやゴッホがメッソニエの道をそのまま継いだわけではない。
けれど、彼らはメッソニエの表現の核心を見ていた。
メッソニエは、倒されるべき権威であると同時に、参照されるべき技術の持ち主でもあった。
だが、評価されていたことと、未来に残ることは同じではない。
ここから、価格のグラフはゆっくりと反転していく。
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