「惰性の板挟み役」が地震後すぐに決意した帰郷/一般社団法人NOTOMORI業務執行理事・笹谷将貴さん【能登の遺伝子】
能登の遺伝子――それは、「能登らしさ」をつくるもの。脈々と受け継がれてきた過去の記録と未来への設計図。この地で生まれ育った人だけでなく、能登に関わるすべての人によって紡がれていく。
ーーー
「この地震、レベルが違う。死ぬかも」
輪島市中心部の実家で2024年の正月を迎えていた笹谷将貴(一般社団法人NOTOMORI業務執行理事)は、けたたましい緊急地震速報を聞くや否や、表へ飛び出した。
目の前で大きなビルが倒れる。
「あれが倒れたんなら、全部が倒れる。逃げないと」。ふと辺りを見回す。しかし、誰もいない。人影のない街で、地面がうねり、建物が音を立てて崩れていく。
「まるで映画のワンシーンのようだった」
揺れが落ち着くと、近所の人が屋外へ出てきた。ほんの数分間で変わり果ててしまった故郷。その光景を見ながら、笹谷は家族にケガがなかったことを「幸運だった」と、ただただ噛みしめていた。
当時、笹谷は東京で働き、川崎市に自宅があった。4日の朝、知人の力を借りて能登を離れ、金沢市を経由して川崎市に帰った。極度の緊張状態から解放され、いざ日常生活に戻る。すると、脱力感にさいなまれて「何もする気が起きなかった」。
だから、同僚から「しばらくゆっくりして」と温かい言葉を掛けられても、ほとんど休まずに出社した。仕事に打ち込むことで、自分を取り戻し、保とうとしたという。
将来の夢は公務員
輪島に生まれた笹谷は、高校卒業までを地元で過ごした。中学校に進んだ頃から、漠然と「将来は公務員になるんだろうな」と考えていたらしい。
もっとも「行政マンとして、とにかく社会に貢献するんだ!」というような熱量からではない。どちらかというと「なりたい職業って言われても、別にないからなあ……」という消去法的な答えだった。
高校に入って大学進学を意識しだした頃、世間では「IPS細胞」がもてはやされていた。そこで、笹谷は生物や生命科学に関するバイオ系の勉強をしようと京都大学農学部に進んだ。
大学進学後は幼少期から続けていたバスケットボールに汗を流し、祇園のラウンジで黒服のアルバイトも経験。「大学生活は、めっちゃ楽しかった」
ただ、勉強に関しては誤算があった。研究では実験の対象をセットし、かき混ぜて、それが沈殿するのを待って……やたらと待ち時間が長かった。周囲の学生たちは器用に順応しているものの「せっかちな自分には合わなかった。挫折ですね」。
映画会社へ

こうして、笹谷は大学院への進学ではなく、文系就職に人生の舵を切った。もともとエンタメが好きだったことから映画会社や出版社を中心に採用試験を受け、結果として老舗映画会社の「東映」に入ることになる。
東映では教育映画を担当した。教育映画というのは、小学校や自動車学校に向けたVTRのことだ。
そういえば、先日、筆者が運転免許センターで見た映像も、東映が制作していた。“翌朝早くに自宅から現場へ向かうため、特別に社用車で帰宅するサラリーマン。帰宅前に行った取引先との会食で、勧められた酒を断り切れずに飲んでしまう。その帰り道、飲酒運転中に何かに当たった気がしたものの、そのまま自宅へ。翌日、テレビを見ていると、前日に通った道でひき逃げ事件が発生したと報じられていた。おそるおそる社用車のタイヤを確認すると……”という引き込まれるストーリーで、教科書的なビデオ教材というよりはテレビドラマ仕立てだった。
こうしたドラマを作る現場には、監督や俳優、美術スタッフ、脚本家など、たくさんの人が関わっている。笹谷はそうした多種多様な関係者の間の調整役だった。それを、本人は「板挟み役」と表現していて「それ以後、今までずっと板挟み役をやっている」と苦笑する。
一般的なイメージの通り、映画や出版、マスコミといったメディア業界は毎日の拘束時間が長い。もちろん、ずっと忙しいわけではなく、アイドルタイムのような待機時間も少なくない。
「当時の自分は未熟で『やらされている』意識、お客様気分が抜けていなかった。それまで惰性で生きていた自分だけど、せっかく働くんだから、もっとバリューを出したいと考えていた」
「100倍学べた」転職先
転職を決意した笹谷が次のフィールドとして選んだのは、ITベンチャーだった。
ほぼ全ての国民が知っているだろう大きな映画会社から、創業間もない社員数人のIT企業への転身。新天地で感じたのは「ぐっちゃぐちゃ」ということだった。
野球に例えれば、仕組みや環境が整った歴史ある大きな会社では、メンバー個々の役割が細分化されているため、抑えのピッチャーがいきなり外野手として駆り出されることは少ない。ところが、ベンチャーでは社員が代わる代わる登板してピッチャーをやり、ときに内野を守り、ときに外野に回る。
「何だったらボール拾いも、みんなでやる。そうしているうち、前職の100倍いろいろなことを学べた気がする」
いろんなことがあった。社外では委託先が潰れたり、詐欺まがいの事態に遭ったりした。社内では部下の不満が次々と噴出していた。笹谷は相変わらず方々から板挟みになっているわけだが、今度はどこか腑に落ちたところがあったそうだ。
「不満があるというのは、何かしらチャレンジしている裏返し。誰もが完璧ではないし、むしろ、ぐっちゃぐちゃなのが自然な形なんだと納得した」
地震後3カ月弱で石川県へ

迎えた2024年元日の能登半島地震は、笹谷にとって大きな転機となった。年始早々から目撃した悲惨な光景は、平穏な関東で生活を再開した笹谷の心をザワつかせ続けた。
「能登へ戻り、復興の力になりたい」
そんな想いが日増しに募る。しかし、妻と子がいる手前、ぐっと胸の内に抑え込んでいた。
そんな折、読んでいた本に、こんなことが書いてあった。
「不安とリスクを分けよ」
笹谷は考えた。余震が続く能登で暮らすのは危険なのではないかという不安。もし帰っても就く仕事がないのではないかという不安……。心配なことはたくさんあった。
一方、リスクは? 能登に戻って仕事がなければ、また東京に来ればいい。甚大な被害を受けた地元のため懸命に動いていた中途人材を、企業は無下にするだろうか? いや、むしろ行動力を買って雇いたいと思うはず。しかも、あの地震を経験した今、より大きな危険が迫り、それでも何も対処できないという事態は考えにくい。思いのほかリスクは少ないというのが、得られた結論だった。
2月14日、笹谷は妻に「能登へ帰りたい。後悔したくない」と打ち明けた。
もちろん、自身の気持ちは固まっても、家族が理解してくれるかどうかは全く別の話。ひとまず単身で帰郷することも覚悟していたという夫に、妻は言った。
「一緒に行くよ」

笹谷の新たな挑戦の部隊となった能登空港
3月下旬には金沢市内へ引っ越した。地震から3カ月足らずというスピード感である。聞くところによれば、夫が地方移住を持ち掛けても、都市生活に慣れた妻が反対するようなケースは珍しくないらしい。では、笹谷の場合、なぜスムーズに運んだのだろうか。
「1月1日を共有したのは大きかった」。ビルが倒れ、家が崩れ、街を大火事が飲み込んだ。その一部始終を、妻も隣で見ていた。一瞬で失われた日常を取り戻すには、何年かかるのだろう。でも、そんな難局に直面し、傍観せずに当事者として挑む人たちがいて、そこに夫も加わりたいという。妻の心情ははかりかねるが、あの地震の記憶があるからこそ夫の想いの強さが妻に伝わったのだろう。
「……まあ、あとは『日ごろの行い』ですかね……」
さすがは根っからの調整役である。
かくして舞台は能登に移った。笹谷は能登空港に新設された複合施設「NOTOMORI」の責任者として、復興に向けた新たな取り組みと能登で培われてきた風土の狭間で、また東奔西走することになる。
後編はこちらから。
NOTOMORI-のと里山空港仮設飲食店街
〒929-2372
石川県輪島市三井町洲衛10−11−1 のと里山空港第一駐車場内
https://noto-mori.jp/
ライタープロフィール
国分紀芳(くにわけきよし)
1985年、石川県生まれ。慶應義塾大学商学部を卒業して新聞記者に。主に経済を担当し、2022年に独立してSeeds合同会社を設立。父と妻が能登町出身、母が穴水町出身、息子が珠洲市生まれ。
WEBサイト:https://connect-u.biz/
X(旧Twitter): https://x.com/kunikiyo
この記事の発信は一般社団法人能登復興ネットワークが行っています。
当団体は、能登が能登らしく復興するために「つたえる・つなげる・ささえる」を軸に活動しています。
Webサイト:https://nrn-iyasaka.net/
Instagram:@noto.iyasaka
Facebook:noto.iyasaka
