今日は、だれかの大切な日
その日、朝から空気がグレーだった。
前の日も、そして、その前の日も雨。
時々止んでは、また降った。
わたしは、薄暗い洗面台の前で歯を磨きながら、部屋に収まりきらない母の服をぼんやりと眺めていた。
あぁ、重たいなぁ。
言葉にできないどんよりが、体にまとわりついていた。
だけど、歯磨きを終え、うがいをしようとしたその時、その重苦しさは、すぐにかき消されたのだ。
正確には、慌ただしさに飲み込まれた。
わたしは最初、
「お漏らししちゃったかも」
と思った。
だけど、一瞬で違うと分かった。
なぜなら止まらないからだ。
体から、何かが出ていく。
流れていく。
破水していた。
なんてことだろう。
慌てて母を呼ぶ。
「お母さん!お母さん!!」
一歩足を動かすごとに出ていく水。
すり足で歩く。
体に衝撃を与えたくない。
体の中心にさっきからずっと意識を集めている。
それなのに、止まってくれない。
どうしよう。
こわい。
29歳のわたしは、自分の体に起こっていること、これから起こることを全力で受け止めようとしていた。
それから入院し、わたしが長男を出産したのは、翌日のことだった。
今日は長男の誕生日である。
もう16年も経つ。
だけど、あの心細さは忘れられない。
忘れっぽいわたしだけど。
あのときほど神様に、
「ありがとうございます」と感謝したことはない。
世の中に、こんなに愛おしい存在があったなんて、わたしは知らなかった。
「生」を一番意識した日だったかもしれない。
あの日、母には母の記憶がある。
父には父の。
そして、夫には夫の。
わたしは里帰り出産を選んだため、夫は立ち会いはしなかった。
だけど、
「生まれた」
その文字をみて、自然と涙が出たそうだ。
人の周りには、そんなかけがえのない日が溢れているんだろう。
何年経っても、鮮明に思い出せる日が。
わたしにとっては、今日。
そして次男が生まれた日も。
わたしの誕生日には、父と母にも忘れられない記憶がある。
毎日だれかの大切な日なんだ。
そう思うと、なんだか、ふわっとその場が明るく見える気がする。
隣に座るおじさんにもそんな日があるのだ。
目の前に立っているあの女の人も。
とくんと心臓が鳴る。
だけど、今日だけは、ただ、伝えたい。
おめでとう。
ありがとう。

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