【ミッドナイト・イン・ラフトレード】第1話「試聴機のノイズ」
雨は三十分前に上がったはずなのに、街はまだ濡れたままだった。アスファルトの黒さが一段深く見えて、ネオンの反射だけが妙に親切に足元を照らしている。
こういう夜はたいてい、まっすぐ帰る気がなくなる。帰ったところで洗い物と返信していないメールが待っているだけで、どちらも今の自分にふさわしい罰ではあるが、わざわざ受けに行くほど殊勝でもなかった。
LATE CITY RECORDSは、そんな夜にちょうどいい高さにある。地上から少しだけ浮いていて、でも特別な場所ぶってはいない。タイ料理屋の脇の急な階段を上がると、踊り場の壁に湿気で少し波打ったフライヤーが貼ってあって、その横に黒いマジックで「試聴だけでもどうぞ」と書いた紙がある。どうぞ、の字だけ梶谷さんにしては少し丸い。たぶん燈子が書いた。
ドアを開けると、The Cureの“Just Like Heaven”が、店の奥のスピーカーから控えめに流れていた。控えめなのに、やけに人の昔を勝手に照らす曲だな、と毎回思う。ちょうどそういう音量でかかっているのが腹立たしくも正しい。
「こんばんは」
レジにいた燈子が、顔を上げずに言った。
髪をひとつに結んで、古いJoy DivisionのTシャツに黒いカーディガン。いかにも、ではないのに、他の誰が着てもただの古着に見えるものが、彼女だとちゃんと意味を持って見える。
「こんばんは。雨の日、だいたいThe Cureかけてない?」
「雨の日にThe Cureで文句ある人、たぶんこの店来ないでしょ」
「偏りが商売の邪魔をしてる」
「偏りで成立してる店に何言ってるんですか」
それはそうだった。
LATE CITY RECORDSは、品揃えより先に偏見がある店だ。入口近くの新譜棚には、今週入ったThe 1975のアナログ再入荷と、Alvvaysの限定盤、それから誰が買うんだかわからない英国のパワーポップ再発が同じ顔で並んでいる。手書きPOPには一言ずつしか書いていないのに、そこには値札よりよほど店の思想が出る。
「The 1975/器用すぎるのに、器用なだけで終わらない時がある」
「Alvvays/可愛いで済ませると罰が当たる」
「The Keys(再発)/こういうのが一番、人をだめにする」
だめにする、という言い回しを梶谷さんはよく使う。褒めている時しか使わない。
店の奥では、梶谷さんが中古棚の背表紙を揃えていた。五十を越えてから痩せた人特有の、少し骨の目立つ手つきで、盤を一本ずつ抜いては戻している。整えているのか、撫でているのか、たまに見ていてわからなくなる。
「透くん、今日、ちゃんと買う日?」
「見るだけで帰るとき、俺そんなに悪い顔してます?」
「してる。サブスクで一回聴いて、やっぱいいなって顔」
「最悪だな」
「でも今の時代、そっちが普通だよ」
そう言って梶谷さんは、棚からTeenage Fanclubを一枚抜いた。『Songs From Northern Britain』。角が少しだけ擦れた国内盤。
たぶん、売る気がない時の持ち方だと思った。
「これ、最近また若い子が買うんですよ」と燈子が言った。
「ほんとにわかって買ってるのか、ジャケで買ってるのかは知らないけど」
「入り口なんて何でもいいだろ」と梶谷さんが言う。
「ジャケでも、失恋でも、古着屋で流れてたでも」
「でも、TikTokで一回切り取られたやつが入口って、ちょっと嫌じゃないですか」
「嫌って言ってるうちは年取った証拠」
燈子が鼻で笑う。その笑い方は、相手を刺すようでいて、ほんの少し自分も刺している。
僕は新譜棚の前に立ったまま、値札の小さな白を眺めた。レコードを買う理由なんて、本当はだいたい後付けだ。聴きたいから、持っていたいから、並べたいから、何かが終わった記念だから、誰かに勧められたから、たまたま今の自分にちょうどいいと思ったから。
でも、この店で買う理由だけは少し違う。ここで買うと、その盤の来歴に梶谷さんや燈子の偏りが混ざる。アルゴリズムじゃなく、人間の勝手な選び方が上乗せされる。その分、外れた時は腹が立つし、当たった時は妙に悔しい。
試聴機の前にいた若い男が、ヘッドホンを外した。二十代前半くらい。細身のコートに、きれいすぎるスニーカー。表情だけが少し眠そうで、服ほど完成していない。
「これ、思ったよりポップですね」と彼は言った。
手に持っていたのはPhoenixの『Wolfgang Amadeus Phoenix』だった。
「Phoenixに対して“思ったより”って言うの、どういう予想だったの」と僕はつい聞いた。
男は少しだけ笑って、
「もっと洒落てて冷たいかと思ってました。なんか、ちゃんと人に聴かせる気がある」
燈子が顔を上げた。
「それ、かなり褒めてる」
「褒めてます。The 1975好きなんですけど、たまに全部できすぎてて、こっちが入る隙ない時あるじゃないですか」
「若いのに嫌なこと言うね」と僕は言った。
「若いからじゃないですか」
「ミナト」と燈子が言った。
「この人、最近よく来る。こないだBlurのベストとParamoreを一緒に買ってった」
「入口が渋滞してるね」
「渋滞してる方が楽しいですよ。一本道って、だいたい宗教になるから」
ミナトはそう言ってPhoenixを棚に戻し、隣のThe Libertinesを抜いた。その手つきが少し雑で、でも盤に慣れていないわけではなく、つまり“最近ハマった人”の速度だった。
「The Libertinesって、今聴くとどうです?」と彼が訊いた。
僕より先に梶谷さんが答える。
「悪い男友達に夜中呼び出される感じ」
「褒めてるんですか、それ」
「かなり」
「じゃあ試す価値あるな」
店のドアが開いた。ベルの安っぽい音がして、外の湿った空気が少しだけ入る。入ってきたのが誰か見なくても、先に店の温度が一段変わる時がある。
そういう人間は多くない。片岡直哉は、その少ない方に入る。
「うわ、混んでる」
第一声がそれで、次に「狭い店って、混んでるとそれだけで正しく見えるよな」と続けた。
黒いジャケット、白いTシャツ、濡れた髪を適当に手で撫でつけたみたいな顔。疲れている時ほど目が冴えて見えるタイプだ。たぶん今日も仕事帰りで、その仕事がろくでもなかったことだけは、入って三秒でわかった。
「その言い方、客を什器みたいに言ってますよ」と燈子。
「什器より金落とさない客もいるだろ」
「自己紹介?」
「今日は買うよ」
「じゃあ歓迎します」
片岡は僕を見つけて、軽く顎を上げた。
「いた。よかった。おまえに見せたいものある」
「その言い方、だいたい面倒な案件」
「面倒じゃない案件なんて、今の時代ある?」
彼がそう言うと、たいてい正しい。
片岡は大手レコード会社のA&Rで、会うたびに痩せたり戻ったりしていた。忙しい時期とそうでない時期が体型じゃなくて目の下に出る人で、今は明らかに忙しい顔をしている。けれど本当にしんどい案件の時ほど、逆に言葉数が増える。自分の疲れを、自分のテンポで押し流すために。
「何飲む?」と僕が訊くと、
「まだ店だろ。酒で始めるな」と片岡は言いながら、新譜棚の前で立ち止まった。
The 1975の盤を見て、
「こいつら、うますぎて腹立つ時あるよな」
と独り言みたいに言う。
ミナトがすぐ反応した。
「わかります。でも、その腹立ちも込みで見たくなるの、ずるいです」
片岡が初めてミナトを見る。数秒だけ値踏みする顔をして、それから薄く笑った。
「いいこと言うじゃん。誰?」
「最近の客です」と燈子。
「たぶん、こっち側になりかけてる」
「かわいそうに」と片岡。
「救済みたいに言わないでくださいよ」
「いや、好きな音楽増えるって、だいたい人生には不利だから」
その場にいた四人のうち、誰も反論しなかった。そういう時、会話は少しだけ本音に近づく。
片岡は中古棚をざっと見てから、なぜかWeezerの青盤を手に取った。
「これまだあるんだ」
「この店、Weezerの青だけはなくならない」と僕が言う。
「みんな一回通るけど、二枚目三枚目ほど繰り返し買わないからでしょ」と燈子。
「いや、青盤は実家みたいなもんだから」と片岡。
「困った時に帰る場所があるって確認して、また別のとこ住むんだよ」
「ちょっといい言い方するのやめてください。売りたくなるから」
「売れよ」
梶谷さんがその会話を聞きながら、急に奥から声を出した。
「片岡くん、あれどうなったの。春に出るって言ってたインディーバンドのやつ」
「ああ、飛びました」
「飛んだの」
「正確には、飛ばしました」
「最悪」
「最悪なのは認めるけど、あれは飛ばないで出した方が事故ってた」
片岡はそう言って、少しだけ肩を回した。仕事の話を“事故る”で済ませる人間の、大半は本当はちゃんと傷ついている。傷ついていないやつは、もっと雑な言葉を使う。
「でも」と片岡が言った。
「その代わりって言うと語弊あるけど、久しぶりに気になるのがいる」
店の空気がわずかに変わった。
梶谷さんが棚から手を離し、燈子がレジの電卓を打つふりをやめる。僕も自然にそちらを見る。
片岡が“気になる”と言う時は、だいたい半分以上、すでに好きになっている。ただ、それを素直に認めると自分の判断が鈍ると思っているから、少し低く見積もる言い方をする。
「どんなの」と僕が聞く。
「雑に言うと、Oasisの悪いところを継いでないやつ」
「褒めてるのか、それ」
「かなり褒めてる。で、Arctic Monkeys以降の賢さを、ちゃんと嫌ってる感じもある」
「難しいこと言うなあ」とミナト。
「難しくないよ」と片岡は即答した。
「最近多いんだよ。正解を知ったあとにバンド始めたみたいなやつ。あれはあれで優秀だけど、最初からゴール前の顔してる」
燈子がレジから言う。
「じゃあ、その気になる人たちは、ゴール見えてないんですか」
「見えてない。たぶん、見えてないくせに、大きいとこ行けると思ってる」
「一番いい時期ですね」
「だから危ないんだよ」
片岡はポケットからスマホを出しかけて、やめた。店で動画を見せ始めると長くなるとわかっている顔だった。
「今度、打ち合わせついでにライブ来いよ」と彼は僕に言った。
「というか、たぶん書く案件にもなる」
「俺、今そんなに音楽書いてないけど」
「知ってる。だから言ってる」
その言い方が少しだけ引っかかった。昔ならともかく、今の僕に“だから言ってる”と言われる筋合いがあるのかどうか、すぐにはわからなかった。
「写真、誰なんですか」と燈子が訊く。
彼女はそういう時だけ、仕事の匂いに敏い。
片岡は一瞬だけ黙った。ほんの短い沈黙だったのに、その場の誰もが何かを測る時間になった。
「まだ仮だけど」と前置きして、
「久世理子」
その名前を聞いた瞬間、店のBGMがちょうど曲の切れ目に入った。The Cureが終わって、ほんの一秒だけ無音があった。その一秒が、やけに長く聞こえた。
燈子は何も知らない顔で、
「へえ。強いですね」
と言った。
ミナトは当然知らない名前だったらしく、
「有名な人ですか」
と素直に訊いた。
片岡は答える前に僕を見た。見なくていいのに、見た。そういう余計な気遣いを、たまにする。
「写真家」と僕は先に言った。
「ちゃんと人を追い詰めるタイプの」
「褒めてます?」とミナト。
「かなり」
言いながら、自分の声が少しだけ乾いているのがわかった。
理子とは、もう二年以上ちゃんと会っていない。別れた、という言葉で整理するには最初から関係の輪郭が曖昧だった。付き合っていた時期もあるし、なかったとも言える。友達より近く、恋人より説明しにくい。そういう関係はだいたい、どちらかが大人になったふりをした時に終わる。たいてい、ふりをした方があとで少しだけ苦しむ。
「透くん?」と燈子が言った。
「顔、わかりやすい」
「何も出してないけど」
「出てますよ。昔のインタビュー音源、急に見つけた時みたいな顔」
「最悪のたとえやめて」
片岡が笑った。
「じゃあ、なおさら来いよ。案件抜きで面白いから」
「案件抜きって言いながら、絶対案件じゃん」
「そりゃそうだろ。俺、仕事以外で人を誘うの下手なんだから」
それはたぶん本当だった。片岡は人と会うのはうまいのに、会いたいから会う、があまりできない。だいたい何かの目的に人を乗せて、その途中でようやく素の会話をする。職業病なのか性格なのか、本人にも区別がついていない気がする。
梶谷さんが不意に、カウンターの下から封筒を出した。見慣れない白い封筒で、店名の横に赤字の判子が押してある。
「そういえば」と梶谷さんは言った。
「更新の紙、来た」
燈子が少しだけ眉を寄せた。
「もう?」
「もう」
片岡が表情を変える。さっきまでの仕事の顔とは違う、もっと現実的な顔だ。数字と条件と締切を瞬時に読む顔。
「上がるんですか」
「上がる。けっこう」
「どれくらい」
梶谷さんは一拍置いて、言った。その金額は、店内の空気に対して少し大きすぎた。
ミナトが「え」と小さく漏らし、僕も何も言えなかった。
その額は、閉店を即決するほどではないが、今の売上のままでは、見ないふりもできない数字だった。
「冗談みたいな上げ方ですね」と燈子が言った。
声は落ち着いていたけれど、指先でレジ台を一回だけ叩いた。
「冗談じゃないから困る」と梶谷さん。
「たぶん、この辺まとめて何かしたいんだろ」
片岡は封筒を受け取って中をざっと見た。
「猶予、短いな」
「向こうは店じゃなくて面積見てるからな」
店じゃなくて面積。
ここにある会話も、偏見も、試聴機の左だけ少し小さい音も、棚の手書きPOPも、雨の日にThe Cureがかかることも、全部まとめて“面積”にされる。
「まあ、まだ決まったわけじゃないし」と梶谷さんは言った。
言い方が軽すぎて、逆にまずかった。本当に軽い時、人はそんなふうに言わない。
燈子は何も言わず、代わりにThe Cureの次にかける盤を探しに行った。彼女がこういう時に選ぶのは、慰める音楽じゃない。余計に現実が見える音楽だ。針が落ちて流れ出したのは、The Smithsだった。
「最悪」と僕が言う。
「こういう時のThe Smiths、効くでしょ」と燈子。
「効きすぎる」
片岡が封筒を返しながら、ぼそっと言った。
「何か考えましょう」
梶谷さんは笑った。
「そういうの、一番危ない言葉だよ。何か考えよう、ってだいたい何も決まってないから」
「決まってないですよ」と片岡。
「でも、決めるのはこれからでしょ」
僕はPhoenixを一枚と、なぜかFountains of Wayneの中古を持ってレジに行った。今の気分ならPhoenixだけでよかったはずなのに、Fountains of Wayneを足したのは、たぶん保険だった。皮肉や洗練だけでは夜を越せない時に、ああいうソングライターの優しさが必要になる。
「いい組み合わせですね」とミナトが言う。
「デート行く前と、デート終わったあとみたい」
「その分け方、最悪だな」
「でもわかるでしょ」
わかってしまうのが悔しい。
会計の時、燈子が袋に入れながら、小さい声で言った。
「たぶん、今度ちょっと面倒になります」
「どっちの話」と僕は訊いた。
「店も、人も」
「まとめるなよ」
「まとめた方が現実っぽいから」
片岡はその横で、スマホを見て眉をひそめていた。仕事の連絡だろうと思ったが、すぐに僕の方へ画面を少しだけ傾けた。
ライブハウスの暗いステージ写真。まだ若い男がマイクを握っている。ピントは完全じゃないのに、顔だけが妙に残る写真だった。
「こいつ」と片岡が言う。
「たぶん、面白くなる」
画面の下に、小さくクレジットがあった。
Photo by Riko Kuze
その瞬間、The Smithsのギターがやけに近く聞こえた。
店の中の誰も大声を出していないのに、何かがもう始まりかけている音がした。
