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私にとってのマンスリーサポーターキャンペーン


昨日からマンスリーサポーターキャンペーンが始まった。

クラウドファンディングやマンスリーサポーターキャンペーンを始めてから、もう3年以上経っていると思う。キャンペーンの回数も今回で4回目になる。

こうして、クラウドファンディングのキャンペーンをやったからこそ、マンスリーサポーターが増えたり、私たちの活動に関心を持ってくれる人が増えたりした。
それは確実な成果だと思う。
「ファンドレイジング」という言葉をここ数年少しずつ私は学んできた。
そして、私たちの「ファンドレイジング」はどのような形がベストなのかを今も試行錯誤している。


ファンドレイジング(Fundraising)とは、NPOなどの非営利団体や大学・研究機関などが、その活動や理念を実現するために必要な資金を、個人や企業、行政などから集める活動(資金調達)のことです。

モノやサービスを販売して対価を得るビジネス、
行政や大企業に代わって委託して社会課題を解決する仕事をすること

それが一般的に予測できる仕事の形だと思う。
だけど私たちの「しごと」はそこには当てはまらないと気づいた。
私たちのファンドレイジングは、資金集めである前に仲間集めであるということ。
私たちの世界観を「いいな」と共感してくれる人を探すことなんだと気づいた。

私の15年以上の活動の中で

私は長年、「活動をやらなければならない」「自分が価値のある人間だと証明しなければ生きている意味がない」という思いを抱えながら、多分市民活動に向き合ってきた。
例えば中学、高校生の時、大半の人は部活動や勉強、人によっては友だちとあそぶことなどに夢中になって取り組むと思うが、
私には、理不尽な校則や環境、社会の課題が目に飛び込んできて、自分のための活動に集中することができなかった。
ピアノを弾いたり、歌ったりが好きな私は、合唱部や吹奏楽部に入って、充実した日々を送ることもできただろうが、でも学校や社会の理不尽さを見て見ぬふりをして、部活に打ち込むことができなかった。
だから、生徒会活動や地域活動に明け暮れた。
今もそれは同じだ。
それは、自分の変な特性でもあるし、みんなみたいにできない本当に生きづらい部分だ。

個人的な自己肯定感の低さから活動してきた部分は、正直かなりある。

15〜16年の活動の中で、自分のだめなところや自分のやばいところを正当化し続けながら、みんなを巻き込んで活動してきたと言っても過言ではない。
みんなに生きるのを手伝ってもらったが、きっとみんなも私の利用できる部分を利用して、幸せになってくれたと思うから、自分が生きていて申し訳なかったと思うのはやめようかなと思っている今日この頃だ。
15年でかかわってくれた人は、団体に所属してくれた人だけでも130名くらいになると思うし、外部から関わってくれた人は何千、何万になるだろうから、私に関わってくれて、本当にありがとうの感謝の気持ちだ。

時を経て自分と向き合う中で

40歳を過ぎてからは、自分と向き合う日々を、あの手この手で学びながら続けてきた。生き方も環境もどんどん変わった。(今44歳)

そして最近になってようやく、自分はまったく価値がないわけではなく、社会の一員として、この世界に生きる一つの生き物として存在していてもいいんじゃないか。

そんな認識が、ほんの少しだけ育ってきた。それは、言い換えると他の人のように自分が良い思いをしたり、楽しいことをしてもいいということでもある。この世界は私を責めてこない。私は役に立っていても、役に立っていなくてもいい。自分のやりたいことをのびのびとしたら、それでいい。そんな感覚が少しずつ育ってきた。

私自身は、どう考えても今でも社会的にはほぼ価値がないと思っている。

だけど先日、山崎OKコンピュータさんの『お金信仰さようなら』読んで、さらに著者のの価値観をイベントで生の声で聴いたこともあって、
社会の物差しを「お金」を主軸にしたところから少しシフトチェンジしてみてみると、自分ももしかしたら生きていていいんじゃないかと思えたりもする。
そんなパワーをくれる本や著者に時々出会うと、混とんとした世界の中で、キラッと光るダイヤモンドを見つけたような気持ちになって、生きててよかったと思う。

また、価値観を変えれば、自分が生きることに特別な意味なんてなくてもいいのかもしれない。

NHKの『ダーウィンが来た!』(生き物のドキュメンタリー)とかを見ていてもそう思う。

ライオンやさまざまな動物たちの生態を見ていると、ただ生きるために生きることの素晴らしさを目の当たりにする。
「生きていることに意味なんてなくていいんだ」って、
心からライオンに感謝の気持ちになる。
カンブリア宮殿やガイヤの夜明けを見ると、いつも自分のできてなさに落ちこみ、無価値感の沼に陥ってしまう私だけど、動物を見ると安心した気持ちになる。
それが、生きる価値観をシフトチェンジするということだと思う。
何を自分は大事と思っているか、迷わないように「地図」を持つことは大事だ。


そんな感じで、私が苦しみの中で見つけ出したアイデアやヒントを、私のように苦しむ人がいたら提案できることはできるんじゃないかと思っている。

キャンペーンをする意味

それでも私は法人化した団体の活動を続け、キャンペーンをする。

なぜだろう。

たぶん私は、本当に生きづらくて苦しくて、どの道を進めばいいのか、どういう呼吸をしながら生活すればいいのか、毎日迷宮の中にいるからだと思う。どうやっても、ライオンみたいに「そのまま」の命を生ききることができない。だからその苦しさを言語化したい。誰かにも少しでもそのかけらを分かってもらいたい。私が明日も呼吸するために活動し、さらに仲間を増やすためにキャンペーンをしているのだと思う。

枠組みに収まらない私たちの活動

私は福祉の作業や福祉の仕事をしているつもりではない。もちろんビジネスをしているわけではない。
だから、なかなか普通の社会の言語が話せず、理解してもらえないことが多い。
「それって何のための活動なの?」
「それって、何が中心なの?」
という質問は多くいただく。

私は例えば、シングルの人や障害がある人、マイノリティの人だけを助けることが、本当に苦しい人を助けることになるのだろうか。と、常々疑問に思っている。それは、キャンペーン本文にも記載してある「ぬくぬくリボン」の活動にも通ずるものがある。


お金があれば幸せになれるわけではない。
パートナーや子どもがいれば幸せになれるわけでもない。
立場があれば報われるわけでもない。
楽しいことやおいしいものを食べれば幸せになるわけでもない。

もちろん、上記に書いたことで、十分満たされる人もいるだろう。でも、それでは生きるのに足りない人は確実にいる。それは私だ。
「足るを知らない」ひどい人間だとも言い換えることはできる。
貧困や障害に悩む人からは、お金に困らず障害のない私に、幸せと思えと強要されるかもしれない。
貧困や障害の人の苦しさを否定するわけではない。
もちろん、置かれた環境がこうだから、みんな苦しいとか、みんな幸せとか、そういうことは一切ないと思う。

ただ、私の感じてきた感情にも蓋をしたくない。
私はずっとずっと、目に見えない「安心感」や「大丈夫」を全く感じられない人生を歩んできたことは事実だ。安心感やただそこにあるだけの愛情に枯渇している人間だということは自分ではわかってきた。

一人ひとり感じ方も違うし、必要なものも違う。

だけど私は、どこの場に行っても、自分が欲しいと思うものにたどり着かない。だからこそ、「私が私でいい」「あなたがあなたでいい」と思える場所を心から作りたい。
私が、他者である「あなた」を否定してしまうときは、必ずその1億倍くらい自分を否定しているときだ。
自分のそのままが許せないから、他者のありのままも許すことができない。
ワナワナと震える握りこぶしを、パッと開いて、私は私でいいと安心することがそんな時は重要だ。

一般的な場所(職場や学校)でも大丈夫な人が大半だと思う。

だけど、ここじゃないとだめだと言ってくれる人が、もしかしたらいるかもしれない。それが今、私のすぐそばにいる法人メンバーファミリーであり、よく参加してくれる人、ボランティアに来てくれる人、寄付をしてくださる方々だ。
そのために、ここにしかない世界を作りたい。その世界をどうやって言語化しようかと、私は日々模索している。

キャンペーンは、中学生で言えば定期テストのようなものなのかもしれない。この二週間、いつも考えていること、いつもがんばっていることを、しっかり言語化し、皆さんに届ける。寄付につながるかどうかは、一番重要なことじゃない。自分たちが「いい」と思うことを、周りにしっかり発信していきたい。
ただ、キャンペーンをすることで自分が苦しい思いをすることは避けたい。

連絡をしたり発信をしたりすると、どうしても反応が返ってくる。その反応は、自分が思いもしないものだったり、ときには悲しくなってしまうものだったりもする。でも、それはキャンペーンの性質上、普通のことだと思う。

その代わりに、思いもしなかった人からエンパワメントされるような激励が届いたり、共感が届いたりもする。それが本当にうれしい。それもまた、キャンペーンの一部なのだと思う。

だけど私自身が、そのことで傷ついたり疲弊したりする必要はない。

私たちはビジネスをしているわけではない。お金儲けをしているわけでもない。

【自分らしくありたい。みんなで助け合いたい。】

そういう世界を少しでも広げるために、自分たちができる「ちょっとだけ」を集める作業をしているだけなのだ。

無意味なようだけど意味のあるループ

私は生きることが苦しいから活動をし、キャンペーンをし、誰かに働きかけている。もし私が苦しくなくなったら、この活動もなくなるし、誰かに語りかけることもなくなるのかもしれない。

日々暮らしていく中で出会った人の話や、見聞きするニュースの中で、

「本当にこれでいいのか」

「これはどういうことなんだろう」

「もっと知りたい」

「本当はどういう意味だったんだろう」

そんな問いを常に抱えている。

そして、みんなで対話することによって、小さなコミュニティも大きな社会も、一歩ずつ変わっていくのではないかと思っている。

だから私は、ある程度生きづらい状態で、ある程度楽しい感じで、ある程度頑張る感じで、自分を大事にしていきたい。

ある専門家の方から聞いたことがある。私のような人は、社会にうまく適応できず、疾患や障害を認定され、福祉の力を使いながら生きている人の中に多いという。

そうか、私と同じような人、やっぱりいるんだなって、会いたいなって思う。福祉の力を使わなくても、病名や障害名をつけなくても、生きていく方法もあるよって、伝わったらいいな。
私は、不十分だけれど、私なりに生きる世界を作っている。

それはそれで、自分を評価してあげたいなと思う。
キャンペーンを楽しみながら2週間過ごそうと思う。
アクションを起こしたからこそ出会える人と出会えることが楽しみで仕方ない。
https://syncable.biz/campaign/9764


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