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田舎のバンビーナ


この辺りで夜に車を運転するには、ちょっとしたコツがいる。

それは「常に鹿が飛び出してくるかもしれない」と思ってハンドルを握ることだ。そう、この辺りで一番遭遇率の高い危険生物は、熊でも幽霊でもない。鹿である。
運転していれば、何度も何度も「衝突注意」と喚起する看板とすれ違う。
冗談抜きにマジで、やばいやつだ。

我が家には、そんな鹿との接触事故を語り継ぐ、母の武勇伝がある。

ある夜、母が運転するマジェスタの前に、一頭の鹿が「ヌッ」と現れた。次の瞬間、鹿は母の車を踏み台にして大ジャンプ。ボンネットから屋根の上をタン、タン、ターン!と転がり上がった後 軽やかに駆け逃げていったという。まるで一流のスタントマンだ。鹿はムクッと起き上がり、颯爽と闇に消えていったそうだが、残されたマジェスタはフロントガラスが砕け、フレームは歪み、そのまま廃車となった。鹿、恐るべし。

もちろん、その洗礼は、私にも容赦なく訪れる。

あれは、仕事で疲れ果てた帰り道、真っ暗な夜道だった。カーブを抜けた瞬間、ヘッドライトの光の中に、スッと美しいシルエットが浮かび上がる。その鹿のつぶらな瞳と目が合った、と思った刹那。

私の口から飛び出したのは、悲鳴ではなかった。

「このクソ鹿がああああああああああ!!!!」

日頃の鬱憤も全て込めた、魂の叫びだった。

アドレナリンMAXのまま家にたどり着き、iPhoneのライトを手掛かりに震える手で愛車を隅々までチェックする。しかし、奇跡的に車は無傷。さすがは私の愛車、そして私の神がかり的なハンドルさばき。
しかし、よく目を凝らすとヘッドライトの隙間に毛が3本だけはさまっていた。かたい毛が三本。オバケのQ太郎の頭の毛は何本だっただろうか、波平の兄弟の頭の毛もたしか三本だったはず。そんな考えが頭をよぎったが、
心の底から怒りの感情は煮えたぎるばかり。「本当は、可哀想」と言うべきなのだろう。だが、無理だ。

「鹿、たぶんそこの道で倒れてるから、捕獲してきなよ」

猟銃資格を持つ父にそう告げると、ソファに寝転びテレビリモコンを弄りながら、仙人のような顔でこう言った。

「面倒臭い、いらん」

目の前に二万円が転がっているというのに、この男の狩猟本能は、とっくの昔に冬眠してしまったらしい。

この話を職場で愚痴ると、先輩が、死んだ魚のような目をして語り始めた。いつも通り、コブクロのあの人みたいにメガネを顎にひっかけているのだが、そのお洒落なトレードマークとは裏腹に、顔はゲッソリ。「わたしも、『被害者の会』の一員なのよ…」と。 彼女もまた、楽しみにしていたライブへ向かう道中で、鹿に車を破壊されたのだという。 絶望の淵から這い上がり、執念でたどり着いた最前列で、彼女は泣いた。ステージに現れた神々しいアーティストの姿に、ではない。そのアーティストの胸元で、無垢な笑顔を振りまく、一匹の鹿のワッペンに、だ。 「全ての感情が、無になった」 今ではすっかり鉄板ネタとなり、私たちは悪いと知りながら、この話を聞くたびに大爆笑している。

都会の人は彼らを「森の神様」なんて言うけれど、とんでもない。奴らは、我々の平和と財布を脅かす、ただの危険なバンビーナだ。今日もどこかでドライバーが、この田舎のバンビーナたちに、泣かされていることだろう。

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