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掌編小説/天使

 おまえにそんな顔ができるなんて思わなかった。神妙な顔をしているくせに、その目は笑いを堪えている。無表情であることを免罪符のように貫いていたおまえが、いまはめまぐるしく表情を変えている。その目は驚愕だったり、わたしのことを憐んでいたり、懐かしむようなときもあったが、最終的には嘲笑いに到達する。
 首を吊った天使の屍体を、血に飢えた絞め殺しの木が取り込もうとしている。最初は一羽だった。死の匂いを嗅ぎつけたカラスが自分の手柄を自慢するような哭き声を発した。その姿は見えなかったが、地上に露出した木の根に旋回する影が見えた。
 この関係を終わらせるには、どちらかが死ぬしかなかった。人間だったおまえを、わたしが愛したことからはじまった。おまえがわたしの子を孕むこともあったし、わたしがおまえの種を宿すこともあった。元のおまえは年老いて死に、やがて土に帰すが、生まれた子がまたおまえになる。その幾千年におよぶ繰り返しのなかで、おまえは死にたいと呟くようになった。死ぬと死ぬといつか死ぬと口では言いながら、しかし、おまえは死ななかった。たとえ死んだとしても、次のおまえがすでに生まれている。
 集まったカラスたちは、わたしの目玉を突き、喉を裂き、破れた腹から臓物を引きずり出した。背中には猛禽類を思わせる大きな翼がある。その翼も毟られ、空中を飛散する羽根の向こうで、おまえはわたしが禁じていたハンバーガーを食べている。現世のおまえは線の細い男だ。緑色の虹彩と赤く弾けそうな涙袋はわたしの遺伝だろう。おまえは二口、三口と食べすすめ、噛んだ断面を不思議そうに見つめ、ニッ、と子どもがするように歯を剥き出しにして笑う。真実だけを教えてくれ。おまえは一瞬でもわたしを愛したことがあったのか?
 おまえは永遠を怖れるようになった。それがたとえ、おまえが望んだ愛だとしても。
 それが虚無だよ、とわたしは諭すことがあった。わたしたちは虚無を滅ぼすために地上に遣わされた。度重なる戦争があり、虚無は夜の闇へと逃げ延びた。心配はいらない。いまもわたしの兄弟が戦っているのだから。
 垂れ下がるように俯くことしかできない視界には、わずかなおこぼれを期待したネズミたちが待っていた。ネズミたちは土に濡れ、いつも痩せこけていた。どうせなら彼らの胃袋におさまりたいと願ったが、カラスの威嚇する羽ばたきが聞こえ、そのうちの何匹かは獰猛な爪によって傷つけられた。
 おまえはあたかも手元が滑ったように見せかけて、食べかけのハンバーガーを地面に落とす。ネズミたちが飛びつき、毛の生えた塊が密集する。おまえが立ち去ると、薬瓶のなかで孤独を嗜むような沈黙がおとずれた。
 わたしは鳥の糞となった。わたしの痕跡は世界各地の電柱の下に存在する。
 いまのおまえは中東の少女だ。巻き毛になった黒い髪に緑色の目をしている。町はずれには瓦礫の山があって、両親からは禁じられているが、ときおり思いがけないものが見つかる。ここには以前、スーパーマーケットが建っていて、それ以前は何もない砂漠だった。ある日、倒壊した壁の下に生えるユリの花を見つける。そのユリがわたしの養分から生まれた新種であることをおまえは知らない。
 わたしの存在は浮遊する思念になって、だれかの夢に迷い込むことがあるが、それが何かしらの影響を及ぼすことはない。
 いまのおまえはニューヨークに住む青年だ。石造りの古い図書館で、量子力学についての論文をまとめようとしている。窓の外には雪が降っている。おまえの祖国は雪の降らない中東だが、祖父母が移住を決めた。おまえは祖父母からその日のことを——いつ終わると知れない夜のドライブや、長い船旅のことを聞かされて育った。おまえは分厚い研究書で顔を隠して、この図書館で働く司書を盗み見ている。彼女はとても愛らしい。
 しかし次第にわたしの視界は白く霞がかり、おまえの姿が見えなくなる。おまえのなかに存在するわたしの遺伝が、少しずつ薄まっているせいかもしれない。大きな戦争があったと聞く。
 そのころにはわたしは頭蓋骨だけの存在になって、絞め殺しの木のうろに抱かれている。そうしてわたしの思念は飛翔し、あの夜、わたしが首を吊ったあの夜に戻ってくるのだ。
 カラスたちが執念深くわたしの器官を食い荒らし、おまえはハンバーガーを食べている。わたしが欲したのは、たったひとつの言葉だ。しかし、おまえはついに言葉を発しなかった。ハンバーガーを食べながら薄ら笑いを浮かべて、残酷なイメージをその表層だけ眺めておもしろがっているような目をしている。やはり死ぬべきはおまえだったのかもしれない。
 いまはそのあとだ。ハンバーガーを捨てて、おまえが立ち去ったあと。
 わたしの周囲の暗闇には、ずらりと天使たちがならんでいる。わたしと同様、首を吊った天使たちだ。青白く頭蓋骨と脊髄だけの存在になって、空洞と化した眼窩でわたしを見つめている。そしてわたしも、からっぽになった眼窩で見つめ返す。
 いまのおまえがどこにいるのかわからない。アパートのベッドに横たわり、昨夜の乱暴な性交のせいで隠部がひりついている。床にはノイズ音楽のアルバム、どこかで拾ってきたようなエドワード・ホッパーの画集。おまえはタンクトップ一枚という姿で、陰部をいたわるようにガニ股で歩き、ベランダに出てから煙草を吸う。夕闇の空に天使が見える。天使は傷つき、自分で羽ばたくというよりは何かに吊られるようだ。昨夜のドラッグがまだ効いているのかもしれないと思う。

(了)


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