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【短編小説】父ちゃんのベンチ

 「はっ、はっ、はっ……」

 朝靄重く垂れ込める白い世界。鳥の囀りに混じって、軽やかな足音とリズミカルな息遣いが小さく響く。分厚い水蒸気のカーテンの中を、少年が駆け抜けていく。

 海人は、息を弾ませながら視界数メートルの芝の上を走っていた。幼い頃から慣れ親しんだ自宅近くにある自然公園。外からのむせかえる湿気と、内から湧き出した汗の混じった水分を顔に滴らせ、自ら設定したゴールへと、脚を運び続けていく。

 陽光が勢いを増し靄を薄めていく。天上に梅雨明けしたばかりの空が蒼さを深め、大地の緑を濃く映し出す。その先にゴールが見えた。海人は風を背に受けるイメージを頭に浮かべスピードを上げていく。力は込めない。フォームを保ったまま。ただ、風に押されて気持ち良く。
 目線をゴールの少し先にある樹木に定め、そこまで走り切る……ゴールの場所に、頭の中で描いたテープをトップスピードで通り越してから、背中を押す風のイメージを消していく。
 そのままスピードを緩めて百メートルくらい走り、身体を返してジョグで戻る。

 ーーチッ

 思わず舌打ちが出た。海人がゴールとしたのは、園内のクロスカントリーコース脇に設置されたベンチ。いつも、飲み物やタオルを置いていた。そこに、他人の荷物が置いてある。
 海人はそれを見ないように、クールダウンを始めた。


 ーーハァッ、ハァッ

 急速に存在を消しつつあるカーテンの向こう側から、荒い息遣いが迫ってくる。黒いシルエットが映り、次第に大きくなっていく。そして、盛大な息遣いと共に湿気を含んだ熱風が舞いカーテンを霧消すると、その実体が現れた。

 褐色の肌に、金属の色で染め上げ短く巻いた頭髪。大和民族ではない風貌の彼は、ベンチ前の見えないゴールテープを、荒々しい息で「フォーッ」と奇声を上げながら駆け抜けた。

 「オァーッ、ワラー、ワラー」

 彼はベンチに駆け寄り、ボトルを手に取ると、ごっくんごっくん喉を鳴らし、あっという間に中身を空にする。そして、海人の存在に気づくと、「オウ、モーニンッ!」と、ギョロっと大きな目を見開いて声を掛けてきた。

 ーーお、おはよう

 ダウンを終えた海人は、口の中で呟く。気詰まりを感じて、すぐにベンチを後にした。

 翌朝もベンチに同じ荷物があった。海人は眉根を寄せて呟く。

 ーー他人が気安く使うんじゃねぇよ

 このベンチは、海人の父親が遺贈したものだった。


 走り始めたのは父親の影響だった。学生時代はアスリートとして活躍した父は、海人が生まれても市民ランナーとして各地の大会で走っていた。
 必ず上位でゴールし、時にトップでテープを切る父の姿に憧れ、一緒にこの自然公園でトレーニングを始める。見る見る走力が上がっていく。そして、小学校の最終学年には、校内マラソン大会の自他共に認める優勝候補に成り上がっていた。

 しかし、その年の夏休み、父はトレーニングを休みがちになる。涼しくなる頃には、トレーニングよりも病院に通い、秋が深まる頃、父は病院で寝起きしていた。
 そして、海人が中学生になった日、公園のクロスカントリーコースの脇に、父の名が刻まれたベンチが設置された。
 「父ちゃんから、ここにベンチ作ってくれって頼まれたんだ」と、入学式の帰り道、一緒にベンチに座った母が、微かに湿り気を帯びた声で、遠くを見つめながら語った。


 水分をたっぷり含んだ熱風で靄を払いながら、前日の彼が影から浮かび上がってきた。我が物顔でベンチにどっかりと座り、ボトルを空けると「ユー、昨日もいたな、名前は?」とギョロ目で聞いてくる。
 勢いに負けて名乗ると、彼は変な英語と日本語が混じった言葉で自己紹介らしき言葉を吐く。

 「……アイム、え〜っとぉ、あっ、ポール……ポール=マッカー…いんや、まっくドナルド!」

 ポールと名乗る彼は、口の端をニャッと歪め、握手を求めてきた。
 それから毎朝ポールは現れ、日に日に図々しさを増していく。海人の持ち物はベンチの隅に追いやられ、代わりにポールが寝そべって、クールダウンをする海人に馴れ馴れしく話しかけてきた。
 世界各地のレースに出場しながら、旅を続けている。数週間後、この公園をスタート&ゴールとするトレイルランのレースに出場するためこの街に来たとのこと。

 ……そういえば、そんなレースあったか

 海人が中学生の頃、ボランティアで駆り出されたことを思い出す。高校入学以降は、同時期にインターハイがあったため、完全に意識から消えていた。

 ……いいな、お気楽に走れて

 胸が波打つのを感じた。


 数日後のダウン中、海人は目を伏せて盛大に息を吐いた。ランニングシューズの底に鉛板を仕込まれたかのような感覚。前日の部活、インターハイ前最後のポイント練習で感じたイヤな重さを引きずっている。

 ……いつものやつか

 身体はキレている。少し前まで同じランニングシューズの底にはバネが仕込まれていた。けれども、いつも肝心なレースの直前になると、バネが鉛に変わる。昨年、一昨年前のインターハイ、中学総体や駅伝、そして、小学校最後の校内マラソン……。

 ……また、アレを言われる

 『予選番長』。
 中学で本格的に競技を始め、これまで常に世代ランカーを維持してきた海人につけられたあだ名。練習や記録会、予選では圧倒的に速いのに、決勝では必ず垂れてしまう。
 海人にはゴールテープを切った経験が無い。どんな小さな大会でも、校内のマラソン大会ですら。


 もわっとした熱い空気が吹き抜け、靄の中からポールが現れた。いつものようにテンション高く騒ぎ立てながら。

 「ハイ、カイトゥ、今日も暗いな、どうした?」

 大量の水を身体に流し込み、声をかけてくる。

 「……別に」

 「……ベツミ?……ワッツ、ミーン?」

 ……めんどくせぇ

 再び大きなため息をついて、海人はゆっくりと声を発した。


 「OK!OK!よーするにぃ、カイトゥはレースで勝ちたいんだな?」

 ギョロ目を最大に開き、耳から耳まで口を広げてポールは言った。

 「マイ・マザーカントリーのお祈りを教えよう……
OK?……胸に手を当てて…大きく息を吐いて……」

 ……やっぱり、コイツに話したのが間違いだった

 三たび目を吐く。しかし、その息は少し軽くなっていた。海人の口元に微かに笑みが浮かんでいる。

 「……はいはい、そんな単純じゃねえから」

 「ワッツ?イッツ、シンプル!ランニング、『好きなこと』、頑張ってきた、勝ちたい、けど、プレシュアに負けそう、だから勝つお祈りする!」

 ……出たよ『好きなこと』

 高校進学時、推薦の話を断り地元の公立高校へ決めた時、周囲から言われた言葉。そして今、大学進学でも、あちこちから言われ続けている言葉。

 「……別に、好きじゃねえし」

 「また、『ベツミ』……、『好きじゃない』?……、わかんない、クレイジー」

 頭を抱える。
 そして、向き直り真顔で問うてくる。

 「じゃあ海人、お前は何のために走ってるんだ?」

 ……なんでコイツにそれを言われる?

 海人の胸に火が灯った。
 構わず続けるポール。

 「……まさか、亡くなった父親のためにとか、言うんじゃないだろうな?」

 ……は?なんでそこまで、てか、何で知ってる?

 「……このベンチで、海人を見守る父親のためとか」

 ……なんでお前が?なんでお前ごときに?

 「いいか、海人、お前のお父さんは……」

  「言うな!!」

 顔に血をのぼらせて、海人は叫んだ。

 「おい!そこは父ちゃんのベンチだ!偉そうにふんぞり返ってんじゃねえ!どけ!」

 ポールを睨みつける瞳から光の筋が走り、頬を流れ落ちていく。ポールは目を伏せ、黙って席を空けた。

 「お前こそいいか!父ちゃんは生きてる!」

 ……は?俺、何言っちゃってんの?

 「小学校のマラソン大会で俺は負けた!父ちゃんとの約束果たせなかった!だから父ちゃんは、まだ生きてる!父ちゃんは、俺が勝つまでずっと見続けてるんだ!」

 ……何それ?意味わかんねえ

 海人は頭を抱える。胸と口が別の言葉をしゃべっている。ああぁぁ……口から咆哮が放たれ、膝が崩れ落ちる。そして、ベンチに顔を突っ伏した。父ちゃん……父ちゃん……と呟きを漏らしながら。
 やがて、咆哮と呟きは止み、規則正しい呼気と吸気の交換に移行していく。

 ポールはその様子を見守り、やがて周囲にかかった靄の方へ歩を進めた。

 「……悪かったな海人、負けるなよ」

 と、その背中に言葉を残し、唇を固く結んで。


 “下り坂を降りて……さあ、五区最後の直線路に入った。先頭はC大の長居海人”
 “登りでは、ふもとの中継所で二位と二分以上あった差を、スーパーエース『山の肉食獣』吉野に一気に詰められ、追い抜かれ、一時は一分近く離されましたが、ラスト五キロの下り坂で猛然と追い上げて、再度抜き返し、今、吉野に……約三十秒の差をつけています”
 “長居は言いました、「僕は同じC大の選手だった父の影響で長距離を始めました。一緒にトレーニングを積んで、小学校のマラソン大会で優勝すると約束したんです。六年生の頃、マラソン大会直前に父は亡くなり、約束したマラソン大会の優勝も果たせなかった……父にゴールテープを切る姿を見せたくて、陸上を始めたんです」と。
 「中学、高校と優勝出来ず『予選番長』と呼ばれました。最後のインターハイも二位でした。けど、この時はとても楽しく走れた。自分は走るのが好きなんだ、と初めて感じました。けど、それだけに負けて悔しかった……次こそは勝ちたいと思って大学でも競技を続けることにしました。この駅伝では絶対に勝ちたい、走るのが好きだから。そして、ついでに父の墓前にもいい報告が出来たら最高です!」と”

 “長居君、『勝ち』にこだわった冷静なレース運びでしたね。学生ナンバーワンの吉野君には敵わないと見て、敢えて登り区間は我慢して脚を貯め、得意の下りで一気に勝負に出たんでしょう”

 “長居海人。天国のお父さんと二人三脚で鍛えた脚で坂を駆け下り、二人三脚で母校をXX年振りの往路優勝へ導こうとしています!長居海人が今……C大の応援団の前を笑顔で駆け抜けましたっ!溢れる笑顔ですっ!
 お父さんと二人三脚のゴールまで、二人三脚の往路優勝まで、あと残り二百メートル!”


 ーーチッ

 ーーテレビ屋共め、すぐ話をお涙頂戴にしやがる。勝手にヒトを背後霊にしやがって……
 ーーあいつの顔ちゃんと見ろよ、あれがユーレイ背負ってる顔に見えんのか?

 ーーそうだ、海人、いい顔してる。カッコいいぜ、走りに、勝ちに飢えた顔だ
 ーーさあ、その角を右に折れたら、ゴールだ!お前が欲しくてしょうがなかったテープが張られてるぜ!

 ーーポーズは考えたか?カッコよく決めろよ!テープの向こう、仲間の所まで疾走り切れ!


 カメラが長い直線路を白いユニフォームに身を包んで走るトップランナーを迎える。後方、遥か遠くに後続の選手が見える。笑顔のトップランナーが、交差点を右に折れていく。 
 カメラが切り替わる。ゴールからトップランナーを捉えた。左手を天高く突き上げる。表情が崩壊している。けれども、湿り気ない湖畔の澄んだ空気のような笑顔。
 突き上げた手を戻し、フォームを直す。残り数十メートル。余計な力を込めず背中に風を受けて。美しいフォームで風と一緒にテープを切り、疾走り抜けた。
 そして、そのスピードを維持したまま、澄んだ笑顔のまま、仲間達へ駆け込んでいった。


 正月二日の自然公園。芝生に人気はまばら。クロスカントリーコースの脇のベンチに座り、スマホの画面を食い入るように見る中年男性の姿。大音量で駅伝中継を流している。
 優勝チームの歓喜の映像を見て鼻を啜り、手の甲で目を拭う。

 ーーよくやった、海人!ついに勝ったな!

 立ち上がり、スマホを尻ポケットに押し込む。
さて、行くかと呟き、周囲に垂れ込め始めた靄へと歩き出した。          
                       (完)

ーあとがきー
 海外では公園や遊歩道に、ベンチなどを遺贈する習慣があるという話を何かで読んで着想を得ました。完全に創作の小説です。
 娘の大学の陸上部が、昨日開催された予選会を通過し、秋から始まる学生三大駅伝の内、二つに出場権を得ました。みんな必死で頑張ってました。おめでとう!お疲れ様でした!

ーーRyo Natsumi

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