映画『国宝』と2人の死の理由ー少女漫画と少年漫画のハイブリッドとして
映画『国宝』の興行収入が100億突破というニュースで盛り上がっている。めでたい!!! この映画がなぜヒットしているのかについてはいろんなマーケティング的分析があると思うので(というかたくさん分析されてほしい)そちらに任せる。が、個人的にこの映画の面白さ、というか興味深さ、異様さ、私にとって引っかかる魅力のひとつには「少年漫画文法と少女漫画文法の融合」というものがある。今日は少しそこについて書いてみたい。
といっても、2025年にもなって少年漫画と少女漫画をどれだけ区別する意味があるのか、と言われそうではある。しかし私はそこには明確に差異があると思っている。それは、
師匠(父)が死ぬのは少年漫画、
相方(ライバル)が死ぬのは少女漫画、
という区分である。……初めて聞いたぞと思われるでしょう。そらそうだ。私が勝手につくったからだ。いやしかし既に誰か言ってそうな話である(すみませんその場合は私が知らないだけです)。 つまり、少年漫画における成長譚と、少女漫画における成長譚のもっとも大きな差異はここにある、と私は考えているのだ。
たとえばワンピース、ヒカルの碁、MAJOR、ってあげてくとどんどんネタバレしていきそうなのでやめておくが、少年漫画において師、つまり乗り越えるべき父は、いなくなることが多い。それこそが息子の成長の証であるからだ。父が必要なくなるんだね、ウッウッ。いろんな少年漫画を思い出して泣けてきます。
しかし少女漫画は違う。これまたネタバレになるので大きな声では言えないが、たとえば少年漫画にフォーマットが近そうな、バレエ漫画『アラベスク』や『テレプシコーラ』も、『NANA』も、はては某アメリカを舞台にした名作漫画(これだけでわかる人にはわかるはずである)も、どれも主人公の目の前からいなくなるのは相方ーーバディの片割れである。少女漫画とは父を乗り越えるものではなく相方の亡霊を背負って生きるものだからだ……というとさすがに言い過ぎだが。しかし少女漫画的な「運命の他者」を探す物語フォーマットにおいて「いなくなってしまった他者」とはどこかで結婚ハッピーエンドを邪魔しないままで運命の相方の存在を可能にするひとつの方法なのかもしれない。まあ『エースをねらえ!』や『ベルサイユのばら』みたいにがっつり恋人が死んでしまう場合もありますが。でもどちらもバディ的関係ではある。
しかし少年漫画において相方は死なない。死ぬのは師匠なのだ。
そこで考えるのは、『国宝』の作劇の発明である。
※ここからネタバレあります!!!!
そう、『国宝』は少年漫画をやってから少女漫画に移行しているんですね!!!
父が死ぬところから物語は始まる。めくるめく少年漫画の始まり。MAJORでありワンピースである。しかし主人公にとって本当の父、つまり師は他にいた。歌舞伎の父。彼もまたーー物語の作劇上、死ぬことになる。
そこで登場するのはいなくなったはずの相方! ほら、少年漫画パートにおいて彼は死んではならないのである。ちゃんと戻ってくるのだ。そして父が死んでからはじめてふたりの少女漫画パートが始まる。
喜久雄は、俊介という相方の亡霊をーー死んだ魂を背負って踊る。『アラベスク』も『テレプシコーラ』も思い出す作劇である。うーん『NANA』だぜと思った方も多いのではないか??
『国宝』にはふたりの死が必要だった。この作品は少年漫画であり少女漫画であるからだ。だからこそ男女共に見やすい作品になっているのでは? なんて思う。
ちなみにこのフォーマットについて考えていくと、面白いのは『【推しの子】』と『ガラスの仮面』である。
以下ネタバレなので有料。ネタバレあります。
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