竹達香守庵綴り ことかの章 香りのないクラスメイト 第6話(全6話)
1階の店舗とは正反対の位置にある一室に到着すると、透明な強化ガラスの扉が2人を迎えた。
「ここが香草室?」
琴弧は晶の後ろで両肩を掴み、身を屈めながらきょろきょろしている。きらびやかな花屋とは似ても似つかない研究室のような空間に面食らった表情を浮かべていた。
「そう。ここには魂香草しかないんだ。お化けは出ないから安心して。」
扉の前に立つと厳重に書かれた『火気厳禁!』のステッカーに背筋が伸びる。中に入ると、6畳ほどの温室を電球がほのかな灯りで照らしていた。室内には金属製の網目棚が並び、棚板の一段一段に見たこともない香草のビニールポットが種類ごとに育成されている。どの香草も広い棚板に対して数個ずつしか置かれていない。その間隔から香草の価値を感じ取れる。室内はしっかり温度管理されていてやさしく温かい。
「魂香草には複数の種類があるんだけど、音無さんへのプレゼントはこれ。」
晶は一鉢を手に取って琴弧に見せた。
「これは言香草って言うんだ。ちょっと香りを確かめてみて。」
そう言われて右から、左から、はたまた上から顔を近づけて香りを確かめてみた琴弧は不思議そうな表情を浮かべた。
「…特に香りを感じないけど…それに…まだ蕾?」
「そう、魂香草は全部蕾なんだ。だけど摘むと同時に花が咲く。言香草はね、摘んだ人の心にある『記憶』と『伝えることができなかった想い』を香りとして浮かび上がらせる。そして香りを感じた僕の中に音無さんの感情が響いてくるって寸法なんだ。」
「晶くんが私の香りを?…何だか凄く恥ずかしいし…怖い。」
「自分の香りを知られるって意識すると複雑な心境になるよね。でも、その人が日常的にまとってる匂いとは違う。身体の芯から出てくる人間性とも言える香り。それを言香草を媒介にして僕も感じることで、音無さんの想いに直に触れることができる。それは香りに敏感な僕にしかできないことなんだ。」
初めて男子の家に来て楽しい時間を過ごした後に、香草室でのクライマックス。隠して来た汚濁を自分に見せろと急に言われて、琴弧は戸惑いの表情を浮かべた。
「きっと音無さんが抱えている大きな問題はこれだけで解決できるほど簡単なものじゃないと思う。だけどこれからは一人じゃない。僕がついてる。もう抑え込む必要はないんだ。」
晶の言葉に背中を押された様子の琴弧は、震えた手を言香草へと伸ばした。
「この蕾を摘むんだよね…。」
「うん。摘むことは奪うことじゃない、本当はね…決断するってこと。」
「決断…する…。」
覚悟を決めた表情で大きく息を吸い込み、摘んだ。
蕾は発光しながら急速に成長を遂げ花開いた。春の柔らかい陽射しをたっぷりと受けた花畑に漂う、優しくふんわりとした落ち着きのある香りが広がった次の瞬間、それを貫くように酷く尖った香りが鼻を刺した。
鼻腔を塞がれてパニックになり、呼吸が途切れになった晶の意識の中に、本当の琴弧が流れ込む。
『私は琴弧って言うんだ。よろしくね。』
『何かさアイツ、調子のってるし、ムカつくし汚くね?』
『男に媚び売ってそうじゃん』
『アイツ、親が離婚して転校してきたらしいよ。』
『なぁ、お前って先生と付き合ってるんだろ?俺たちとも付き合えよ。』
『ねぇ、琴弧が学校でイジメられてるらしいの』
『そうか…まぁでも俺の子供じゃないしなぁ…』
『また女の匂い…もういい加減にしてよ』
『隠してたの?本当のお父さんじゃないってどういうこと…?』
『離婚するって本当なの?』
『ねぇ、高校に入ったら新しいバッグが欲しいな。』
『ごめんね、今はお母さんのお下がりを使って。ちゃんと保管してたから、外見は綺麗よ。』
『これから私はどうなるんだろう…友達もいない…いっそもう…』
『竹達晶くんか…私と違ってみんなに好かれて羨ましい…』
『確かに竹達くんは不思議な魅力がある…』
『私もあんなふうになれたらな…私はもう戻れないのかな…』
過去に琴弧に投げつけられた罵詈雑言と、今の琴弧ではどうすることもできない家庭環境のしがらみの中で、耳に入ってくるかわしようのない無数の槍が、晶の脳内にも言葉として流れ込んできた。温度管理が完璧な香草室で、あまりのおぞましさに晶の背筋は凍り、膝をつき、嘔吐した。
二人を苦しませる尖った香りがなくなった頃、優しく甘い香りが広がり晶を包み込んだ。
尖った香りを感じたのはほんの少しの時間だった。しかし二人にはとても長い時間に感じられたのだろう、琴弧もしゃがみこんで震えていた。
晶も琴弧も静かに泣いた。
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「はい、カモミールティー。」
「…ありがとう。」
あの後、ふらふらと立ち上がった晶は琴弧を抱きかかえて何とか自室に戻ってきた。晶はあまりのストレスにやつれた顔をしている。
「まだちょっと心が落ち着かないね。でも音無さんは何だか雰囲気が変わった。潜香も漂ってる。ほんわかとして、周りを温めてくれるようなすごく優しい香り。」
本人にもわからない潜香を言葉にされた琴弧は、前髪をいじりながら顔を赤くした。
「今日、勇気を出してくれた音無さんを僕が守って行くよ。以前の音無さんに戻れるように一緒に考えていこう。」
「…うん。」
晶の素直で前向きな言葉に顔を赤くした琴弧は、目を逸らして呟く。
「家に帰ることが憂鬱な時もあったけれど、少し希望が持てそう。自慢できない過去を知られることに抵抗があったけど、受け入れてくれて救われた気持ちがする。決断したのは私だけじゃなくて、晶くんもだったんだね。」
琴弧の優しい言葉に、今度は晶が顔を紅潮させて照れ笑いした。
「実は私ね、いつもの眼鏡は伊達で、前は髪も結っていなかったの。」
「そうだったの?じゃあ今日は本当の音無さんだね。」
「うん、自分を抑え込むために外見から変えたの。オシャレに興味がないわけじゃなかったんだけど、勇気が出なくて。」
「それなら、これからオシャレしようよ。あと、行きたいところにも行って高校生らしいことをいっぱいしよう。」
「うん、ありがとう。その時は晶くんも一緒ね。」
琴弧は憑き物が落ちたように可愛い笑顔を見せた。
「もう晶くんの前では簡単に隠し事ができなくなっちゃったな。」
「僕は鋭いよ。なんせ音無さんが香文学部に入部したがっていることもわかってるんだから。」
「晶くんには…私の文才が必要かもね。」
冗談交じりの会話に2人の笑い声が響いた。
まだ琴弧の根本的な問題を解決できていない。だが解決に向かうための勇気を見せた琴弧と、自分の最大限の力で解決の糸口を見つけた晶は、昨日初めて会話をしたとは思えないほど距離が縮まっていた。
琴弧と話して安らいだ晶が急に立つ。
「僕は香りを読み解いて音無さんに伝えます。音無さんは、僕の直感的な言葉を解きほぐして綴っていってください。」
「わかりました。部長。」
新入部員はかしこまって二つ返事をした。
「今日の香文学部の課外活動はこれにて終了です。音無さんからも一言お願いします。」
晶は引き続き部長モードだ。巻き込まれるように本日の締めくくりを任された琴弧は、少し恥ずかしそうな表情を浮かべ、決心して声を出す。
「その…音無って言いにくいでしょ。遠慮しないで琴弧って呼んで。」
琴弧の言葉に虚を突かれた晶は、目を丸くしてぽかんと口を開けたまま固まった。琴弧の潜香の中に甘酸っぱい香りを感じながら。
