魔に魅入る

7月に入りましたね。
さて皆さま、今年もとんでもない暑さ…いかがお過ごしでしょうか。
梅雨が一瞬で明けてしまった!と思ったら灼熱の夏がやってきてしまいました。
あ、あつすぎる…
というわけで、こちらへ


写真は2日目だよ

八ヶ岳高原サロンコンサート
務川慧悟 ピアノ・リサイタル

そうです!八ヶ岳高原音楽堂でのリサイタルです!!
しかも2日間!!
宿泊時には務川氏セレクトのワイン付き!!!(応募者のみ)
発表された瞬間に泊りで行くことを決意!!!!
これはあんまり意識してませんでしたが完全なる避暑!!!!
避暑しながら務川さんのピアノが聴けるなんてお得プラン!!!!!????
しかも…
オール・ラヴェルプログラムです。
プログラムの中に「鏡」があります。
そんなことがあるなんて………(絶句)
行くしか…ないじゃないですか…………
というわけでお付き合いください。
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八ヶ岳高原音楽堂に初めて行ったのは2023年6月4日。
こちらも務川さんのリサイタルだった。
この日も曲目には「鏡」があって、迷わず行くことに決めた。
あれから3年。
務川慧悟という人が弾く、オール・ラヴェルプログラムを初めて聞いたのは、何とも運がいいことに、2022年夏、渋谷美竹サロンでのクローズドコンサートだった。しかも、その日もラヴェルのピアノ曲の全曲演奏会だったわけだが、「鏡」を初めて実演で聴いたのもこの日だった。
あの日の喜びも感動もすべて鮮明に覚えている。

なんでこんなに「鏡」という曲が好きなのか、それを説明するのは難しい。
おそらく、ラヴェルの曲の中でこれをこんなに好きだと思っている人ってそんなにいないんじゃないかと思うし、その後ラヴェルが作曲した「夜のガスパール」の方が、有名であろうし、聴く側としても印象に残りやすいと言えるのかもしれない。
けれど、私にとっては「鏡」の中に、ある種の心の置き所を見つけてしまったように思われる。
それこそ、務川慧悟という人に出会って、最初に食い入るように、何度も何度も、自分でもおかしくなってしまったのではないかと思うほど見た動画は、2019年ロン=ティボー国際ピアノコンクール予選で弾いていた「鏡」の動画だった。
2020年の冬に出会ってから早5年ほど経とうとしている。
この5年で「鏡」を実演で聴いたのは、計2回。
今回で3回目。
ずっと待っていた。

ーday1
◆Program
古風なメヌエット
水の戯れ
亡き王女のためのパヴァーヌ

高雅で感傷的なワルツ
夜のガスパール
※当日は2・3曲目、曲順逆
en1) 前奏曲
en2)ハイドンの名によるメヌエット

相変わらず前置きが長い。
今回は先にトークがあって、演奏に入る形式。
詳細なトーク内容は、記憶力のある方にお任せするが、今回のプログラムについて。
ほぼ年代順に並んでおり、ラヴェルが印象主義を極めた時代の作品と、
夜のガスパールにより、ピアノの印象主義の到達点を迎えて以降、別の形式によって曲を書いていった時の作品を今回のプログラムに選んだとのこと。
ラヴェルが音楽院に入るか入らないかのころに書いた「古風なメヌエット」から始まり、「水の戯れ」により革新的なピアノ技法を確立し、研鑽し、「夜のガスパール」により最高到達点へと至る。その後、委嘱作としてではなく、シューベルトの「高雅なワルツ」に倣い、作曲された「高雅で感傷的なワルツ」の流れだ。

先にお伝えすると、プログラムでは「水の戯れ」→「亡き王女のためのパヴァーヌ」となっているが、実際には「亡き王女のためのパヴァーヌ」→「水の戯れ」の順で演奏された。これはラヴェルの完全な作曲順での演奏となった。
会場で発表されていたプログラムをあまりちゃんと確認しておらず、個人的には全く年表通りに進むことに何の違和感もなかった。
むしろよかったのではないかとすら思ってしまったのだけれど、あの順番逆にしていたのはなんでなんだろう…

1曲目 古風なメヌエット。
作曲は、井上さつき先生の著作「人と作品シリーズ ラヴェル」によると1985年。ラヴェル20歳のころの作品。1881年作曲のシャブリエ「華やかなメヌエット」の影響を指摘される作品。
この日、出だしの集中力からして違っていた。
いつものように椅子を調整して、一瞬、間をおいてのスタート。
しかし、不協和音的な出だし、その和音が鳴らされた瞬間のピアノにかぶさるような姿勢が恐ろしかった。
一瞬で空気が変わる。
いつもとあまり変わらない姿勢の中で、それでもひやりとする没入の瞬間。
そこから鳴らされるメヌエットの、シャブリエとは異なる、ラヴェルらしい華やかすぎない音楽。
紡がれる音の美しさと背景の全面ガラス張りの窓から見える緑と光。
眩しくもあり、どこか自然と一体であるかのようなその映像。
いつも通り滑らかに走る指先。
メヌエットの名にふさわしい、品と風格を思わせる舞曲。
この時代のラヴェルは、親しい友以外にはややよそよそしく、超然とした冷たい雰囲気を漂わせていたという。
今、目の前で弾かれるピアニストの姿に少し重なる。

そうして2曲目の「亡き王女のためのパヴァーヌ」へ
今までの超然とした雰囲気から一転する。
どこかなじみやすい温かさをもったパヴァーヌ。
自然と息をするように流れていく。
以前には気が付かなかったことだが、パヴァーヌというのは、宮廷舞曲の1つなのだという。
先のメヌエットは、フランス発祥の宮廷舞曲、そしてこのパヴァーヌはスペインの宮廷舞曲。
なじみやすくもどこかよそよそしさを感じていたのは、もしかすると、ここでも「風格」を感じ取っていたのかもしれない。
それが、宮廷が発祥の音楽であるからなのか、それとも目の前の御仁から感じ取ったものなのかはわからない。
けれど、この日感じたのはまぎれもない「風格」だった。
いつものように丁寧に運ばれる指先に。
纏う雰囲気にすでにこちらは息を飲んでいた。

そして続く3曲目「水の戯れ」
研ぎ澄まさったその指先は、さらに滑らかに鍵盤を走る。
その走る指先が光っているように見えたのは、外からの光のせいだろうか。
水の戯れといえば、御仁も言っていることだが、ラヴェルにとって、ピアノの印象派技法を確立した作品。
後にラヴェル本人が「水のざわめき、噴水や小さな滝や小川の音楽的な水音の響きからインスピレーションを得て」作曲したと述べている通り、まさに水という無形のものを音楽として、技巧として消化したということが良くわかるそういう演奏だった。
そこには、彫刻のように作りこまれた音楽でありながら、微塵も感じさせない、変幻自在の水の戯れがあった。
そうしてこちらはどんどん飲み込まれていく。
大量の水に溺れるみたいに。
その日、八ヶ岳は晴れていた。
あふれんばかりの光の中、鳥の声や木々のざわめきさえも音楽の一部のようであった。
この日、リサイタルが始まる前に、音楽堂の周辺を、山の中を歩いた。
そのとき、大量の木々の隙間から降り注ぐ光の中で、小さな小川の水がきらきらときらめいていた。
この目の前の御仁は、この景色を見ただろうか。
けれど、事前のPodcastで音楽を映像としてみるのは得意ではないと本人の口から言っているのを聴いた。
だからこれは、私個人がただ単に、直前に見た景色を無理矢理つなげただけかもしれない。
けれど、明らかに、今まで聴いたことのある水の戯れよりも、何かより核心的なものを見た気がする。
そしてこの予感が次の曲に至ったとき、どんな効果をもたらすのかわかっていなかった。

4曲目「鏡」
ずっと待っていた。
実は鏡の中の数曲はアンコールなどで弾かれることはいままでもあった。
前回の八ヶ岳高原音楽堂以降の話。
けれど、5曲のフル尺では1度もなかった。(国内ではなかったような………記憶力よ……)
「鏡」という曲に関して、実は作曲経緯は不明らしい。
ただ、この時期のラヴェルは、アパッシュに参加し、音楽だけでなく、絵画や文学など、さまざまな芸術分野の人間と交流し、中流から上流階級の行うさまざまなサロンに出入りしており、多角的に影響を受けた時期と重なる。
(さらに言えば、通称「ラヴェル事件」以降の作品でもある。)
実際、5曲各曲たちはアパッシュのメンバーに献呈されている。
水の戯れにより確立した印象派的ピアノ技法は、「鏡」を描くころにはさらに洗練される。この曲を聴けば聴くほど、「夜のガスパール」へ至る道筋のようなものが見えてくるような気がしてくる。
と、歴史を紐解くだけでも語るものは山ほどあるが、そんなことはどうでもいい。

「蛾」から始まる鏡の世界。
まるで指先が、夜、外套の周りを飛ぶ蛾たちのようにぼんやりと光を反射し、鱗粉が舞うようだった。
この時点で、すでにその世界に自分は取り込まれていた。
滑らかな指先しか目に入らなかった。
展開していく蛾の飛翔。
その決して規則正しくない蛾の飛翔の様は、あまりの臨場感だった。
多用される強弱。
弱音を奏でる指は、ほとんど鍵盤に触れたのかどうかすらわからない。
その恐ろしいほどのコントロール。
繊細なコントロールなどという言葉では足りない。
もはや職人技というにも生ぬるいほどに洗練され、息をしているのと等しいほど、指という概念というよりも、イメージしたものがそのまま鍵盤から遠隔で鳴らされているのと勘違いしそうなほどで、実はもう私は幻覚を見ているのではないかと思った。
とうとう、私は現実が認識できないほど、人として駄目になったのかと思った。
そう。2曲目の悲しき鳥、その出だし。
同じ音が2回、その音形が2回。しかし、ほとんど2音目は認識不可能なのではないかと思うほど、1音目にまぎれるように配置される。
鳥たちのさえずり、細やかに飛び回る世界。
時間が止まっているような錯覚。
虫の鳴き声や木々のざわめきさえ聞こえていたはずの音は鳥以外にいなくなった。
鳥のさえずりは、このピアノのものなのか、外でさえずる実際の鳥たちのものなのか、もはやわからない。
いったいどっちだったのだろうか。
そんなことをぼんやり考えているうちにまた場面は展開する。
ゆるやかに小舟が揺蕩い始める。
「洋上の小舟」が。
頬に軽く風が吹いた気がした。
揺蕩う小舟に、波が、水が跳ねる。
きらきらとした光の反射が、
視界をさらに鈍らせていく気がする。
ただ穏やかに揺蕩うだけでなく、うねるような水流が小舟をかすめ取っていくようですらある。
ほとんど息をするのを忘れていた。
ただ、その美しい指先とピアノから湧き出続ける音楽だけがあった。
その美しさを形容する術はやっぱり持ち合わせていない。
どんな風に語れるだろうか。
この曲の献呈先は画家だった。
その画家はどんな絵を描いていただろうか。
そんなことがうっすら脳裏をかすめていく。
洋上に浮かぶ小舟は、さまざまな波の上を行く。
その色合い、展開をここまで多彩に描き出す。
ただ美しく漂うだけではない洋上の小舟。
最後は、息を吐くことも忘れるほど、静かに。
またも目の前の指は鍵盤に触れたかどうかすらわからない。
瞬時に瞬くように消える。
そして、やってくる道化師の時間。
スペイン風の旋律。ラヴェルのお家芸とも言えるこの瞬間は、
きっと誰もが心躍る瞬間だろう。
跳ねる指先。
低音ではいつものこぶしでの強打。
これを聴くといつも、タワーレコードで間近に聴いた衝撃を思い出す。
そうして、妖艶に舞い始める道化師。
道化師というとピエロのことを思い浮かべる人も多かろうが、実は少し違うらしい。
この曲にはスペイン語で「アルボラーダ・デル・グラシオーソ」というタイトルがつけられており、「アルボラーダ」というのは、スペインのガリシア地方起源の恋人たちの朝の別れの歌のこと指すのだという。
そして、「グラシオーソ」というのは、スペイン喜劇で好んで描かれるいたずら者のこと。
そう考えると、これは男女の歌でもあり、いたずら者の歌でもある。
目の前で展開するこのスペイン風の舞踏。
それは、「鏡」という曲の中で唯一、人らしいものが登場する曲でもある。
だからこそ、今目の前で展開するこの曲の躍動感に繋がるのかもしれない。
スペインにゆかりの深いラヴェルのユーモアが、今目の前に顕現していると言えるのかもしれない。
そうして、楽し気な時間は終わり、終曲へと至る。
その出だしの1音を聴いた瞬間の
鐘の音に息を飲む。
終曲「鐘の谷」
様々な場面を経て、最後に訪れるこの瞬間。
さまざまな場面の終着。
私は、すべての終わりは、等しく、華々しくはないと思っている。
どんな人間であっても。
最後は、きっと静かに閉じていくものだと。
だからだろうか。私は「鏡」を聴く時、どうしても5曲通さなければと思う。
そして、同時に、この曲に到達すれば「終わり」なのだ。
夢の終わり。
その鐘の音は、あまりにも美しかった。
4曲の幻想の果て。
この時にはもう耐えられなかった。
涙があふれていて、視界なんかもうほぼ見えない。
ずっと聴きたかった。
この5曲目の終わりを。
さまざまな技巧が駆使されるこの「鏡」という曲にあって、
最後の「鐘の谷」はどの曲よりもシンプルだ。
ただ、鐘を奏で続ける。
この美しさ。
それが、
こんなにも、
丁寧に描かれる。
その指先が
鍵盤に触れるたびに
そうして紡がれる音を、
どれほど言い尽くしてもなにも表せない。
モーリス・ドラージュに献呈されたこの曲は、
谷間に鐘の音がこだまする情景が描かれており、
ラヴェルがロベール・カサドシュに対して語ったところによれば、
「正午に鳴る多数のパリの教会の鐘から着想を得た」とのことらしい。
数多の教会から聴こえる鐘の音。
ラヴェルの目線を通した時、これほどまでに美しく描かれる。
その景色を1度は見ることができるだろうか。
御仁は、パリで耳にしたであろう鐘の音を思い浮かべただろうか。
終わってほしくなかった。
鐘の音が徐々に遠のいていく。
離れていきたくなかった。
ずっと、この瞬間を待っていた。
どうしてこんなにこの曲が好きなのか自分でもわからない。
でも、初めて聴いたこの御仁の弾く「鏡」を聴いた時、それはあまりにも衝撃的だった。
普通は、きっともっと技巧的で華やかなものに憧れるものだろう。
確かに、この御仁の弾くそういったヴィルトゥオーソ的な演奏も当然素晴らしい。そんなことはわかっているけれど、私は、この御仁の奏でる、幾分抑制され、静かな音楽に、強烈な憧れを抱いた。
余計なものが自分という内から消えていくみたいだった。
それからずっと、たとえ、プログラムに「鏡」はなくても聴きに行っては、そこに希望を見出していた。
どんなにつらくとも、この人がピアノを奏でるその場所に、静けさは宿る。
過去2回聴いた鏡はどれも素晴らしかった。
今でも、鮮明に呼び起こすことができるけれど、
この日、
3年ぶりに聴いた鏡は、
絶望してしまうほど美しかった。
終わってしまう。
プログラムに載っている1日が終わってしまう。
それが、こんなにも、
美しい。
悲しい。
耳を
肌を
撫でていく
鐘の音が過ぎていく。
泣いてしまうくらい。
会場に響くピアノ。
ピアノの内で反響し、共鳴するピアノ線の金属が奏でる残響。
すべてが、細部に至るまで計算されているかのように美しく響く。
もうこんな音は聴けないかもしれない。
そんなことすら思った。
こんなことを書いたら怒られるかもしれないけれど、"死ぬにはいい日"とは、まさに今だった。
去って行ってしまう鐘の音が悲しかった。
音楽が進んでしまうのが悲しかった。
最後の鐘の音が響く。
あまりにも弱音で。
この最後の音は皆聴こえただろうか。
そのあまりにも小さい鐘の音が、消えていく。
それを静かにピアノの前で座り聴いている、
御仁の姿が忘れられない。
私の耳からも消えていく。
その音の、
感触が、
輪郭が、
存在が、
消えていくのが悲しかった。
自分だけが取り残されるのが嫌だった。
置いていかないでほしかった。
私も消えてしまいたかった。
そうして、焦がれに焦がれ続けた「鏡」の時間は終わった。
もうずっと涙が止まらなかった。
空中から音の存在が消えるそのときに、時が止まってしまえばよかった。
自分だけでも、その向こうに消えてしまえれば良かった。
この曲のタイトル。
フランス語では「Miroirs」
このフランス語の「Miroirs」を鏡と訳すのはおかしいとする向きもある。
しかし、芸術運動において、「鏡」は現実の反映と幻想の境界を探るためのシンボルとして使用されていたという話がある。
上記の意味合いを考えると、そうでもないかもしれない。
古代では、鏡は占いなどにも使われ、高貴なものの墓に供えるものでもあったという。
私がこの日に聴いたものは、現実と幻想の境界を踏み越えた何かだったのかもしれない。

さて、これは前半の話である。
今にして思えば、これ以上の演奏を聴くことはないかもしれないなんて言うことは、この御仁に関して言えばありえない。
いつだって先を進み続けるその人は、もっとピアノが上手くなる。と自身が確信している。
そしてそれは、確実に真実だ。
これ以上はない。そう思っても、次のリサイタルではそれ以上を常にたたき出す。だから、正直失礼なことを言っている自覚はある。
さらに言えば、この「鏡」、実は月末にも演奏されることが決まっている。
だから、「次」はあるのだ。確実に。
顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、演奏が終わった後、泣きすぎてすぐには動けなかった。
それはそれは周囲の方からは奇怪に映ったことだろうが仕方がない。
休憩の間、ひたすら駆け出していきたい衝動を抑えていた。
まだ、後半が存在するのだから。

5曲目。高雅で感傷的なワルツ。
曲的には最終曲「夜のガスパール」より前に作曲されたもので、この時期からラヴェルは独立音楽協会を発足する。
そして、その演奏会用に書き下ろされた楽曲が「高雅で感傷的なワルツ」であり、シューベルトの「高雅なワルツ」に倣って作曲される。
華やかに始まるワルツ。
それはまさに、パリそのもののようであった。
この少し前、プーランクの協奏曲を師であるフランク・ブラレイ氏と2人演奏したのを聴いた。
この時にも感じたが、今までよりも華やかな曲に対する演奏の絶妙な華やかさのニュアンスは変化していた。
そこから受ける音楽には、ただ洒落ただけではない、洗練さが見て取れる気がした。
実はラヴェルのピアノ作品の中で、この曲だけはあまり好きになれていなかった。どうしても聞く回数としては少なく、敬遠しがちだったのだけれど、
変奏曲が好きな私にとっては、好きそうでもおかしくはないのだが、なぜかよくわからなかった。
けれど、その日唐突に見える世界が変わった気がした。
めくるめくパリの洗練された空気。
ラヴェルは当時36歳。
その時代、フランスは、パリは芸術最先端の街。
数多の芸術家がひしめき合い、盛んな議論が交わされる。
ラヴェルはそんなパリの中で前衛音楽家としての地位を確立していた。良くも悪くも。
そういう複雑性こそこの曲の理解を難解にしていたのかもしれない。
そして目の前の御仁は32歳。当時のラヴェルの年齢にも近づいてきた。
だからこそ、ただ小綺麗なワルツに止まらない、大胆さと華やかな色気すら纏い始めたのかもしれない。
ラストワルツに差し掛かる。
それは今までのワルツを回想するように静かに、コントロールされて進んでいく。
まるで鳴らされる音にブレンドしていくように。
和音の靄の中、そっと隠れているように、回想される旋律たちが現れては消え、現れては消えていく。
ここでも静かに、恐ろしいほどコントロールされた弱音が儚げに全てを持ち去っていった。

そして、その頃、外では先ほどの靄の中に隠れ潜んでいた旋律たちはどうやら雨雲を連れてきたらしい。
少し湿気が強くなり、先ほどまでの光あふれる庭はなりを潜め、薄暗くなり始めていた。
そんな中で始まる6曲目「夜のガスパール」
アロイジウス・ベルトランという詩人の残した詩を、ベルトランの死後、友人たちによって編集され、1842年に出版された同名の詩集より3篇を抜粋して作曲されたこの曲。
ベルトランはロマン派の時代にありながら、散文詩を書いており、そのモチーフはその当時とはあまりにかけ離れていて、不遇の生涯を送った詩人。
そこで描かれる詩の世界は、あまりにも恐怖やおぞましさに満ちている。
あまりにも時代を先取りし過ぎた詩人だった。
ラヴェルが初めてこの詩に触れるのは1895年。
ベルトランの死後50年ほど経ってからのこと。
その世界観は、ラヴェルが生きた当時のフランスの芸術性に近いものだったのだろう。
始まる時のいつもの間。
しかし、それはいつもよりもさらに鋭角な気がした。
それはあまりにもゾッとした。
今日の集中の様はどうしたことだろう。
いつもピアノ前に座る御仁の集中力は素晴らしい。
しかし、今日のそれは、久しぶりにソロでの彼を見るからなのか、本当に背筋が冷えた。
そうしてその緊迫の中はじまるオンディーヌ。
水面にゆらめく音楽が始まる。
いつもよりさらに集中した音楽。
そして気がつく、客側の集中力もまた強かった。
少し薄暗くなった会場に響く、美しく煌めく水の精の輪郭。
あまりに滑らかに滑る指先は、水の戯れとはまた異なる精度で鍵盤を走る。
中盤に差し掛かったころ、曲が展開を始める。
そして、不意に窓の外に目をやれば、雨が降り始めていた。
大きく跳ねて見せる水の精。
そしてその背後では雨がサラサラと降り、天井を鳴らす。
鍵盤を叩くハンマーの音なのか、雨音なのかもわからない。
妖艶に艶めく水の精の音楽。
それはピアノから溢れ出るように、色彩を、光を、この薄暗くもある会場に満たし、目の前を美しい水の流れのように通り過ぎていった。
そうして、静かに絞首台へと進んでいく。
詩の情景には決してない雨だが、その薄暗さと、湿った空気がさらにその情景を異様にしていく。
常に響き続ける鐘の音。
それはあまりにも恐ろしい小指の魔技。
べったりと張り付くような空気。
そこに並べられている首の未練でもへばりついているような錯覚。
集中しきったその空間に響く鐘の音は、あまりに無感情だった。
ほとんど、身体も、手も、目も動かなかった。
身体を縛り付けるその音楽の圧力。
もうこの目の前の御仁は、夜のガスパールを、このラヴェルの最高難度のピアノ曲を手中に収めているのだと、この後に続く魍魎たちの世界への期待を煽っていく。
じりじりと這い上ってくるような空気。
ここまでくるのに相当な神経を使ってきたであろうことを微塵も感じさせないコントロール。
この身体を締め付けてくるような緊迫感さえも美しい。
この御仁の音楽には、すでに"魔"が宿っているのだなと不意に思う。
そうして、また鐘の音だけがその場に残されていく。
無常の情景のその中に。
そうして、本物の"魔"の時間がやってくる。
背後に忍び寄る「スカルボ」
しかし、ふいに目を開けばそこには何もいない。
ここでもすべてを支配する。指先。
突然消えるその気配に、誰もがぴたりと静止する。
その無音の静けさ。
驚くことにこの時、雨はすでに止んでいた。
いつからこの御仁は天気まで操れるようになったのかと思う。
たまたまとはいえ、恐ろしいことだ。
2回繰り返される無音の時間。
このコントロール。指で、全身で無音が強制されるその瞬間。
それが、客側も望む時間であることが、こんなにも当たり前になってしまった。御仁とファンの共通言語であるかのようなその時間。
そうして、とうとうスカルボは暴れだす。
スペイン風の旋律。
以前よりもまた迫力の増した舞踏。
この滑らかに展開するスペイン風の舞踏。
しかし、迫力を増してもなお、まったく衰えないすべての音への丁寧さ。
このスピードを伴って、ここまですべてに神経が行き届く人間がどれほどいるだろう。
スカルボたちが我々をあざ笑う。
低音がぞろぞろと我々の皮膚をざわめかせる。
痺れるような緊迫と恐怖の音楽。
そうして再び、スカルボたちは目の前から消える。
再びの静寂の強要。
聴き知った静寂が、これほどに心地いい。
またスカルボたちはじわじわと我々を追い詰め始める。
目の前でケタケタと暴れまわる。
そうして唐突にまた目の前から姿を消した。

この日のアンコールは2曲。
本編には組み込まれなかった「前奏曲」と「ハイドンの名によるメヌエット」
印象派の技巧に注目したプログラムから外されてしまうのは当然ともいえる2曲。
しかし、この2曲の甘美なる響きまで堪能できるとは、なんと贅沢なことだろう。
こちらはこちらで、ラヴェルの優しさのようなものを感じる。
そして、この御仁が奏でるとき、
それは静かで優しい時間になる。
両日ともサイン会があった。
実は1日目、どうやらピアノの椅子が壊れていたようで、体重移動をするとギシギシ音がしていたし、高さを調整するのも難しかったようだ。
音に関しては仕方がないと思うが、この日のあの演奏精度で、さらに椅子にまで気を使っているとなると相当神経を使い摩耗したのではないかと思って尋ねてみたが、「大丈夫でした」とにこやかに返ってきて、まったくもってすごいひとだなと1人苦笑してしまった。
さて1日目が終了した。
ホテルに戻り、夕食までの時間1人部屋に戻った。
その時間、本を読んで過ごしたが、やっぱり鏡のことを思い出して、泣いてしまった。

そういえば、夕食時には、オプションで、務川慧悟セレクションワインが3種つけられるという豪華なものだったけれど、私は赤ワインが体質に合わないため遠慮した。
しかし、なんとなんと!そのワインの解説を夕食時にご本人が!!!!!
私ワイン注文してませんが聞いていいんですか!!!!!!???????
ということで、解説だけ拝聴しつつ、食事を楽しむことができた。
おぉ神よ……(絶句)
さらにお世話になっているフォロワーさんの席に同席させていただき、お話もさせていただきつつ、楽しい時間でした。
この場を借りて、改めてお礼を申し上げます。
楽しかったです………(噛み締め)

食事の後には、夜のガスパールの詩集の断片を読んだ。
それでもその日が終わるのがつらくて、星空は見えなかったけれど、
夜の散歩を少しだけした。
耳に残る鐘の音が、完全に消える前に。

ーday2
◆Program
ソナチネ
水の戯れ
夜のガスパール
高雅で感傷的なワルツ
クープランの墓
en1)ボロディン風に…
en)マ・メール・ロワより妖精の園
     (務川氏本人編曲による独奏版)

翌日。昨日の夕方に降った雨が嘘のように晴れていた。
そうして2日目である。
この日も演奏前に解説が。
ラヴェルは自然を愛する人であったと。
前半は、昨日同様印象派の技法によって書かれた3曲であり、フランス音楽においてよく取り上げらる水や光といったモチーフが使用された曲を。
そして後半は、夜のガスパールで印象派的なピアノ技法の頂点に到達して以降、別の形式に倣い作曲されたもの、シューベルトの「高雅なワルツ」に倣った「高雅で感傷的なワルツ」そして、フレンチ・バロックの大家クープラン( 1668年ー1733年)の様式に倣った「クープランの墓」が並ぶプログラム。

椅子はどうやらスペアがあったようで、少し安心しつつ、1曲目は「ソナチネ」から。
「鏡」とほぼ同時期に作曲されたソナチネ。
個人的にはこちらも思い出深い1曲だった。
彼の演奏するラヴェルを初めて聴いたのがこの曲だった。2楽章である。
今にして思うと、その当時、ラヴェルのこのソナチネ2楽章は、彼のアンコールピースとしては十八番だった。あれからもう5年。
こんなに誰かを長い間追っていたことがあったかなと、昨日より幾分落ち着いた心持ちで聴くことができた。
全面ガラス張りの窓からは、昨日と同じくあふれんばかりの緑と光が満たす。
ソナチネに相応しい景色。
昨日は余裕がなかったのもあるが、指しか見ていなかった(おい)
この日、その光あふれる緑の庭を、不意に演奏しながら見やる御仁の姿。
ソナチネの優しい響きが、さらに窓の枠を取っ払って、先ほどまで歩いていた木々の隙間から差す日の光を思わせる。
そういえば、以前題名のない音楽会で、フランスでは光と影で表現されるものが多いというような話(記憶力薄弱)があったなと不意に思い出す。
ソナチネのことを調べてみても意外と詳細みたいなものは出てこない。(カルヴォコレッシの提案でコンクール用に1楽章を作曲していたという話くらいか)
けれど、今日の演奏を見ていると、ソナチネも光と影そのものを描いているように聴こえる。
ラヴェルは自然を愛した人だったと御仁は言うが、この物静かな男こそ、自然を愛し、愛されているように感じる。
彼が降り立つ場所はいつも晴れている。
時には曇りや雨の日もあるけれど、ほとんどが晴れていて、曇っていても晴れてしまう。
昨日は昨日で、天候を操ってみせた。
目の前の光輝く光景の中で、美しく穏やかで優しい時間は過ぎていく。
半分白昼夢のような状態で水の戯れへ。
昨日同様、キラキラと眩しく光る水の戯れ。
しかし、なんとも驚くべきことだが、昨日よりもより滑らかに鍵盤を滑る。
いや………本当になんですか……指…別の生き物なんですか………?(おい)
水の戯れも実はあまり好きではなかったのだが、ある時からこの曲もただ技巧的に構築された無感情な音楽ではないのだと、この御仁の演奏を何度も聴くうちに思い知らされるようになった。
そして、2日連続で聴くこの曲に、水の煌めきのバリエーションを感じる。
より精度の極まったその音色に、余裕すら感じる。
そして、ここで感じた余裕は、次の曲の序章と言えた。

前半最後は「夜のガスパール」
前日には天候マジックまで見せてくれたこの曲。
そして、今日はどんな演奏になることか。と、また恐ろしいほどさらに集中力を増す横顔。
始まるオンディーヌ。
これが、本当に凄まじかった。
先ほど余裕綽々で鍵盤を走り回った指先は、オンディーヌになっても変わることはなく、むしろ、さらに精度を増していた。
もはや指が水の精そのものであるかのように、透明感を増して煌めき、人を、人間を誘惑する。
その蠱惑的なまでの音色。
水の中へと引き摺り込まれたのではないかと錯覚するほど、息をするのも忘れた美しさ。
背景から降り注ぐ光を音が反射しているように、目を焦がす。
また不意に、御仁が外に目をやっていた気がした。
あまりに眩しく、魅惑的なオンディーヌ。
そして静かに消えていった。
そして、続く絞首台でそれは起きた。
抑制された鐘の音から始まる絞首台。
その緊迫感はさらに強まる。
こちらの首を絞めているのではないかと錯覚するほどの緊迫。
どんどん高まっていくかのような集中力。
そして、ぞわぞわと肌を這い上ってくる感覚…
まるでそれは、絞首台の遺骸に群がる蟲のざわめきのように…
錯覚なのはわかっている。
しかし、曲が進むにつれて、耳元にざわざわとした感覚が、ざらざらとした音楽が聴こえてきた気がした。
それはもしかすると外で吹く風、木々のざわめきだったかもしれない。
でもそれが、まるで、タイトルにある通りの夜のガスパール、絞首台の詩を読んだ時に感じた、あのなんとも恐ろしい、グロテスクな質感を思い出した。
詩に描写される絞首台は、この曲のようにただ荒廃としているよりは、絞首台に残る残骸とそこで聴こえる音を描写している。
その残酷な質感。
それが今、自分の耳に届いている。
詩によろしく、私のこの耳に届いているのは、「鋭く音を立てる夜の北風か、それとも絞首台の上で吐息をつく首吊りの人か?」(夜のガスパール 作者の草稿より抜粋したる断章より絞首台 訳:及川茂)
あまりに詩の質感に似ていて、ほとんど硬直していた。
鐘の音が響く。
そのあまりに凄惨な場面に。
あまりにも美しく、静かに。
ゆっくりと、絞首台が遠ざかり、また1音を残して消えていく。
そして、夜。
再び魑魅魍魎の世界が扉を開く。
またも、私たちの背後に忍び寄るスカルボ。
そして消える全ての音。
今日も今日とて、スカルボが暴れる。
絞首台での抑制され切った、そのフラストレーションが溢れ出るような迫力のスカルボ。
スペインの舞踏。
あらゆる場所にスカルボは突如として現れる。
そう、詩と同じように。
そして、2度目、スカルボがまた消えたかと思えば現れるその瞬間。
いつもならば唐突に音が消えるその時の弾き方が、出だしとは全く違った弾き方で登場した時、あまりにも私は愕然とした。
同じように息を殺し、またも無音の時間がやってくる、突如として消えてしまうスカルボを見逃さないようにしなければ、見失わないようにしなければ、と身構える我々を嘲笑うかのように、ピタリと止まるのではなく、少しだけ余韻が残った。
不意に見た御仁の顔が、少し微笑んでいる錯覚さえした。
今日はなんだか余裕が感じられると思っていたが、まさかこんなことをしてくるなんて…
まさにスカルボにしてやられてしまったような気分だった。
そうして、じわじわとまたこちらへ這い寄ってくる。再び我々の眼前で大きくなるスカルボ。
目の前で展開するこの曲が、我々を翻弄する。
これでは本当に、ホフマンの引用そのものではないか。
「彼は寝台の下、暖炉の中、櫃の中を見た。
─誰もいない。奴が何処から入り、何処から出たのか解らなかった」(夜のガスパール 作者の草稿より抜粋したる断章よりスカルボ 訳:及川茂)
惑わし続ける魅惑の音楽。
その質感をそのままに、またスカルボは唐突にすっと消えていった。

終わった瞬間、今まで聴いたどの夜のガスパールよりも素晴らしすぎて、拍手し始めた勢いのまま、立ち上がってしまいそうだった。
結局、膝の上にあった上着とプログラムに気がついて、我に帰り、立ち上がることはなかったが、目の前がチカチカした。
それは夜のガスパールの詩集を読んだ感触そのままだった。
八ヶ岳へ向かう道すがら、先日公開されたPodcastを聴いた。彼の理想は音で思考することであると。この日、この曲から得た感触はそういうことだったのであろうか。
演奏をしない私には解らない感覚のはずで、一種の思い込みかもしれない。
今となってはあの冒頭2回の同音でのトレモロとその直後の静寂、中盤での冒頭回帰時の弾き方の違いは、私の錯覚、幻聴だったかもしれない。
ただ確実に翻弄された。スカルボに弄ばれるように。
これが2日目前半なのだから恐れ入る。
少し時を遡ると、昼の間、山道を散歩していて軽く迷子になり(なるな)、気がつけば音楽堂のすぐそばまでやってきていた。
その時に聴こえてきたピアノの音は執拗に1つの音を調律していたし、同じ箇所を何度も繰り返し繰り返し練習していた。
それが夜のガスパールだった。
何か気に入らない場所があったのか、理想とする音の探究だったのか解らないけれど、この日の夜のガスパールは何かに"憑かれた"ように、異様な仕上がりを見せていた。
ただ単に、見えないものを見ようとするオタクの狂気の思い込みかもしれないけれど………(大いにあり得る…)

休憩を挟み、後半。
前半がそんな感じで、すっかり魔に魅入られた状態で、あまり抜け出すこともできなかったので、記憶が曖昧………(おいこらポンコツ)
なので、軽く話そう。
シューベルトに倣った「高雅で感傷的なワルツ」
前日よりさらに自由度を増したワルツ。
ラヴェルは限定的なルールの中で作曲するのが得意な作曲家とも言えた。調べた書籍類によると、編曲作品などのスピードはかなり速かったという。
シューベルトが描いた高貴なワルツをベースに、ラヴェルらしい洗練された都会的な響き。
前日よりより精度の高く、自由自在な御仁の音楽は、そのワルツを弾きこなす。
ラグジュアリーな雰囲気と共に、変奏されたワルツは幕を閉じる。
やっぱりここでも、極めて繊細かつふわりとした弱音は、あまりにも香り立つように洗練されていた。

そして最終曲「クープランの墓」へ
ラヴェル最後のピアノ独奏曲。作曲に着手しはじめるころ、第一次世界大戦がはじまる。
この時期のラヴェルを紐解いてみると、様々な方法で従軍を試み、幾度かの落選を経て従軍し、そして凄惨な光景を実際に目にしたようだ。
軍隊生活により健康状態が悪化したラヴェルは、療養のため帰休する。そうしてクープランの墓は作曲を再開される。
亡くなった友人たちに献呈された曲たち。
実は、鏡の次に再生回数の多い曲なのだけれど、この曲は従軍する前から書かれていて、追悼の意味合いはそこまでないのではないかという向きもあるようだが、やはり、亡き友人たちに向けての思い出話のような雰囲気を感じてしまう。ラヴェルその人の優しい人間性が滲み出ているように感じるのだ。
そして、それを奏でる御仁は、同じく心優しく、穏やかな人物であって、その組み合わせがとかく、耳に優しく響く気がする。
そしてこの日も…
幾分日の傾いた暖かな背景を背に始まるプレリュード。この日の御仁の奏でるクープランの墓は、あまりにも暖かだった。
ただ、幸せだった。
クープランの墓の中で1番好きなのは2曲目フーガ、次いで5曲目のメヌエット。
細かな様子を記載できないことが申し訳ないが、その日、前日から続く、技巧的で、その緻密に構成された名人芸的な要素、芸術というものの完成度の高い、緊迫感ある曲が並ぶものの最後にあるこの曲が、ひどく、緊張から解き放ち、安らぎをくれた気がした。
優しい光の中で、偲ぶ優しさが溢れているような錯覚。
そのあまりに優しい時間が幸せだった。
目の前に座る静かなピアニストの中にある、ある種の超然的にも思えるほどの緻密さ、その研鑽に向けられる眼差しの鋭さに身が震えるように感じる時があるけれど、本質を突き詰めた時、この人の核になるものは、やっぱりこのどれも蔑ろにできない優しさなのだろうと思ってしまう。
それが、そのどこまでも丁寧に紡がれる音楽にあるような気がしてしまう。
思い込み、
錯覚、
都合のいい解釈、
そうかもしれない。
けれど、こういう曲を弾く時の、彼の周りに浮かぶ何かに、そう思わずにはいられなくなる。
本当に、この演奏を聴きながら感じている、言葉では何も表すことのできない感覚をダイレクトに伝える術があってくれたらよかった。
不意に周りもただ静かに耳を傾けていることに気がつく。(実際にはお子さんもいらしたし、全員では当然なかったけれど)
誰もが、ただ目の前にあるその音楽に、もしかしたら、誰もがこの追悼の歌に対して、何かを思い偲んでいる時間だったかもしれない。
そうだったら、自然に囲まれた比較的小さなこの場所は、どの世界よりも優しい世界かもしれない。
他の人はどう思っていただろう。
曲は進み、5曲目のメヌエット。
その優しい音楽、いつだったか、御仁はこの曲を夢のように美しい音楽だと言っていた。
今日。この景色の中でこの曲を聴けてよかった。
そう思った。
心から。
きっと、私はこの時ですらも魔に魅入られたままだったんだろう。
出会ってからずっと、この人の宿す"魔"に魅入られたままだ。
それはどんなものよりも優しく、柔らかで、鋭く、磨かれ、知らぬ魔を宿している。
そうして美しく綴じられたメヌエットを抜けて、最後、幾分華々しいトッカータで幕を閉じる。

終われば万雷の拍手に、スタンディングオベーション。前日は後ろが見えなかったからわからないが、この日はブラボーまで飛び出す。
あまりに幸せな時間すぎて、少し私は呆けたままだった。
この日もアンコールは2曲。
先日雑誌に弾き方についての記事を出していた「ボロディン風に」
そして、ラスト、自ら編曲した楽譜を携え戻ってきた御仁が奏でたのは、マ・メール・ロワより「妖精の園」だった。
楽譜が見えた瞬間、すでに私は泣き始めていた。
まったく、今日は泣かずに済むと思っていたのに…
昨年の夏、サントリーホールで行われたリサイタルで、私は初めてこの御仁が編曲したら妖精の園を聴くことができた。
なかなかタイミングが合わなくて、ずっと聴けなくて、ようやく聴けたことが嬉しかった。
その日のサイン会で初めて聴けたことを伝えた時、「そんなに弾いてませんでしたか?そしたらもっと弾きます」と答えてくれた。
そののちに、また弾いてくれてうれしかったのを覚えている。
その時のことを、この御仁が覚えているとは思わないし、たまたまだったのだろうが、約束を覚えていてくれたみたいで嬉しかった。
編曲版のこれも録音してほしいな………………
結局は己の欲が深すぎる私である。
この日奏でられた妖精の園も美しかった。
妖精は、いつも人間を魅了し、妖精の世界へ連れて行ってしまうのだという。
もしかしたら、この御仁も、妖精の部類なのかもしれない。
いやいや人でないと困るけれどね。

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というわけで、八ヶ岳編でした!!!
いつものことながら長々お付き合いいただきありがとうございました!
凄すぎました…………
もう本当に「鏡」が……………………………………………
(お前本当にいつもそればっかだな)
そういえば、先にXでも書いたけれど、2日目のサイン会で、あまりにもその日の夜のガスパールが凄すぎて、しみじみと、まるで詩そのものを読んでいるような気分ですごかったです。とお伝えしたところ、「詩……そのものを思い浮かべている余裕はないですが、詩のことは頭にあります」そう答えておられました。
いや…あれは本当に不思議な感覚でした。
もしまだベルトランの詩をお読みでない方は青空文庫に、日本語訳があったと思うので、一度読んでみてほしいです。
あんまりおすすめできるような感じの詩ではないのですが、ほら………雰囲気とか大事ではないですか……………………(なんの話だよ)

さて、7月、まず1度目のオールラヴェルのプログラムが終了しましたが、なんと月末には全曲演奏会が!!!!!!!!!また鏡が!!!!しかも2日間も!!!!聴けます!!!!!!!!!!!!
(そこに喜んでるのはお前だけだ)

とりあえず八ヶ岳からちゃんと帰ってきてよかったですね。ハイ。
また聴けます(まだ言う)

それにしても、今回は事件の多いリサイタルでした………………楽しかったなぁ……
山が好きなわたくしとしては、大変充実した2日間でして、リサイタルの時間以外はほぼ山道を歩き回っておりました。
おかげで筋肉痛………アデデ…………(貧弱)

お散歩
きらきらの小川
音楽堂への道

途中迷子になって、意図せず音楽堂付近に到着した時には、調律の音や、練習してあるであろう音なども聴けたりしたのも棚ぼたで楽しかったですね。
それにしても、本当に同じ音を執拗に調律していたのはやはり金属音が気になったのか、それとも指に何かしら影響するかりだったのか、気になるところです。
そして繰り返し繰り返し同じところを練習していたのも、難しいからなのか、まだ理想とする音に辿り着いていないからなのか……………まだピアノ上手くなるらしいので、今後が楽しみですね……
まだ…上手くなるんだぁ…………………どこまで行くのでしょう。
でも音楽家って本当に終わりなき道をいく人たちですよね。

さて、次は月末7/24・25浜離宮ホールまでお預けです!
ラヴェルづくしにしていきたいと思います!
楽しみだなぁ…