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【スナック・なおみ】《第十五夜》:代理のママの、手つき

都会の喧騒を離れた、横浜の運河沿い。
今夜もまた、重い引き戸を開ける誰かがいる。
これは、そんな夜の物語。



なおみが珍しく風邪をひいた。

「大したことないんだけどね、今日だけあきちゃんに任せるから」

そう言い残して二階に引っ込んだきり、店には下りてこなかった。


カウンターの中に一人残されたあきさんは、いつもよりわずかに背筋を伸ばして、グラスを並べ直していた。


「おー、今日はあきちゃんがママか!」

鉄っつぁんが真っ先に喜んで、いつもより一段大きな声で笑った。


育三もそれに乗っかって、なんとなく店全体が浮ついた空気になる。


「せっかくだから、一曲どうよ。ママなんだから」


「え、あたし……いいんですか」


あきさんは少し戸惑うそぶりを見せたが、断るでもなく、静かにマイクを取った。

🎵【今日の一曲目】『舟唄』/八代亜紀

歌い出しの一小節で、店の空気が変わった。

普段の、少しおどおどした新人バイトの声ではない。

低く、枯れた響き。

鉄っつぁんが口を半開きにしたまま固まり、育三もギターを膝に置いたまま動かなくなった。

歌い終わって、あきさんはすぐにいつもの照れた笑顔に戻ったが、その一瞬だけ、店の中に別の時間が流れていたことに、誰もが気づいていた。

その静けさの真ん中に、引き戸が開いた。


「あれー、今日はなおみいないの?」


けいこだった。

事情を知らず、いつもの調子でカウンターに近づいてくる。

「けいこママも来た!おーい、こっちこっち!」

鉄っつぁんが早速大声で呼び、育三も



「けいこさん、飲んでってくださいよ」


と気楽に盛り上げる。

店の中は、あっという間にいつもの賑やかさに戻った。

けいこはその輪の中に加わりながら、カウンターに座った。

「あきちゃんが今日はママなんだ。へえ」

軽い調子で言いながら、けいこはグラスを差し出す。

あきさんがそれを受け取る手つきに、けいこの視線がふっと止まった。

グラスの底を包み込むのではなく、指を数本だけ添えて、軽く持つ。


新人がやる持ち方ではなかった。


「氷、多めでいいわよ」

「はい」


あきさんが焼酎の瓶を傾ける。



その角度、グラスとの距離の取り方が、目分量にしては毎回同じ高さで止まっているように見えた。


けいこはしばらく黙って、その手元だけを見ていた。



周りは鉄っつぁんの陽気な声と、育三の相槌でずっと賑やかなままだったが、カウンター越しのその一角だけ、時間の流れが少し違って感じられた。

「……あんた」

けいこが小さく口を開く。

あきさんは顔を上げず、グラスを置く手を止めなかった。

「その注ぎ方。どこで覚えたの」

「……さあ。なんとなく、です」


あきさんは笑って答えた。

はぐらかし方が、あまりに自然だった。


けいこはそれ以上何も聞かなかった。

ただ、少しの間あきさんの横顔を見て、それからグラスを口に運んだ。


「まあ、いいけどね」

そう言って、けいこはグラスを置くと、すっと席を立った。

「ちょっと、一曲もらうわよ」

誰に断るでもなく、けいこはマイクを手に取った。鉄っつぁんが



「お、けいこママも本気出すか!」



と囃し立てる。

🎵【今夜の二曲目】『女のブルース』/藤圭子

けいこの声には、飾りがなかった。


低く、少しかすれて、それでいて芯の通った歌い方。

歌詞の中の女は、裏切られても、それでも一人で歩いていく。

誰かに向けた歌ではないはずなのに、あきさんはグラスを拭く手を止めて、その歌をじっと聴いていた。


歌い終わって、けいこは何も言わずにマイクを置き、また元の席に戻った。


あきさんの方は見なかった。


けいこの方も、あきさんの方を見なかった。


ただ、グラスを拭くあきさんの口元に、さっきまでとは違う、小さな笑みが浮かんでいた。


店はまた、鉄っつぁんの声で賑やかになっていく。


二階では、なおみが静かに寝息を立てていた。




《第十六夜につづく》



※この物語はフィクションです。登場する人物、店舗、団体名はすべて架空のものです。実在のものとは関係ありません。

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