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どれだけ重いパンチを打たれても、休まず前に進み続けることだ。

東京では三日に一度は雨が降るのに、雨の思い出は数えるほどしかない。

なぜならば、雨だと家にいていいからだ。まさにこの世の真理。許し。だって、せっかく降ったのにもったいないではないか。雨の最大の効能は「外に出なくてもいい」、その一点にあるのだから。
コミュニケーションがかき消された、誰かとつながらなくてもよい時間。雨は孤独を包み、外界との膜を張り、繭のような安心をつくってくれる。

これ幸いにせっせと家に籠り、コーヒーを淹れて映画を観る。本を読んでは音楽を聞き、静かに、遠くまで想像を巡らせる。思い出はまったく増えないが、思い出す情景はどんどん積み重なっていく。
今日こんにちまで三十数年余り。生粋のインドア派として生きてきたから、もはやコンテンツ消費が生態として染み付いているのだ。

心の奥底に蓄える地層。僕だけの閉じた世界。できれば、できるだけ、いつまでもそこに留まっていたい。

でも人生は、そうもいかないらしい。

一度、なにを血迷ったか友人男女4人でバーベキューに行ったことがある。完全に若気の至りでしかない。眩しい光に近づきすぎると、手痛いしっぺ返しを食らう。それはまるでイカロスの翼の如く。まあ、別にイカロスは太陽に憧れていたわけではないけれど、若さってやつは飛び方を知らないらしい。

たしか大学を卒業してすぐ、初夏の昭和記念公園だったと思う。手ぶらでいけるやつで、炭も食材もバーベキュー台も貸し出してくれた。バーベキュー会場に着くと、会場は満席ではないもののチラホラとわいわい楽しそうな雰囲気に満ちている。陽気に誘われた、まさに陽キャ然とした方々がほうぼうに陣取っていた。

さて、どうしよう。

受付を済ませて荷物を受け取る。既に暗雲。初手から勝手がわからない。なんとなく、中腰猫背お邪魔しまーすのテンションでこそこそと会場入りする。バーベキューとは、場所選びからして難易度が高い。陽キャは日の下、迷わず炎天下を選んでおり、まさに太陽のよう。その姿、キラキラと眩しい。ぐはぁー!溶けてしまいそうです。

一方、我らは迷いに迷って絶妙な木陰をチョイスした。結果、なんか暗い。絶妙にほの暗い。やっと火をおこし肉やら野菜やらを焼き始めたものの、なんか木の上から葉くずみたいなのが落ちてきてずっと邪魔だし。あと、バーベキューって串に刺すんだね。そうか、串が必要なんだ。串が。これじゃさながら、どう見てもただのそと焼肉やないかい。
ただただ淡々と焼けていく肉。遠赤外線の無駄遣い。ああ、この陽気がすべてマイナスにしか働いてない。これなら完全に室内で焼いたほうがましである。葉くずチョイ足し。ただ暑いだけです。

「……肉、おいしいッスね!」
「はい」 
「……ッスね……」
「……」

ジュー。肉の焼ける匂いと音だけが漂う、苦痛の時間。葉くず舞い散る中に忘れた記憶と、きみの声が戻ってくる。

「帰りたい」

口に出さずとも伝わる気持ちってある。これこそがみなの総意だった。人には人の乳酸菌。日陰にたたずむかげ4人。生き物には、それぞれ適した生息地があるのだ。ヒュルリーラ。ヒュルリーラ。

「若者には2種類いる。宇宙飛行士と天文学者のどちらかだ」

そう言ったのはジュラシック・パークⅢのアラン・グラント博士だけど、我らは完全に天文学者タイプだった。もしくはツバメだ。なるべく低く飛んで、太陽には近づかないほうがいい。そして雨を降らしてしまう。若気と引き換えに、バーベキューは外から眺めるものであると知った。

小さい頃は、よく喘息ぜんそくで学校を休んでいた。

あらかた家の本も読み尽くしてしまうと、やることがない。咳が出るから、ずっと寝ているのもつらかった。そんなときは、よく映画を観た。ぼーっと眺めていられるのが楽だったのだ。
最初はドラえもんからはじまり、そこからアクション映画や洋画を観るようになった。当時はサブスクなんかなくて、そのうえ離島の田舎だったからTSUTAYAもない。ビデオに録り溜めていた映画を繰り返し観るしかなかったから、新聞のテレビ欄に丸をつけて積んでおく。なかでも、金ローや午後ローのアクションヒーローたちが好きでよく観た。

空撮、雑踏、爆破どーん。
ジョン・マクレーン。イーサン・ハント。サラ・コナー。リッグス&マータフ。インディ・ジョーンズ。タフな主人公たちが敵を倒したり、知恵と勇気を駆使して難局を突破したり。たったの2時間の大冒険で未来を切り拓いていくのが、とにかくカッコよかった。イピカイェー!である。

もしかしたら、それはリベンジ夜更かし症候群に似ていたのかもしれない。自分が思うようにやれないことやできなかったこと、逃したものをテレビのなかの世界に重ねる。アクションヒーローたちに自己を投影して、片っぱしから世界を救う。たぶん、その症状と処方箋は今もあんまり変わっていない。
思えば、この頃からコンテンツの地層を蓄えるクセがはじまっていたのだ。ときどきそこからシーンを取り出し、なんとかこうにか日々を生きてきたわけで。

鎧戸を閉じた部屋。テレビの明滅。映画のエンドロール。ひとりで咳。そこにはずっと、雨が降り続いている。

永田町の雨は、東京の中でも酷く冷たい雨と記憶している。
数年前、余りにも多忙にやられて休日出勤をしたら、示し合わせたかのように雨が降り出した。あたり前に傘を忘れてきていた。
家にいれば孤独を包んでくれる繭なのに、ひとたび「外に出なくてはならない」となるとまったく非情である。ああ、社会人。そのまま濡れたスーツで午前中をやり過ごし、瀬戸際の息継ぎの如く、小走りで昼休憩に出た。

逃げ込んだドトール。窓際の席でコーヒーを啜りながら、目の前の交差点をぼんやりと眺める。都心ど真ん中のオフィス街にもガールズバーがあるらしい。休日真っ昼間から雨の中、交差点で傘を差したお姉さんが客引きしていた。
縁取られた景色が、ぼんやりと揺らぐ。赤信号、青信号、点滅。赤信号、青信号、明滅。アスファルトの反射。するする流れていく車の列を挟んで、誰も受け取らないチラシの行方を目で追ってしまう。ふぅーーー。こんな雨なのに、わざわざ大変っすね。
お姉さんのタフな時間を想像しながら、すっかりぬるくなったコーヒーの水面みなもを波立たせていると、コンテンツの地層からある言葉が蘇ってきた。

「人生ほど重いパンチはない」

引退したボクサーのロッキーが、自身を振り返りながら息子に語ったセリフ。このセリフが出てくる『ロッキー・ザ・ファイナル』はシリーズのラストの作品で、この説教くさいアメリカンドリームの後始末みたいな映画を何度も観返している。

人生の佳境、下り坂の入口。50代のロッキーが放った言葉。ここに行き着くために、何度もロッキーシリーズを遡ってしまう。ファイナルを含めて6作。それぞれのステージで、両足で踏みとどまり立って戦うロッキーはタフで強い。率直で、真っすぐで、不器用なロッキーの生き様。人生には、うまくいかないことも、チャンスも、どうしようもないことも、一切合切とにかくいろいろあるのだ。

僕はクリスマスのたびにテロリストと戦う羽目にはならないし、未来から殺人マシーンが送り込まれても来ない。もちろんボクシングのチャンピオンでもない。どちらかといえば、なぎの日々。それでも、僕もお姉さんも、現実いま雨の中でそこそこ重いパンチを喰らっている。
逃げたくても、人生。リングで戦うのは自分自身なのだ。なんだかんだ、ゴングが鳴るまで踏ん張るしかない。フルラウンドを打ち合うのはできれば遠慮したいけれど、そうもいかないのだ。不格好でも、しんどくても、なんとか最後まで重いパンチに打たれ続けるしかない。

「人生ほど重いパンチはない」の後に続くのは、なんだっけ。ええと、ロッキーはなんて言ったんだっけ。たしか――。

そろそろ昼休みが終わる。コーヒーを飲み干し、交差点に目を戻すと、お姉さんはいつの間にかいなくなっていた。急いで行方を探してみる。……いた。
街ゆくみんな傘を差したままだけど、雑居ビルの一階、そば屋の軒下。空を見上げ、傘を閉じる。
雨上がりに最初に気がついたのは、雨の中のお姉さんだった。

You, me, or nobody is gonna hit as hard as life.
人生ほど重いパンチはない。
But it ain't how hard you hit;
だけど、大切なのはお前がどれだけ強く殴り返すかじゃない。
It's about how hard you can get hit, and keep moving forward!
どれだけ重いパンチを打たれても、休まず前に進み続けることだ!


このエッセイは、エッセイを紡ぎ声にのせる朗読会「雨宿りの間に -止まない言葉に耳をすませば-」で書いて朗読した作品です!

ご来場ありがとうございました!


おわり。

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野やぎ 待てうかつに近づくなエッセイにされるぞ あ、ああ……あー!ありがとうございます!!

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