妖精の園

8月になってしまった………
どうやら最高気温の最高記録が更新されたようで…もう人住めるレベル超え始めたよ…
いかがお過ごしでしょうか。
さて、7月頭、八ヶ岳での公演を皮切りに始まったこちらへ行ってきました!

浜離宮朝日ホールだよ

務川慧悟 ピアノリサイタル2025

はい。今年のリサイタルツアー最終公演2daysでっす!!!!
しかも!!ラヴェルのピアノ曲全曲!!!!!!!!!!!!
1公演2回の休憩を挟む3時間…
3 時 間 !!!!!!!!!!!(パンパカパーーーン)
異様なテンションでお届けしております。
実はこれだけ長い公演を聴くのは初めて。
ラヴェルのピアノ曲すべて演奏する公演を聴くのは2度目。
しかも浜離宮朝日ホール
いくつもの伝説級リサイタルを行った場所で…
一応2日間合同にて振り返りたいと思います。
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◆第1部
ソナチネ (I. Modéré/II. Mouvement de Menue/III. Animé)
水の戯れ
亡き王女のためのパヴァーヌ
鏡 (1.蛾/2.悲しい鳥/3.洋上の小舟/4.道化師の朝の歌/5.鐘の谷)
◆第2部 
前奏曲
高雅で感傷的なワルツ (1.Modéré – très franc/2.Assez lent-avec une expression intense/3.Modéré/4.Assez animé/5.Presque lent-dans un sentiment intime/6. Vif/7. Moins vif/8. Épilogue)
夜のガスパール (オンディーヌ/絞首台/スカルボ)
◆第3部
古風なメヌエット
ボロディン風に
シャブリエ風に
ハイドンの名によるメヌエット
クープランの墓 (1. プレリュード/2. フーガ/3. フォルラーヌ/4. リゴドン/5. メヌエット/6. トッカータ)

初めて務川慧悟という人のピアノソロを聴いたのは、2020年9月11日。
今回と同じ浜離宮朝日ホールだった。
確か、東京でのデビューリサイタルだったか。
彼に出会ったのは、その少し前に行われた反田恭平氏とともに行われた2台ピアノのツアー。その時は、名前すら知らなかった。
公演に行って、初めてその名前を知ることになる。
それが、まさか、今、2025年現在まで飽きることなく、むしろもっと深みに嵌っていく、そんなことになろうとはついぞ、思っていなかった。
気が付けばほぼ5年が経とうとしている。
あの2台ピアノのツアーに行っていなければ、名を知ることも、そして、浜離宮でのソロリサイタルに行くこともなかっただろう。
人生とは、何とも不思議なものだ。
何度かこちらの記事でも書いているが、務川慧悟という存在は、私にとっては命の恩人と言っても差し支えがない。
そして、クラシック音楽というものをどのように辿ればいいのか、いまだに暗中模索の私に、ある意味、道を示してくれる存在ともいえる。
そして、浜離宮朝日ホールという場所で行われるソロリサイタルにおいて、この御仁は毎度、驚くほど、ある意味でその時点での完成系、ここまできてしまったか、と思わせるリサイタルをする。
そのたびに、まだ道半ばであろう目指すものの大きさとその密度に圧倒される。これでもまだ、途中であるのかと。
そして、この日、またラヴェルという作曲家に立ち返る日が来た。
いまだにこの5年の中で、記憶の上位を占めるラヴェルのピアノ曲全集録音前の全曲演奏会。
その時は2日間で全曲であったが、今回は1日で行われる演奏会が2日間。
発表されたとき、是が非でもいかねばならない。そう思った。
2022年の夏。ずっと聴きたかったラヴェルの曲たちを最高の形で聴いた日。
その再現。
いや再現とはいかない。
この御仁はずっと変わり続けているから。
でも、あの震えるような感動をもう一度。
思い出しただけで涙が出てしまう夏の幻想をまた、聴きたかったから。
あの時は、ラヴェルについては、かじった程度。
今でもかじった程度は継続しているけれど、それでもこの5年でラヴェルについても、そのほかの曲についても、幾分、ほんとうに微量だが、詳しくはなった。精度のほどはわからないけれど。
ピアノを弾かない私は、ただ、知識だけを頭に食わせ続ける日々だから、何かを理解しているかと言われれば怪しいけれど、確実にこの御仁のピアノを聴くために、その中から何かを探り出すために、ピアノだけではなく、さまざまな演奏会を聴いたそれによって、多少自分の頭は、何かを結びつけるだけのシステムはできたらしい。
それが意味のある行為かといわれれば違うけれど、ただ、そうしている瞬間だけが、私の苦虫を嚙み潰すような日常に、飽いてしまった日常に、捨ててしまいたい日常に、享楽という形で光を与えてくれる。
そして、現実という時間を耐えるための、静寂の場所を与えてくれる。
世界がどれほど過酷で、自分がどれほどくだらない存在であっても、希望になるその場所を。

相変わらず、前置きが長い。
今回のプログラムには、楽曲解説がなかった。
その代わりに付されたプログラムノートを始まる前に読んだ。
そこに書かれたその文章が効いてくるのは後の話。
今回、2日間あった演奏会をどう記せばいいのか、書き始めた今もわかっていない。
存外、物を語るというのは難しい。
見切り発車で申し訳ないけれど、それでも、今、この日聴いたものを、いつか振り返る時の寄る辺として記しておく。

1曲目:ソナチネ
いつものように椅子に座り、手を組み、いつもの動作で集中を始める。
それを眺めながらいつだって、そのあとにつづく、1音目からすでに我々を取り込む凝縮された音楽を心する。
そして、その放たれた1音で、すでにこちらは現実から切り離される感覚をすでに得ていた。
7月頭、八ヶ岳で聴いたラヴェルの音楽。
1曲目は古風なメヌエットであったけれど、この日はソナチネが1番最初。
個人的には、技巧的にも、理屈的にも難しい最難関の曲たちよりも、イメージしにくい曲と感じる。
しかし、この日聴いたソナチネ1楽章にはどことなく、雲行きを思わせる響きを感じた。
朝の晴れた空。雲は多めで心地よい風に流れていくそんな空気。
太陽が雲に少し隠れているような。
これはどこで見た幻想だろうか。
1つの展開を終えた次のシーン。流れゆく雲の隙間、きらりと太陽が光る。
まるで目の前が一段、雲が去り、明るくなったような錯覚。
この時、八ヶ岳で見た木々の隙間、あるいは真っ青な空に流れていく真っ白の雲、光り輝く愛しい光景を思い出す。
滑らかに鍵盤の上をすべる指。
その美しい指先のコントロールは、いつにも増して、的確に配置されていく。
いつも通り、と言いたいが、幾分出だしから回りすぎている。
どんな時でも、この御仁の仕事ぶりは表面上変わることはない。
しかし、放たれる音は、音楽は、いつだって、我々の想定をはるかに上回る。
この日、なぜだか、明確なイメージが自分にあった。
彼は、演奏するときに映像を思い浮かべることはないと言った。
だから、これはただ単に私が見ている妄想、幻に過ぎないかもしれない。
けれど、いつもどこかぼやけてしまう印象に明確な印象が付された。
もしかしたら、八ヶ岳でソナチネを聴いたその光景に引っ張られているかもしれない。どこか雲行きを眺めるように流れていく。
でも、そのみずみずしくも眩しい音楽は、この日の展開の凄まじさを、
物語るようでもあった。
そうこうしているうちに2楽章。
何度も聴いてきた2楽章。
そのふわりとしたこの楽章に、私はいつも、湖のそれを思う。
あまりにも丁寧に運ばれる指使い。
あたたかで、柔らかい風が吹くような、しかしどこか寂し気でもあるこの楽章。
ふっと息をつくように。
ここでも雲は風に流れる。時折、太陽を隠しながら。
この陰影が、いつもよりも更なる精度を伴うように感じる。
3楽章、場面は急に切り替わる。まるで夜が迫ってくるみたいに。
ここでも美しい指は、とてつもないスピードであるにもかかわらず、一切迷いなく、丁寧に確実に鍵盤の上を走っていく。
キラキラと美しく。
急かすように進むこの楽章に、思いの外、少し感情的な雰囲気を感じる。
そして、それは助走に過ぎない。

2曲目:水の戯れ
3曲目:亡き王女のためのパヴァーヌ
そして、ラヴェルが印象派技法を確立した最初の作品へ。
ソナチネで助走は済ませたと言わんばかりに、あまりに美しく展開しすぎる水の戯れに舌を巻く。
録音当時、そしてこれまで聴いてきた御仁の演奏する水の戯れ。
しかし、八ヶ岳でも思ったけれど、明らかに最初の印象とは異なる。
同じ水の戯れであるにもかかわらず、比較しやすいのはやはり彼の残した録音だろう。
美しさ、キラキラと光るその音色表現に違いはないが、明らかにその時よりも、"水"という無形のものの印象が強くなった。
あまりに滑らかに運ばれる指捌きに、引っ張られているのだろうか。
そもそも、この御仁の指先というものは、元から滑らかで美しいが、ここ数年で、明らかに全ての指の均一さに磨きがかかっていた。
こう書くと、機械的に捉えられてしまうかもしれないが、そういうことではない。
コントロール精度に差がなくなったと言った方が正しいかもしれない。
ともかく、そうして紡がれる水の戯れには、明らかに"水"と"光"その表現そのものの中に、文学が織り込まれていた。
そうして、亡き王女のためのパヴァーヌへ移る。
打って変わって、古典を意識したパヴァーヌ。
サロンの女主人、ポリニャック大公妃へと献呈されたこの曲は、ラヴェルの最大の敬意が込められているとも聞く。
「亡き王女」の部分はあくまで、語感的に付されたと言うが、"王女"というのは、ポリニャック大公妃へのダブルミーニング的でもあるのかもしれないとも思う。
当時のパリにおいて、ポリニャック大公妃の開くサロンは、明らかに重要な位置を占めていた。
フランス芸術界における頂点。
まさに"王女"と言えるかもしれない。
なぜそんなことを思うかといえば、その日弾かれた音楽からは、明らかな余裕を感じた。
王たる余裕、そして、その優しくもある旋律の中には、どこかやはり超然的な雰囲気と妖艶さを秘めていた。もはや官能的な響きさえ感じる。
そして、これはこの日の最後の話になるが、アンコール前にマイクを持った御仁は「ラヴェルの本音は音楽の中にある」そう語る。
ここにもラヴェルの本音が入っているようなそんな気がした。優しくも厳格に、時に音の端に忍び込まされた妖艶さによって。

4曲目:鏡
そして、この日もこの曲の時が来た。
八ヶ岳の演奏では、久しぶりに聴いたこの曲に
身が引きちぎられそうなほど感動した。
その完成度の高さ、いや幻想に誘うその威力に、完全に別の世界を見ていた。
だからだろうか、この日私は緊張していた。
3年前聞いた鏡は美しかった。
あの当時、思い起こした幸福を覚えている。
その後、先日聴いたものを含めて3回。
毎回更新されるたび、自分でもびっくりするほど泣いてしまう。
だからこそ、この日再び聴けることがうれしかった。
そうして、1人緊張しながら、再び現れた御仁を見つめる。
また、深く集中するその姿を見ながら、静かにその音楽は始まる。
夜の世界への扉が開く。

蛾の羽音が聴こえる。
本当にこの日、この御仁の指は、すでに別の生き物ではないかと錯覚するほどなめらかだった。
綺麗に並べられる音は、今までよりもさらにフレーズに対してこだわりを感じる。本当に目の前に蛾が電灯の明かりにちらちらと羽ばたいているように見えた。指先に反射する光を見ているような気さえした。
そうして、こちら側の集中力もどんどん上がっていく。
なんとなくそわそわと落ち着かなかった会場は、どんどん集中力を増していた。
そうして、悲しき鳥に差し掛かった時の静寂。
その静寂に、あまりにも悲しく放たれる第1音。
その、震えるような感覚に息を呑む。
なんと美しく広がる音だろうか。
そこからは、静寂に響く悲しき鳥たちのさえずり。
この研ぎ澄まさった美しさの中運ばれる、あまりにも丁寧な鍵盤をすべる指先。
その丁寧な仕事ぶりは変わらないけれど、
その丁寧さが、異常だった。
繊細に、
しかし、なんの衒いもなく、
放たれる音は、
焦がれるほどに美しい。
そうして響くピアノの音に痺れていると、不意にそれが、絞首台のあの鐘の音と同じことに気がつく。
今更こんなことに気がつくなんて思わなかった。
実は少し前から鏡を聴いていると、夜のガスパールで使われる前身のような音型を感じるようになっていた。
こんなところにもあったとは…
美しく響く鳥たちを眺めながら、あまりにも緊迫感のある空気に飲み込まれていた。
それは静かで、少しでも物音を立てれば消えてしまいそうな空間だった。
繊細でデリケートな音楽だった。
しかしそれを皆息を殺して聴いている。
それが、そうすることで、どれほど魅惑的で、
官能的で、美しいものになるかをわかっていた。
あの瞬間は、そう私には感じた。
目の前の御仁はいつものように冷静に音楽を形作る。そのいつにも増してこちらの首に縄を掛けるような、魅惑の拘束を強いていた。
最後の1音。それが小さく、しかし確実に、麗しく宙に消えるのを、ピアニストも客も全員眺めていた。
そうして消えた先を見れば、小舟は洋上を滑り始めていた。
美しい水面を朗々と滑る小舟。
あの静寂の森の後、その海はあまりに優しく、ゆっくりと我々の息を吐かせる。
この瞬間の開けるような水面の音が、夢見心地にさせてくれる。
さまざまに揺れる小舟の中、その光る水面もさまざまだった。
いつからだろうか。
ただ静かに、ゆったりと流れる雲のような、小舟の上で揺蕩うような音楽だと思っていた洋上の小舟から、それだけでなく、海上の冒険に出るような、光あふれる瞬間や、時に激しい荒波を感じるようになったのは。
その日奏でられた洋上の小舟からは、あらゆる色彩、光、熱を感じた。
いつからこの音楽は、静けさにあふれながらも、あらゆる風景を映し出すようになったのだろうか。
ただの妄想か。
それともラヴェルが見せる夢にすっかり取り込まれてしまったのか。
わからない。
そうして焦がれるようにその情景に身をゆだねている間に、再びその音楽が、キラリと光を残して消えた。
そうして迎える道化師の時間。
スペイン風の舞踏。
左手が鳴らす、こぶしから放たれる強烈な低音を合図に、その舞踏は強く躍動する。
いつにも増して、情熱的で余裕のある道化師の舞踏。
今までの職人然とした緊迫感から一時解き放たれたその音楽には、あまりにも迫力があった。
滑らかに動く左手は、いつも以上だった。
その左右の対等性、決してぶつかることのない複雑怪奇な位置配置。
いつも異常なスピードで滑らかに位置を変えながら仕事をする左右の手は、この日あまりに臨場感高く、舞い続ける。
そして、ただ迫力があるだけでなく、そこには蠱惑的な官能性までついてきてしまった。
いったいどこから出しているのかと思ってしまうほどの妖艶。どこかおどけた旋律にさえ、端に忍び込む色気が異常な色香を残響に残す。
この人はいつからこんなにも自然に、内に轟々と秘める熱を色気として放出するようになったのだろう。
いつだって捉えて離さないその強引なまでの引力。
それはそのままに、さらに広がる色彩の幅。
色彩と一括りにすることしかできない己の表現力を悲しいとさえ思う。
なす術なく華やかに終わりを告げた後。

静寂。
誰も動かなかった。
そうして、
空間に1つ、2つと音が響く。
最初の鐘の音が。
そうして始まる鐘の谷。
いくつもの鐘が鳴り響き始める。
この瞬間に宿る静謐さに、鳥肌が立つ。
そして、鳴り響く鐘を抜けた先、
広がる、
その音楽が、
その日、
あまりに優しかった。
今までで、1番ゆっくりだったようにも感じた。
今までだって、常に彼の仕事に手ぬかりはない、
けれど、
この日の鐘の音はあまりにも芯に響いていた。
まるで会場全体に、漏れることなく響き渡るように。
どこの誰の耳にも、身体にも響くように。
その指先は、いつも以上にコントロールされ、繊細すぎるほどに、丁寧に丁寧に鍵盤を触れていく。
あまりに真剣で、まったく不純物なく、まっすぐに鍵盤に注がれるその視線は、これほどに静謐な音楽の中で、あまりの情熱に溢れていた。
決して燃え上がるように、振り乱すように、放出するようなことはない。
すべての神経がそこに注がれる。
指先という指先、鍵盤という鍵盤に、命を注ぎ込むように。
それは、あまりにも聡明で、美しい情熱。
そうして紡がれる音は、幻想的で、空間すべてを夢の世界へ持ち去る。
広く広く、空間の軛すら越えるような。
もしかしたら、八ヶ岳のあの広大な自然すら、この静かに情熱を注ぐピアニストの身のうちに、すべて留めておけるのかもしれない。
そして、本当に、涙が出て、止まらなくなるほど、優しい。
私にとっては。
緑溢れるその場所で、1人そのあまりにも美しすぎた音楽に、絶望したけれど、その音が耳から離れていくことを嘆き、追いかけていきたかった、それを見抜かれてしまったように、耳から離れていかないように、丁寧に染み込ませてくれるような錯覚。
音楽は離れてなんかいかない。
身のうちに、留めることは、できるのだと。
そう知らされているみたいだった。
そういう鐘の音だった。そういう音楽だった。
何時演奏を聴きに行ったとしても、彼の弾く演奏は進化している。
常に積み上げ続ける膨大な研鑽は、音楽になったとき、より精度を増してそこに顕現する。
それを、いつだって耳に捉えることができる。
そして、幾分久しぶりに聴いたこの日のラヴェルは、今まで聴いたどんな演奏よりも、さらに解像度を増していた。
これを、この日聴けてよかった。
きっと、しばらく演奏されないであろうこの曲を。
この日の最後のトーク。
彼は、久しぶりに弾いたラヴェルは、飽きるよりも、もっと知りたい。そう思ったと言った。
何年先なのかわからないが、その時に立ち会えるとするならば、きっと、さらに解像度は増すだろう。その密度を考えるだけで鳥肌が立つ。
決して派手に立ち回る人ではない。
むしろ控えめですらある御仁だが、その鍵盤を見つめる視線は、指先は、空気は、どんな情熱を秘めた人間のそれよりも、静かに、そして誰よりも優しく、純真で、しかし、誰よりも熱く、凝縮された音楽という目には見えない奇跡を生み出す。
鐘の音が遠ざかっていく。
たった6分か、それくらいの時間。
だったそれだけにも関わらず。
音が去っていくその寂しさと悲しさは消えないが、
それでも、自分の身のうちに、暖かな輪郭を優しく刻みつけた実感をもたらした。
いつかまた、この優しく、静かな夢に出会えることを信じて。
最後の1音を、見送った。
その時、同じくピアニストが音を見送り、最後の輪郭が消えるまで、同じ宙を誰もが見つめていた。

さて、1度目の休憩である。
この時点で、すでにリサイタル終わったんかなというレベルで私はボロボロだった。
まだ1部だというのに…
けれど、結局は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだが、不思議と身を後ろに引かれるようなことはなかった。
きっと、また会える気がしたからだろう。
今書いたのは1日目。
2日目のことを軽く書いておく。
2日目は、2階席。
ありがたいことに舞台正面の1列目を確保していた。
その広く広く作られた音楽は、前回のリサイタル同様、まるで1日目前方にいたときと全く変わることなく、耳に直接響いていた。
そして、遮るものなく捉えることのできる御仁の姿は、やはり、静謐な情熱に溢れ、遠くにあっても決して薄れることなく、その丁寧で、凝縮された、しかし、こちらを傷つけるのではなく、包み込むように優しい音楽を奏でていた。
ほとんどの人が、静かに、身動きせずに、ただその目の前に広がる広大な音楽を耳にしていた。
その光景は、約550席という小さなホールのそれよりも、広く感じた。
というよりも、その座席の外側にあるはずの壁はないものかのように感じた。

5曲目:前奏曲
6曲目:高雅で感傷的なワルツ
休憩が明け2部。
出だしは、これまたふさわしい前奏曲。
フォーレからの依頼で、初見演奏試験用に作られた1分程度の曲だが、
2部を仕切りなおす上で、これ以上の曲はないだろう。
ここでも静かに、しかし2部のこの後の展開に期待を寄せるには十分な導入の音楽だった。
1日目、本来は拍手が必要だったであろう前奏曲の終わり、なぜか拍手はなかった。私も実はそのまま高雅で感傷的なワルツへ流れるものと思っていた。
その瞬間だけ、ピアニストも含め全員「ん?」となったのが少しだけ可笑しかった。
あれ、務川さんはどっちの予定だったんだろう……
2日目は、そのまま続けて演奏されることになったわけだが。
この日は総じて、拍手のタイミングは遅かった。
というよりも、ピアニストが立ち上がるまで拍手は誰一人しなかった。
誰か一人が飛び出すということが一切ないリサイタルも珍しい。
もしかすると、全員音楽が見せる夢から戻るまでに、全員時間が必要だったのかもしれない。
さて、高雅で感傷的なワルツ。まさにフランスのセンスの塊のような曲だが、先日聴いた時にも思ったが、どんどん洗練さが増していく気がする。
この日も。
バリエーション豊富な7曲。
1曲目には、まさにパリの華やかさを、2曲目ではしっとりしたワルツ。
その昔、演奏するのが難しいと言っていたが、今ではそんな感じは微塵も受けない。元から難しさというものを演奏から感じたことはなかったけれど、
この日はもはやこなれ感すら感じていた。
3曲目には愛らしいワルツを。ラヴェルがこの曲を書いた時、少しいたずらっこのように曲を書いたに違いない。
実際この曲が演奏された時には、作曲者名を伏せられ、誰が作曲したものかを当てるゲームのような方式がとられたそうであるし、演奏後、客たちがこれが誰の書いたものかを討論している間中、ポーカーフェイスを貫き通したとの記載もある。
その内側で、もしかしたら、くすくすと笑っていたかもしれない。
そんなことをこちらが考える余裕があるほど、目の前のピアニストの演奏からは楽しさみたいなものを感じていた。
実際どうだったかは一生わからないけれど。
そうして曲は4曲・5曲と進んでいく。
6曲目に来た時だった。
唐突にその曲が「ラ・ヴァルス」の原型なのではないかという考えを
思いつく。その時まであまり気が付いていなかったが、似ていた。
6曲目はいわゆるウィンナワルツである。
こうやって演奏を聴いていると、突然別の楽曲と似た旋律があるなと思い至ることがある。楽譜を見ていないせいもあるけれど、こうして気が付いていくと、今まで聴いていた曲の印象がガラッと変わることもあって面白い。
こういうのも同じ奏者をずっと見ているから気が付くことでもあるのかもしれないと思ったりする。
これは演奏関係ありませんでしたね。失礼。
そうして、また終曲、今までの曲たちの回想へ。
ここでも繊細に鳴る低音1音と差し挟まる高音2音。
抑制されたこの終曲でも、やはり手抜かりなく職人のように注がれる丁寧な音楽。
この瞬間の、何にも勝る緊張感がやはりこの人の音楽性、というかこだわりを感じる。まっすぐ注がれる不純物の一切ない透明な瞳の先、指先にすべてが込められる瞬間に鳴る音は、どんなピアニストのそれよりも芸術品だ。
最後の1音その低音が静かに鳴り終える、その最後の最後まで。

7曲目:夜のガスパール
2部最後の曲はこちら。
何度も聴いてきた夜のガスパールだが、前回の八ヶ岳ではいろんな奇跡が起きていた。(前回記事参照)
しかし、本来夜のガスパールは、夜の音楽。
というよりラヴェルの音楽、そして当時のフランス芸術の根幹にはやはり夜というモチーフが流れている気がする。
実際、この曲で取り上げられる3篇の内2篇は明確に夜の描写として詩では描かれている。
そして、この日は夜、そしてホールという暗い場所でこそ、この音楽は本領。という気が勝手にしている。これはあくまで個人的なイメージの話。
そして、いつものようにピアニストは、椅子を微量に直し、手を組み、目をつむる。
そのしぐさの後に、始まるオンディーヌ、その音が鳴る瞬間、目を開いた御仁の集中力の凄まじさに、すでにこちらは固まっていた。
そうして、静かにその水の音楽は始まる。
異様な緊張感。オンディーヌがその姿を現す。
この水の揺らめきや光に反射するようなきらめきから、水の戯れからの連続性を感じる。
妖艶なオンディーヌに誘われて、こちらもさらに夜へと沈み込む。
いつも以上によく回る目の前の指先。
その美しく移り変わっていく指のポジショニング、そしてその都度ピアノから水のように溢れ出る旋律は、文字通りオンディーヌのように美しく我々を釘付けにしていく。
より流体になったピアノを感じる。
元から、この目の前のピアニストの奏でる音楽は、驚くほど、そう求められる旋律において、流体のように旋律を奏でていたけれど、今となっては、それですら、今目の前で奏される水のような生き物とはどうやら差があるらしい。
音楽それ自体よりも、より立体的な何か。
水の精が幻だとして、けれどその音は、ただ和音という層になった"音"と呼ぶには、いささか無理がある気がした。
無形であり、有形である感触。
水が戯れ、その周りに気が付かぬうちに、実際に水の流れがあるのとは別の場所に、水の飛沫が跳ねて、実際目に見えているのよりも広範囲が水に濡れるみたいに。
気がつけば、目の前にパシャリと水が飛んでくるみたいに、オンディーヌは水へと帰っていった。

束の間、鐘の音が耳に1つ。2つ。
規則正しく、無表情。
その抑制され、ギリギリまで、キリキリと絞られた弱音。
またも、甘美なる首にかけられた縄での拘束は、我々の息遣いそのものを制限する。
まるで、我々の首が、絞首台の丘に並ぶ、残骸であるみたいに。
もしも、私の首が、絞首台にある残骸で、数多の虫たちに食い破られ続ける途中だったとして、その先に、この音楽が成るならば、それはそれでいい気がしてくる。
この光景は、あくまでベルトランの見た、描いた幻影。
それは、実際に夢としてみたものか、それとも、文字を連ねるその時に、描きながらその世界に辿り着いたものを、実際に書き写したるものなのか。
もはや知る術はなし。
ジリジリと這い寄るような音楽からは、ずるり、ずるり、と何かが蠢くような印象すらある。
実際に耳に届くはあまりにも静かで、あまりにも表情は少ないが、その音の端からは、幻影に焦がれてしまうような妖艶さが馴染んでいるというのに。
赤く染まる夕暮れの空に最後の鐘が溶けるとき、我々の意識もまた、溶けて消える。

そうして、すべてが消えた、静寂よりもさらに何もない無音。
そこにじわじわと夜が染み出すように、スカルボの影が…
じわじわと表出するスカルボ、それに怯えるようにぶつかる音によってもたらされる不協和音。
そうしてどろどろ忍び寄るそれはまた忽然と姿を消す。
このタイミングを無音にしてしまう客側の集中力。先の2曲からすでに極まったその静寂が、緊張感が、この日も会場の空気をヒリヒリとさせていた。すっかり恒例となったこの時間だが、その日の緊張感は、今まで聴いたどれよりも、その先を予感させるように何か違った。
いつもよりも、より息ができない。
そうして、再度の静寂ののちに登場するスカルボは、あまりに凶暴だった。
演奏が雑になるなんてことはこの御仁に関してはありえない。
しかし、"奴"が暴れ回るその時間、スペイン風の旋律は確かに道化師の朝の歌と共通するも、その色合いは全く異なる。
あまりの緊迫感に、身体が強張る。
いつものように冷静な顔で、しかし、
いつも以上に回る指先から感じる異常なほどの圧。
決して損なわれない旋律の形。
夜、どこからともなく現れる"奴"は、こちらを嘲笑うかの様に、恐怖を煽る。
詩の情景そのままとも言えそうな。
そして、曲中盤、特にそれは2日目のことだった。
プツリとところどころ止まる音。
その止まり方が今まで聴いたどの時よりも残響などないのではないかと思うほど、その指が、鍵盤から離れたと同時に、"奴"がどこに消えたかわからないようにあまりに綺麗に途切れた。
そして、その途切れた隙間に無音が貫く。
まるで、誰もが、"奴"を見失わない様に神経を尖らせているみたいに。
暴れ回って、また消える。
そして再びじりじりと気配が迫る。
しかしすっかり気配を消してしまう、再びの無音。
その後に訪れる低音が、地響きのようでもあるが、そこでも損なわれない音形。
その狂気の様な凶暴性と、すっかり消えてしまう嘲笑性。
その両方をすっかり手中に収めてしまった様に、我々を翻弄し続ける。
その様は、まさにスカルボとその恐怖に耐える人間の対峙そのもののようでもある。
夜。それは誰もいない部屋で、不意に背中をぞくりとさせるその幻影そのもの。
そうして、"何もない"ことを確認する。
しかしそれでも、拭えぬ恐怖と対峙する瞬間のように、ぞわぞわとするその背中をふいに振り返った時、スカルボは、その余韻だけを残して消えていった。

2度目の休憩。
夜のガスパールという曲は、大変解釈するのが難しい。
詩そのものを読むことは可能。
それによって幾分曲の解像度は上がる。
しかし、それだけで、何か掴めるかというと、なかなか難しいのが正直なところだと私は思う。
というよりも、"理解"と言える代物をこの凄まじい演奏を聴いた今ですら得ていない。
今回ラヴェルでツアーを行うとわかってから、ラヴェルについて、再度洗い直した。
とはいえ、なかなか時間が取れず、保有するラヴェル関連の書籍のうち2冊分(といっても完全ではないのだが)のみ、データで起こし、まとめてみた程度なのだが。
その途上に、ベルトランの詩についての関連文書も洗い直した。
ベルトランという詩人はあまりにも早すぎた詩人であるというのは、前記事でも述べているけれど、その詩人が書き残したこの同名の詩。
ベルトランは1820年代には詩を書き始めており、夜のガスパールの原型もすでにあったという。
この時代はロマン派のど真ん中。
ショパンやベルリオーズなんかとも活動年代が近い。そんな中、夜のガスパールの原型がすでにあるというのは、どう考えても早すぎる。
ラヴェルという作曲家の描いた作品の中で、ここまでグロテスクなものをモチーフにしているものは、そう多くはない気がする。
しかし、若かりしラヴェルに影響を及ぼしたこの詩が、時を経て、この曲へと至るそれだけの引力は確かに存在する。
この日聴いた夜のガスパールは、あまりに凄まじかった。
ベルトランが、この世のものならざるものに目を凝らし、見えざるものが見えてしまったような…
気を抜くと、こちらも幻影を見てしまいそうなそういう危機感があった。
この休憩中、すっかり呆けてしまい、あっという間に終わってしまった。

8曲目:古風なメヌエット
9曲目:ボロディン風に
10曲目:シャブリエ風に
11曲目:ハイドンの名によるメヌエット
3部。小品たちが集められ、最後にラヴェル最後のピアノ曲(完成品)であるクープランの墓の配置。
ラヴェルの残した大曲3曲のうち2曲を終えて、こちらはかなり消耗していた。
今にして思えば、この小品たちを最後に配置したのは、これは務川慧悟その人のある意味で配慮だったのではないかという気がしている。
ラヴェルという人は表面的にはかなり貴族的、超然的な雰囲気をあえて纏った人とも言える。
その徹底ぶりがかなりのものだったのは、伝記を読むだけでも明らかだろう。
ほとんど隙のようなものはなかったのではないか。
これは、先日のポッドキャストで御仁が語ったことでもあるが、演奏では中核にある人間性というものは隠せない。ある程度わかってしまうという話。これは作曲家の場合でも有効な話なんだろうか。
そういえば、演奏後のトーク、ラヴェルの本音は楽譜の中にあるとおっしゃっていた。
そういう意味から言うと、作曲家という人たちも、そうなのかもしれない。
ラヴェルは、心を開いた人や子供にしか素顔の様なものを見せなかった。
素直で懐深く、ときにいたずら好きの子供の様な、そして、仲間を身内を非常に大切にする、そういう人間らしくあたたかな側面を。
そういう意味で、3部というのはそういった曲が集まっていたとも言える。
とはいえ、ここまでの道のりにあった曲たちに全くなかったわけではないのだが。
むしろ、そちらはひっそりと隠すように忍こまされたもののように感じる。
3部の曲たちは、あくまでラヴェルその人が見せてもいい側面をほんの少し、数多の作曲家たちの枠組みの中で開示してくれただけ。もしくは、5曲の内3曲には依頼者がいる。その依頼者たちだったからこそ、ということかもしれない。これは、私の妄想。ただ、この小品たちを聴いているとそう感じる。
古風なメヌエットはラヴェル最初期の作。
御仁は、他の楽曲に比べると一段劣ると評していたが、確かに、ラヴェル最初の出版作品でもあり、のちにクープランの墓のメヌエットでも同じ形式を採用しているようなので、若書きのまだ古いメヌエットへの憧れとその枠組の中で自分のスタイルを模索するような作といえるかもしれない。
シャブリエの「華やかなメヌエット」に影響があるとは言うが、華やかすぎないところがラヴェルらしい。
そしてこの日、幾分、前の夜のガスパールを引きずっているような感じも受けた。
いつもより…なぜか迫力を感じる。
しかしメヌエットというのは宮廷舞曲が1つ、そういう意味では、あながちこの迫力というのは間違いでもないのかもしれない。
その凛と佇み、丁寧に演奏されるメヌエットからはどことなくラヴェルその人が目指した姿そのもののようでもあって、私の幻視の能力がこの日は高すぎたのかもしれない。
続く、ボロディン風に…
「風に…」と題された2曲1組のこの小品。
暖かく優しいその旋律。
個人的に、ボロディンの小組曲6曲目のSerenadeから着想したのではないかと疑っている。特に証左はないのだが。
ボロディンが作曲した小組曲には、それぞれ、草稿段階で副題がついている。Serenadeに付された副題は「彼女は愛の調べを夢見る」であったのだけど、もしかすると、夢という単語に惹かれてしまっただけかもしれない。
話が逸れた。
でも、この曲から感じる、優しさや、どこか和やかで心温まる旋律を聴いていると、やっぱり夢見心地になってしまう。
そして、先ほどまで鬼気迫るような音楽を奏でていたとは思えぬほど、丁寧で優しい音楽を奏でる目の前の御仁の本来の気質は、こちらなのではないかと思わされる。
そう。ラヴェルがそうであったように。
静かに1音が去り、少し間を置いてのシャブリエ風に…
今度は、一気にパリの華やかな空気。
それでもやっぱり派手派手にはならず、少しうきうきするような洒落っ気が、心地いい。
思わず演奏を聴きながら、お気に入りの服を着て、ちょっとした楽しみのために出歩くような気軽さ、そして誰かに気づかれない程度に少し微笑んでしまうようなそんな空気を自分の中に感じる。
こういう曲を弾く時、どことなく、御仁の雰囲気も楽しそうな気がする。この日も丁寧な指の運びと共に、ピアノから溢れる音楽にはそういう気軽な楽しさみたいなものがあった気がした。
ラヴェルの遊び心と一緒に。
そして、ハイドンの名によるメヌエットへと移ろうかというとき、それは1日目の出来事だった。
最後の1音が軽やかにすぎた瞬間。
そっと、片手で鍵盤を押さえる仕草…
そのあまりに丁寧に愛おしそうに添えられた片手。
もしかしたら、響きを抑えるためだったのかもしれぬが、その1秒か数秒かわからぬ瞬間にどれほどの敬愛が、曲に対してか、作曲家に対してか、はたまたピアノに対してなのかわからないけれど、あったような気がして、その瞬間の光景が忘れられない。
そんなことに気を取られている間に始まるハイドンの名によるメヌエット。
ラヴェルという人は、縛られたルールの中で曲を書くことを非常に得意としていたらしかった。
このハイドンの名を音名に変えたものも、そうして作られた曲の1つ。
そしてその短い曲の中に、たくさんの優しく、美しく、言葉では単純すぎてうまく表現できないそういう、ふわりと包み込まれるような肌感をもたらす。少しの寂しさみたいなものを忍び込ませながら。
やっぱりこういう曲を弾くときの御仁の表現力。
どれほどの大曲を演奏できる技術や聡明さを研鑽していたとしても、決して技巧だけに頼り、機械的にならない、人間が持ちうるものが音として鳴る。だからこそ、人は集まる。
その中の私は1人にすぎないけれど、この物静かなピアニストがピアノを奏でる場所が、居場所だなと、帰ってくる場所なのだとそう思う。
またラヴェルらしい和音が鳴る。
そして最後まで丁寧に美しく音が閉じていく。

12曲目:クープランの墓
気がつけば最終曲。
ラヴェル最後のピアノ曲へ。
くすみぎみの色合いから始まるクープランの墓。
作曲開始から完成まで、大戦を挟んでしまったこの曲。
この出だしのプレリュードを聴いていると、なぜか次第に、回想を喚起させる少しくすんだ風を感じる。
そして、フーガに至る時、その回想は始まるような気がしてくる。
初日この曲を聴き始めた時、やっぱり、ピアノからの距離が近かったからか、指先にばかり集中していて気が付かなかったが、2日目のこと。
このプレリュードの最後の音が、2階席にいながら、ピアノから響く残響さえ自分の耳に届く。その淡い、金属に反響する、本来の楽譜にはない別の音楽。それが消え、静かにそしてあまりにも美しすぎたその1音が鳴るその瞬間まで、無音の静寂が包んだ。
2日目は、まるで曲が進むにつれて誰も彼もが幻想に飲み込まれていくみたいに、客側の集中が高まっていくその成り行きを見た。
服の擦れる音、鞄が軋む音、パタパタとあおぐ音、そういった音たちが、時間の経過とともに1人、また1人と消えていく。
それが、この曲に至った時、完全なる静寂を作り出した。静寂というより、本当に音が無かった。
無の時間。
そんな中でステージに佇むピアニストのたった1本の指から発せられるその1音だけが響いた。
その透明であるかのような会場を貫く1音が、広く広く広がっていくのが見えるようだった。
澄んだ美しいフーガの始まり。
クープランの墓で1番このフーガが好きだ。
シンプルなそのフーガ。
3声で構成されているが、あまり対位法的ではないとする向きもあるようだが、理論はからきしな私からすれば、十分美しくフーガだ。
むしろ、これほど神秘さが溢れたフーガが他にあるだろうかとすら思ってしまう。
そして、このどの音楽においても手抜かりなど一切ない、いっそのこと、どこかで手を抜いてくれればとすら思うこのお方が、この曲を弾く時、その神秘的な音楽と静寂に宿る静謐さ、空気、肌を掠めるほのかにヒヤリとするような澄んだその時間を、幸福と呼ばずして、なんと呼べば良いのだろう。
たった3分ほどしかない。
けれど、その3分がこれほど極上の時間を作る。
他の5曲に比べても、圧倒的に少ない音数。
それでも、その時間が、幸せだった。
そして、また最後の音の後には、最後の1音がこれまた丁寧に置かれたその後に、また静寂。
無の時間が起きたこと。
きっとそれがすべてだ。
そうして、3曲目のフォルラーヌへ。
もうここまでくると、ただただ幸せだった。
この御仁は"夢"という言葉を比較的よく使う。
それを表現する範囲はきっと広いのだが、例えば、今この音楽を聴いている自分は、完全に幸福な夢を見ていた。
夢の実現。
夢の具現。
例えば、この会場にいた人たちにとってはどうだったのだろう。
しかし、この音楽自体は、決して幸福な音楽ではないのだろう。
前にも書いたけれど、この曲を聴いていると思い出話をしているように感じる。
それはこの日も。
暖かく包む空気には、懐かしさを感じてしまう。
この曲たちが作られたその時の背景に、引っ張られてしまっているというのは、その通り。
ラヴェルの中に確実に刻まれたであろう、戦争の記憶。
母国のため、愛するものたちのため、戦うことをラヴェルは選んだ。
そうして臨んだ先で、友人たちが亡くなる知らせを、おそらく自分よりも大切であったであろう母の体調の悪化を聞いたラヴェルの心痛はいかほどだっただろうか。
ラヴェル自身かなり危険な目にも遭い、心身を患い、前線を離れることとなる。
様々な悲しみを経てこの曲は完成する。
その間に、この曲を仕上げながらラヴェルはどんなことを思っただろう。
そんなことを考えながら、曲は少し楽しげなリゴドンヘ流れる。
リゴドンの献呈先は、ラヴェル少年時代の友人だったという。
もしかすると少年の頃の思い出かもしれない。
こうして献呈先と結びつけすぎるのも良くないかもしれない。
けれど、この思い出話のような音楽が、ラヴェルの閉じ込めた夢なんではないかと錯覚してしまう。
楽しかった思い出を、夢に見る。
亡き友人たちへ贈る追悼の証として。
そんな風に思ってしまうほど、その耳に注がれ続けるピアノの音は、優しくも寂しかった。
そうして、メヌエットが流れる時間に。
この曲は、御仁の言う通り、夢を描く。
まさにそういう曲だと思う。
優しく寄り添うように描かれるメヌエット。
安らかに眠れるようにと願うような。
Tombeauと付されるからには、そういう意味合いが含まれていてもおかしくはないかもしれない。
そういえば、クープランの墓の楽譜表紙に描かれている絵は、ラヴェルが描いた骨壺の絵なのだそうだ。
彼が実際に骨壺に対面したとしたら、それは父と母の物であっただろう。
友人たちの骨壺に対面することはなかっただろう。
だからこそ、絵に描いたのかもしれない。
亡き者を偲ぶ儀式。
骨壺と対面するということは、きっとそういうことであるから。
もしかしたら、実際に対面しての会話ができなかった代わりだったかもしれない。
やっぱりこの日の私は幻視の力が強すぎたのかもしれない。
とはいえ、実際にこの日、いや2日間この曲を耳にしていた時に考えていたことではなかった。その時には、なぜだろうか。別に誰も彼もが知り合いだったわけじゃない。なのに、全員と寄り添っているような気分だった。
その空間に流れる音楽に身を寄せて、同じものを見ている気がした。
そのくらい、その音楽は…
この感覚をうまく言葉で言い表せない。
単純な言葉を使うなら"優しい"
でも、そんな言葉で一括りにしてしまいたくなかった。
他の方々はどうでしたか?
この日のことをこれだけ長々書いているくせに、一つも言い表せていない気がする。その夢の音楽は、美しかった。
本当に言葉とは不便だ。
そうして、やさしいトリルはすぎていく。
最終曲トッカータ。
今までの曲よりも幾分華やかな終曲。
とうとうこの長いようで短いリサイタルの終わりでもある。
もう語るものはすべて語ってしまった気がする。
その華やかで美しいトッカータ。
その終わりは、これほど長いリサイタルであったにも関わらず、
最後の最後まで、変わることなく美しく幕を閉じた。

アンコール:妖精の園(両日)
3時間。終わってみればあっという間だった。
ちょくちょく書いていたが、1日目の本編終わり、アンコール前のトークは妙に印象深かったので、少し詳細を残しておく。
2年前に今回と同じピアノ曲の録音を録ったときに集中して演奏して、それから寝かせて、再度ラヴェル漬けの日々を送っていたが、改めてさらってみて思ったことは、飽きることはなく、ラヴェルのことをもっと知りたいと思ったとのことだった。
そして、ラヴェルの私生活は謎が多いと。
辞典ぐらいの厚さがある書簡集をまだ1割くらいしか読めていないこと。
手紙のやり取りを見ても、どこか寂しげな雰囲気のある人で、結局楽譜をさらうことでラヴェルという人が見えてくる気がすると。
確かに、伝記は日本語翻訳の物でもそれなりに数はあるが、断片的なものが多いのは事実。
そして、まだ手を付けていないが、フランス語の書簡集が私の手元にもある。
まだ1割程度しか読んでいないというが、手紙からも読み解くのが難しいとなると、やはり楽譜にラヴェルその人の本音というものはあって、口にはしづらい何かがあると考える方が自然かもしれない。
ラヴェルの書いた手紙は、伝記の中でいくつか翻訳されている。
それを見ても、彼の独特のユーモアなどが盛り込まれており、一部理解するのに難儀したりもする。
これを、ちゃんと理解するには、音楽という言語を学んだ方が確実なのかもしれない。もしくは、やはりその時代にいないと"理解"はできないそういうこともあるかもしれないが。
今回のトークで、ラヴェルのことを「どこか寂しげ」と言ったのが、妙に印象に残った。
確かに、音楽を聴いていても、そう感じる。
そして、ラヴェルの生涯を紐解く時、どうやっても批評家からの批判や、同時代フランスの作曲家たちとの確執、ドビュッシーとの比較、批評家だけでなく、劇場支配人などラヴェルを取り巻く音楽関係者、聴衆などとのやりとり、そして、父や母の死、戦争…
激動の時代、それだけでは片づけられない出来事たちを目の当たりにする。
人間というものは不思議なもので、理解者が1人でもいれば、救われることもあるが、どうしてもマイナスのものを目の当たりにした時、そこに引きずられてしまうとうのはどうやってもあって、そういうものの引力とは、強引なものだ。
だからとは言わないし、わかるとは口が裂けても言えないが、ラヴェルの孤独や寂しさというものは、こういうところからきているのではないかと思う。
そして、両極端な意見が出てしまうほどの才覚と、それを可能にし、理解する頭脳を持った聡明すぎる作曲家とも言えるのであるから、そのうちにあるものなど、想像もつかない。

話が逸れてしまったが、ラヴェルが完成させたピアノ曲はすべて編で演奏された。
そうして残るは…
務川慧悟その人が編曲したマ・メール・ロワそれしかない。
そうして演奏されたのはやはり「妖精の園」だった。
終曲の妖精の園は、人気も高く、本人もアンコールでたびたび取り上げる曲のひとつ。
かく言う私はあまりアンコールでこの曲に当たったことがなかったのだけれど。
2日間のリサイタルの最後に、両日とも弾かれたこの妖精の園は、本当に美しかった。
本公演のプログラムノート。
そこにはこう記載がある。
「たとえ今日この場所が、単なる現実世界に過ぎないのだったとしても、大丈夫、ラヴェルの調べを耳にする時はいつだってその、懐深く優しい語りが、私たちを、現実から、本来あった夢の世界へと戻してくれるから。」
これを開演前に読んだ時、見抜かれてしまったのかと思った。
現実世界を疎む自分を、現実世界が恐ろしい自分を、戻らなければならないのは、現実世界そう自分に言い聞かせ、これは直視し受け入れねばならぬそういう仕方がないものと割り切ろうとする自分を。
そうわかっていても、現実とはまた違った別のもの、現実世界の大半の時間をかけるその場所以外が大切で、そここそが自分の居場所、そう本来は思っているにも関わらず、偽る自分を。
私たちは、ずっと夢の中にいられるわけじゃない。けれど、この空間にいる間は、本当に夢の中にいる。
本当は、そこから離れたくないと思っているくせに、これはひとときの夢。
あくまで、現実ではなく、一時現実を忘れ、楽しみに溺れる、そういう特別視する時間だと。
けれど、彼は、夢の世界こそ、本来のあるべき場所だとそう明言した1節。
誤魔化して、現実を仕方なく生きるのではなく、夢の世界に戻ることこそ、本来の自分を取り戻すそういう時間であるということ。
ときどき、今でも、どちらが本当の自分なのかわからなくなる。
こうして、音楽を聴き、たくさんのことを考え、誰かの気持ちややりたいことを大切にしようとする、自分のやりたい、好きな、幸せだと思うことをする自分と、仕事をして、自分の気持ちや本当に優先したいことを押し殺し、見知らぬ他人からのこちらの気持ちなどないかのように、悪意なく起きる出来事に、まるで別の人格であるかのように振る舞い、何も感じないかのように過ごす自分。
わからなくなって、何も本当に感じなくなったころ、記憶も朧げで、今はいつで、世界で何が起きているのか、そのすべてに興味をなくし、ただ機械のように生きる、生きている実感すら無くして、それでもせめて、生きていることそれだけでも思い出そうともがいていたとき、彼は私の前に現れた。
本当に、偶然だったけれど。
それからずっと、ここに長文を載せる日々。
ずっと、飽きることなく。
ずっと、彼の描く夢の世界を見ている。
今の居場所。
そして、自分を取り戻す場所として。
まるでそれは、今耳に注がれ続ける妖精の園。
妖精の園に入るには、適切な案内人がいるらしい。
彼がピアノを奏でるとき、その扉は開く。
様々な夢の扉。
そして、今日も幾多の扉を開き、最後に文字通りの「妖精の園」の扉が開く。
2日目の光景が忘れられない。
何回も来たこのホール。
何度目かの2階席。
そして、何度目かの目に焼き付く光景。
それは、ピアノを奏でるその後ろに、大きな妖精の園へと繋がる扉。
きっとこの先もこの人が開き、進み続ける楽園への扉。
妖精の園へと足を踏み入れた人間は、2度と人の世へ戻ることはできないらしい。
けれど、適切な手順を踏むことのできる、この案内人がいれば。
大丈夫。
また、妖精の園へ向かうことができる。
人の世と妖精の住まうところはきっと繋がる。
きっとラヴェルも、本来あるべき、本物の妖精の園に旅立ったのだ。
そこへ至る、再び出会うための、鍵となる楽譜を世に残して。
そして、それを正しく読み解くことのできる案内人を我々は知っている。
だから、臆せず進もう。
我々の本来あるべき場所へ。

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はい!なんと!!!!
今回noteを書き始めて1番長い文章の記録を越えましたー( ᐛ) !!!!
\パンパカパーーーーーーーーーーーーーン/
あ。はい。ほんと長くてすいません……………
ほらあれですね。アンコール含め計13曲を2日分と考えるとまぁほら……
いやほんと書きすぎました……
しかも今回はかなり時間がかかってしまい………
いやはや…なぜこんなに苦しみながら書いたかっていうと、やっぱり、書いておきたかったんでさぁ。あまり勢いない状態で文章を書くのは得意ではないのですが…
文章を書くとき、いくつかまとまった書きたい箇所や表現があって、出力する時は、繋げるだけ、みたいなことがほとんどなのですが、今回はどう語彙を搾り出しても、なかなかいい表現ないなぁとか、これではなんか違うなぁとか…

でも、ラヴェルの全曲演奏はおそらく今後しばらくないと思うので、今の務川慧悟の最前線を書いておきたいなーと思ったのでした。
やるとしたら50年後になるのか、はたまた、何かをきっかけにして10年後とかになるのかわからないけど、そのときにまた聴けたらいいですね( ᐛ) 
生きてたらね( ᐛ) (おい)
ありがたいことに、前回の全曲演奏会から3年しか空いてない。とはいえ、1日でっていうのは初めてで、というか3時間越えの演奏会がまず初。
それを務川さんの演奏で聴けたというのは、とてもラッキーでした( ᐛ) 

本編にも書いていますが、2ヶ月ほど使って、ラヴェルの伝記2冊を読み直し、井上さつきさんの著作、人と作品シリーズ「ラヴェル」に掲載されている年表を元に、データに起こして、それに肉付けする形で、同書とオレンシュタイン版「ラヴェル」2冊をまとめる遊びなどを並行しました。
さすがに仕事しながらだったので、本を隅から隅まで読んでまとめてができなかったので、省略している部分もあり………ちょっと不完全燃焼……
今回はピアノ曲に集中しましたが、ピアノ協奏曲のあたりは手をつけられなかったので、10月の演奏会までには…もう少しまとめられるといいなと。
流石に著作物から大部分を引っ張っているため、ここやSNSでの掲載は、著作権侵害になる恐れがあるのでしませんが、個人的にお付き合いのある方などには、個人で楽しむ範囲でという形でひっそり見てもらったりもしました。
せっかく作ったらやっぱり、誰かに見てもらえると嬉しい…それで褒めてほしいとかではなく!
見る時間を作ってくれるというのが密かな嬉しポイントだったりします。
これがワイの承認欲求の消化の仕方……(おい)

それにしても、改めて読み返してみると、流してしまっていたことや、忘れていることなどあり、発見も多かった……他の本も同じように追加していきたいなと思ったりしました。
務川さんのマネではないけど、ラヴェルのこと、やっぱりもっと知りたくなりました。
意外な人物と繋がっていたんだなーとかもあって、知りたいことはまだまだありそうです( ᐛ) 
わからないことを少しずつ知っていく楽しみをこの歳にして知ることになろうとは………
これも務川ファンになったことでもたらされたもの。感謝ですね( ᐛ) 

さて、今回のプログラムノートを公演前に読んだワイ、本当にまだ始まっていないのにグッサリ刺さってしまって、2日目のサイン会のときに、思わず「短編集とか出しませんか………?」と言ってしまったわけですが、務川さん今回は自信作!とのことだったけど、「書きたいものがあれば…書ける。でも締め切りとかできてしまうと…納得するものが…」とおっしゃっておられ、自分で言っといてなんですが、「わかるぅ〜〜( ᐛ) 」となるなど、いやほんと烏滸がましいし、比べ物にならないですけど、そらそうですわねと。
本業はピアニストだし、ただ、こういうプログラムノートがある程度溜まったら書籍化とかしてもろて………………すべてのリサイタルに行けるわけではないので、行けなかった取得できなかったプログラムノートをゲットするビックチャーーーーーンス!!!!!!。
ぜひ、レーベルの方、出版社の方、それ以外の出版に関わるすべての方、何卒!何卒ご検討いただければ!!!!これ幸い!!!!!!
じゅ、需要はココにあります!!!!!!!
(うるせぇ)

というわけで、ラヴェル祭りは一時閉幕。
次は10月の協奏曲2曲。
ラヴェルイヤーはまだ終わっておりませぬ。
最後まで楽しんでいきたいですね。

そして、ここまで読んでくださった皆皆様、本当に長かったと思いますのに、読んでいただきありがとうございました………
この時間を別の小説なり本なり、テレビなり務川慧悟氏の音源なり聴けるところを…
お時間いただき誠にありがとうございました。

さてそれでは今度はいつ更新になるのか。
そのときまで皆様さらば〜( ᐛ)