見出し画像

なぜ私は車の設計を辞めて、韓国に留学したのか

2月の初旬、私は単身でブラジルへ向かいます。

日本では自動車の外装設計をしていました。毎日、新しい車の「美しさ」と「機能性」をどう両立させるかを考えていた日々。それはそれで充実していました。でも、ある時期から心の奥底で問い始めたのです。

「自分は、何のために生きるのか」

この問いは、韓国留学によってさらに深くなり、人生の大きな転換点へと導きました。

この記事では、私が日本で感じた違和感から、韓国での学びまでを、できるだけ正直に書きたいと思います。


日本での違和感

セダンの外装設計という仕事を通じて、私は確かに創作の喜びを知りました。デザイナーが描いた外観から始まる仕事で、その形状が本当に実用的なのか、設計上問題がないのかを3Dモデリングで確認していく。その過程で、構造を考え、形を提案し、時にはその設計が採用される——その時の充実感は、言葉では表しにくいほどのものでした。

しかし、その仕事を始めた当初から、ある違和感は消えることがありませんでした。それは、私の周囲にいた先輩たちの姿そのものに対する違和感でした。

私は当時、こう考えていました。ある職場で長年働いている先輩たちの姿を見ることで、自分の5年後、10年後の姿が想像できるはずだと。そうすれば、この仕事が本当に自分が歩むべき道なのか、判断できるはずだと。

しかし、現場の先輩たちの様子を見れば見るほど、素直に「あのようになりたい」という憧れは湧きませんでした。むしろ、心の奥底から浮かぶのは焦りでした。

「このように若い青春を費やし、人生を費やしていくのか?」

同年代の友人たちを見れば、海外に留学に行き、新しい挑戦をしている人たちが多くいました。その一方で、私は「ごく普通の人生」の道へと進もうとしていました。それは、ちょうど鳥籠の中にでも入れられたような、窒息しそうな感覚でした。

ある時、私は現場の先輩にこう聞きました。「将来の夢は何ですか?」

私が昔から好きなことの一つが、人の夢を聞くことです。なぜなら、それについて話すとき、その人の目が輝き、言葉がワクワクに満ちるからです。

その時の先輩からの答えは、「ない」でした。

続けて、「では、なぜ仕事を一生懸命にしているのか?」と聞きました。帰ってきた答えは、「生きるため」。

確かに、生活するにはお金は必要です。しかし、もしそれが仕事の唯一の目的なのだとしたら——人生の大半が労働であることを考えれば——自分たちは「生きるために生きている」という、循環論法の中を歩んでいるのではないか。そう思わずにはいられませんでした。

そしてその時、強く思ったのです。

「そのような人生は、自分は歩みたくない。夢を持っていない人たちに、胸躍る夢を持たせてあげられる人になりたい」

この時期、私の心を支配していたのは焦りでした。若い時期はそう長くはないという、時間への危機感。その焦りの中で、私は家族や妻にも自分の考えを何度も共有しました。彼らの支援があったからこそ、次の決断へと進むことができたのです。



韓国留学での転機

なぜ韓国だったのか

会社を辞めて3ヶ月後、私は韓国へ向かいました。

私の母は在日韓国人で、幼い頃から韓国には親近感を持っていました。また、妹がすでに韓国に留学していたこと、そして言語という面でも、韓国語は語順が英語より日本語に近く、「自分でもいけそう」という自信がありました。

準備は、語学勉強に始まり、ビザ取得、そしてリゾバで資金を調達することで進めていきました。

しかし、最も大きな葛藤は、愛する妻を日本に置いて、韓国に一人で行くということでした。それなんとも言えない辛さがありました。でも、今の現状を打開するためには、大きな環境の変化と決意が必要だと感じていました。

コロナの中での隔離と新しい世界

到着直後、韓国はコロナ禍の真っ只中でした。私は寄宿舎で2週間の隔離を余儀なくされました。その2週間は、外に一歩も出れず、ただ部屋の中で、「自分は本当にここにいるべきなのか」という問いが何度も浮かんでは消えていきました。

隔離解放後、語学院の寄宿舎に移りました。授業もまたコロナの影響でオンライン中心でした。そんな制限の中でも、私が最初に強く感じたのは、韓国という場所の空気でした。

「みんな家族のように距離感が近い」

日本では感じられない親密さがそこにはありました。人々が心を開き、距離感を詰めていく文化。それは、これからの私にとって、大きな学びになっていくのです。

言葉の壁を超える

言語の壁は、想像以上でした。ゼロから学び始めた韓国語。最初は、周囲の会話が何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。

その不安は、時間が経つにつれて焦りに変わりました。大学に入るためには、韓国語で面接を受ける必要があったのです。限られた時間の中で、「本当に流暢に話せるようになるのか」という疑問と不安が常に心の片隅にありました。

しかし、その葛藤の過程で、私は大切なことを学びました。

韓国の文化は、日本の文化とは異なります。韓国人は距離感が近く、本音で話します。一方、日本人はどうか。日本人は「玉ねぎ」のようだと言われます。何層にも重なった建前を剥いても剥いても、本当の芯が出てこない。そんな民族だということです。

韓国での生活を通じて、私はその「建前の層」を剥いていくことの大切さを学びました。自分の考えや思いを、家族のように正直に表現すること。そして、相手も自分の気持ちを正直に話してくれる。そこに生まれる信頼と親密さ。

人生の方向性が変わった瞬間

人生初の留学生活を通じて、私は日本での仕事中に抱いていた違和感を克服する方法について、具体的に考え始めました。

その中で、大きな転換点が訪れました。妻の就職先が変わったのです。

元々、妻は子どもたちのことを考えて、銀行員として働いていました。しかし、私が留学することになり、妻自身も将来の方向性について深く考え始めました。

ちょうどその時、知り合いからの紹介で、妻が長年やりたかった仕事——魚の養殖に関する仕事——の機会が舞い込んできたのです。妻はその道を選びました。

その瞬間、私は悟りました。

「これは、僕だけの夢ではなく、妻と二人で歩むべき何か大きな使命なのかもしれない」

妻との絆が深まる中で

韓国に向かう時の心情は複雑でした。しかし、その決断が正しかったことは、時間が証明してくれました。

妻も私も、この道を選んだことで、気持ちの面でも、外的な状況の面でも、より一層良くなっていきました。生き生きとしていきました。

学期中は、毎日ビデオ通話を心がけました。時差のある異国にいても、互いの感情をありのままに共有しました。学期終了後の長期休みには、日本に帰り、妻と過ごしました。その間、お互いの趣味である釣りやダイビングをたくさんしました。水の中で、海の中で、私たちは互いの心を読み、この道が正しいことを確認し合っていました。

多くの世代との出会い

韓国での生活では、小学生からおじいちゃん世代まで、本当に多くの人たちと関わる機会がありました。

それぞれの世代から、異なる価値観や生き方を学びました。そして、共通して感じたのは、人生は一度きりだということ。悔いのない人生を歩むことの大切さです。

その気づきから、新しい思いが生まれました。

「この事実を、自分よりも若く、可能性がある人たちに教え、導いていきたい」

韓国での経験を通じて、私は単なる「言語学習者」ではなく、「人生の学び手」になっていました。そして同時に、いつかは「人生の導き手」になりたいという思いが、ますます強くなっていったのです。

その思いが、やがてブラジルへの決断へと繋がっていくのです。


次の記事では、世界の食料問題とアクアポニクス、そしてなぜブラジルなのかについて、書きたいと思います。



いいなと思ったら応援しよう!