なぜ人は住む場所や学歴でマウントをとるのか?脳科学が明かす「差別」の正体
他人の学歴が気になったり、住んでいる地域で無意識にマウントをとったり(あるいは、とられたなと感じたり)したことはありませんか?
「私の住んでいるエリアはランクが高いから」
「あそこの出身の人はちょっと……」
「自分より低い学歴の人とは話が合わない」
もし、自分の中にそんな意識が少しでもあるとしたら……厳しいようですが、それは「脳の抽象度が下がり、一時的にIQが著しく低下している状態」と言えます。
なぜ、他者を見下すことが「IQの低さ」に直結してしまうのか? 現代の脳科学の視点と、お釈迦様が説いた本質的な考え方を交えながら、その理由をひも解いていきます。
全国を巡って見えた「地域差別」の違和感
私はこれまでに転勤族として、福岡、大阪(南部・北部)、名古屋、仙台、神戸など、日本の様々な地域に住んできました。
※自身の出身地を聞かれた際は、長く住んでいたことと血筋も含めて福岡出身と答えています。
それぞれの土地に固有の文化や魅力がありましたが、中でも強く違和感を覚えたのが地域の分断や偏見です。
例えば大阪の南部に住んでいた頃、他の地域の人から「柄が悪いところに住んでいるね」と言われることがよくありました。
確かに一部には、お化け屋敷の何十倍も面白くスリルのあるディープなエリアもあります。
しかし、それはほんの一部に過ぎません。
実際に大阪南部にある河内長野や富田林の辺りは、自然豊かな美しい場所でした。

私が今でも女性として最も憧れをもつ気品溢れた茶と英語の先生が住んでいたのも南河内(大阪南部の地域名称)です。
しかし現実には、今でも「大阪の南部へ行ってはいけない」と子供に教えている親はいます。
もちろん、確率的に危険を避けるための「危機管理」として注意を促すのは別問題です。ここで言いたいのは、そうした安全対策の話ではなく、特定の地域に対して歪んだ優位性を持ち、他所を見下そうとする傾向が全国にある、ということです。
実際、私が仙台、名古屋、神戸に住んだ際にも同じような話をよく耳にしました。あからさまに言葉にしなくても、根底にある差別の感情は、思っている以上に相手に伝わってしまうものです。
これはメディアの影響もあるのかもしれませんが、非常に根深い問題です。
日本の仏教が犯した「差別」という最大のバグ
そもそも、日本におけるこうした根強い分断や差別の意識は、江戸時代にお寺(仏教)を通じて大きく広がったという歴史背景があります。
「死」を扱う役割の人々を「穢(けが)れている」と定義し、社会的な階層を作り出したのです。
しかし、これはお釈迦様の教えとは真逆の、完全な「脳のバグ(誤作動)」です。
本来、仏教に「穢れ(けがれ)」という思想は相容れません。
お釈迦様は2600年も前に、生まれや身分による差別を明確に全否定されました。それにもかかわらず、日本の仏教が「差別戒名」などを生み出し、差別の片棒を担いでしまった歴史的罪は極めて重いと言わざるを得ません。
なぜ人間の脳は「優劣」をつけたがるのか?
では、なぜ人はこれほどまでに、時代や場所を超えて「優劣」をつけたがるのでしょうか? 結論から言うと、それは人間の根底にある「生存本能」が原因です。
現代の脳科学と、お釈迦様の心理分析を重ね合わせると、4つの理由が見えてきます。
1. 群れの秩序を保つための本能(認知科学の視点) 人間はもともと、過酷な大自然を生き抜くために集団(群れ)を作ってきた動物です。群れが機能するためには、「誰がリーダーで、自分はどの位置にいるのか」という明確な秩序(序列)が必要でした。そのため、脳には「自分と他人を常に比較する機能」が本能としてプログラミングされたのです。
2. 仏教が説く心の病「慢(まん)」 お釈迦様は、人間が他者を見て「自分より上か、下か、同等か」と瞬時に分類してしまう心の働きを「慢(まん)」と名付け、人間を苦しめる根本的な煩悩の一つとして見抜いていました。
3. 強烈な自己執着「我慢(がまん)」 この比較癖の根っこにあるのが、仏教で言う「我慢(がまん)」です。現代の「耐え忍ぶ」という意味ではなく、本来は「この宇宙で自分が一番大切であり、最優先されるべきだ」という強烈な自己執着を指します。「自分が一番でありたい」というエゴが、常に他者との比較を生み出します。
4. 本能の過剰防衛が引き起こす「生きづらさ」 本来、他者との比較は「学び」や「社会の役割分担」のために必要な機能でした。しかし現代では、その本能が過剰に暴走しています。比較した結果を「自分の存在価値」そのものと勘違いし、SNSなどで一喜一憂する生きづらさが生まれているのです。
他者を見下したくなるのは、性格が悪いからではありません。
過酷な原始時代を生き残るために、人間の脳が進化の過程で身につけた「古い防衛システム」がそのまま作動しているだけなのです。
マウントをとる人の「IQ(抽象度)が低い」本当の理由
しかし、ここで冷静に考えてみてください。 私たちは今、猛獣に襲われる恐怖や、命の危険と隣り合わせの原始時代を生きているでしょうか?
答えはノーです。
生き残るために他者を蹴落とし、群れの序列を確認し合う必要など、今の時代にはもうありません。
物事をより高い視点から俯瞰して捉える能力を「抽象度が高い」と言いますが、抽象度が高い人(=IQが高い人)は、お釈迦様の説いた「縁起(すべてのものは繋がり合って存在している)」を脳で理解しているため、学歴や住む場所といった狭い基準で人を判断しません。
「みんな違って、みんな社会を構成する大切なピースだ」と理解できるからです。
逆に、学歴や地域、ブランドなどでマウントをとる人は、目の前の小さな記号にとらわれ、物事を広い視点で見ることができていません。
つまり、「脳の抽象度が著しく低い(=IQが低い)状態」であり、原始時代の「生存本能」に脳を乗っ取られている状態なのです。
「私はまだ、進化の途中なのだ」という気づき
もし、この記事を読んで「自分の中にも、あの地域や学歴に対する偏見があったかもしれない」と気づいたなら、それは素晴らしい進化の第一歩だと捉えてください。
差別やマウントをしてしまう自分に気づいたら、
「自分の脳は今、原始時代の古い本能に引っ張られているな」
「抽象度が下がって、進化が止まりかけているな」
と思ってください。
現代を生きる私たちが目指すべきは、古い生存本能に振り回される生き方ではなく、抽象度を上げ、お釈迦様の言う「執着(我慢)から自由になった視点」で世界を見ることです。
