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フィンランドの教室で学んだ“気づくまで待つ”という姿勢

二十年前の冬、フィンランドの教室でひとつの言葉を聞きました。
「気づくまで、ほっとくんだ。」
これは、今の私の原点となっている記憶です。


二十年前、フィンランドの公立小学校に三か月通いました。
子どもたちと一緒にフィンランド語を学びながら、日本語を教える立場でもありました。

当時、日本ではフィンランドの教育が注目されていました。
世界的な学力調査で高い成果を出した、と話題になっていた頃です。

けれど、私が教室で見たものは、「優秀な教育」という言葉から想像していた風景とは、似ても似つかないものでした。

外の凍てつくような静寂とは対照的に、
教室の中は熱を帯びた「原色の洪水」でした。
日本の感覚からすると、騒がしいほどの色使い。
暖房の匂いと、子どもたちの笑い声が、混ざり合っている。

床には脱ぎ捨てられた冬用ブーツが転がり、
開いたままのリュックからはノートの端がはみ出している。
整頓という概念が、この教室には存在しないかのようでした。

そして何より、同じ教室にいるのに、みんなが同じことをしていませんでした。

ある子は算数の問題に向かい、別の子は本を読んでいる。
ひとりが先生に質問をしている横で、
小さなグループが別の説明を受けている。

一斉に同じページを開くことも、同じタイミングで手を挙げることもない。

私のなかの「ちゃんとやろう委員会」が、一斉に警笛を鳴らしはじめました。

揃っていない。整っていない。
この無秩序のなかで、一体何が学べるというのか。

私は、担任の先生に詰め寄るように聞きました。
「片付けてもいいですか」と。

先生は、穏やかに、そして当然のように言いました。

「子どもたちが気づくまで、ほっとくんだ。」

驚きました。

教えない。 整えない。 ただ、待つ。

そこには迷いも、力みもありませんでした。 あたりまえのことを言うような口調。 そのとき私は、ただ圧倒されました。

これは文化の違いというより、学びに対する前提そのものが違うのだ、と。 カルチャーショックを超えた、もうひとつ上の衝撃でした。

それから二十年が経ちました。

最近、英語の例文でこんな一文に出会いました。

Language learning is a slow process. 語学学習は、ゆっくりしたプロセスだ。

たったそれだけの文です。 でも、「slow」という単語が、妙に心に残りました。

私はこれまで、英語や中国語を学んでは、思うように伸びない自分を責めてきました。 日本語を教えていても、上達しない学生を前に焦る。

果たして、私が「slow」でいたことはあったのか。
プロセスよりも結果を急いでいたのではないか。
気づかせようとしすぎていたのではないか。

そこで、あの教室を思い出しました。

気づくまで、放っておく。

あれは放任ではなく、
「相手のプロセスを、自分の手で早めない」という強い信頼だったのだと、今は思います。

私はいまでも、整えたくなる側です。 教えたくなる。 気づかせたくなる。

けれど、二十年前に見たあの先生たちは、それをしなかった。

スローラーニングという言葉に、最近あらためて出合いました。
あの二十年前の先生の「ほっとくんだ」という言葉が、
今になってようやく、私の凍りついた時間をゆっくりと溶かし始めているような気がします。


晴歩雨綴(はれあゆみ・あめつづる)
知識より、気づきを。進捗より、味わいを。ゴールよりも、道のりを。
学びを楽しむスローラーニングの旅の記録。


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