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みかんとタクシー。

「チッ。」と、赤信号で止まる度に舌打ちが聞こえてくる。はじめて見る長い渋滞。これで何度目だろう。その度に肩をすくめて小さくなる。どんどん小さくなって見上げた先、窓からはビルが、ビルの間からは空が見えた。青い。

よく晴れた朝だ。今日、私は東京に行く。

「これも持っていきなさい。」
「えー、いいよ。あっちでも買えるし。」
「いいから。なかったら困るでしょ。とりあえずよ。とりあえず。」

東京にはなんでもあるのに、母はぜんぶ持たせようとする。ものに溢れた実家。そうじゃなくて、すっきりしたおしゃれでシンプルな暮らしを思い描いてるのに、スーツケースはもうパンパンだ。

「あ、これも。」
「なにこれ?テーブルにあったやつじゃん。」
「ビタミンとるのよ。大事。そういうの、すぐ忘れちゃうんだから。」
「いいよ、大丈夫だよ。」
「いいから。風邪引いたらどうするのよ。ちゃんと食べなさい。」

この日のために買った、お気に入りの春コートのポケットにみかんが2つ押し込まれる。ああ、シルエットが崩れるし、潰れたら大惨事じゃん。

「荷物多いんだから、着いたらタクシー使うのよ。あなた、時々迷子になるんだから。」

たしかに地図に強くはないけど、スマホで調べればたいていのところは行ける。でも、言い返さないでおく。私がまだ小さい頃、ショッピングセンターで迷子になって以来、母はそこだけ心配性だ。小さすぎて覚えてもないけれど、よっぽど手ひどく迷ったらしい。 

「心配しすぎ。私、明日から社会人だよ?」
「社会人でも会社員でもなんでもいいけど、まあ、あなたはなんでもやれそうだけどさ。……自分を見失わないようにね。気をつけなさいよ。」
「……はーい。」

「じゃあ、行くね。」

ホームだと泣いちゃうから、と言って改札で別れるときにはもう母は涙ぐんでいた。背中でもわかる。振り返るとこっちまで泣いちゃいそうで、そのまままっすぐエスカレーターで降りた。

プルルルル……。

街はどんどん田んぼや畑になって、何本もトンネルを抜けて、少しずつまた街になる。都会。東京。家は少なくなるのに、人は増える。ふしぎだ。

やっと順番が来たタクシーは、ため息とも返事とも取れる声で答える運転手さんだった。

「あの、すみません。トランク、いいですか?」
「……はぁ。」

ようやく走り出したのもつかの間、タクシーはすぐに渋滞に捕まった。横の歩道には沢山の人が歩いている。一生で何人の名前がわかるのかな。ほとんどの人は、通行人とか風景とかだ。びっくりする。
どうしよう、さっきまでたのしいことしか浮かんでなかったのに。色鮮やかな看板もキラキラした街並みも、だんだん灰色に思えてくる。

「チッ。」

これで何度目だろう。その度に肩をすくめて小さくなる。どんどん小さくなって、どっかりとシートに沈んだ。青い。かろうじて、青い。ビルの隙間からのぞく空は狭く感じる。
はぁ。重たいため息と一緒にポケットに手を突っ込んだら、つるり。冷んやり心地よい温度が指に触った。

「あの、みかん。食べます?」

赤信号で止まったタイミングを見計らって、硬そうなプラスチックのグレーへ、オレンジを置く。

「えっ、ああ。ありがとうございます。すみませんね、今日は一日ずっとこんな感じで。」 
「こんな渋滞はじめて見ました。すごいんですね。」
「今日は珍しいくらいですよ。上京ですか?」
「はい。新潟から。」
「それは申し訳ことをしたなぁ。初日がこんなじゃ嫌ですよね。すみません。」
「そんなことないですよ。」
「新潟って、みかん有名なんですか?」
「いえ、ふつうにスーパーに売ってたやつです。母に無理やり持たされて。」
「ははは、そうなんだ。お母さん、心配なんだなぁ。」

運転手さんは佐々木さんといって、九州の生まれだった。タクシー運転手になって、東京に転勤してきて、ずっと。長いらしい。

「雪国の人には怒られちゃうかもしれないけど、雪が降るとうれしくなっちゃうところの生まれなの。」
「あー、わかります!」

佐々木さんは、みかんをダッシュボードの上に置いた。フロントガラスに流れていく景色が、また色付いた気がする。

結局いつもの倍以上(らしい)時間がかかって、家に着いた。途中で佐々木さんは「さすがに申し訳ないから」とメーターを止めて、諦めたようにゆっくり走った。もう舌打ちは聞こえなかった。

「悪かったねぇ。新生活、がんばってね。」
「いえ、こちらこそです。いろいろ話せて、ちょっと軽くなりました。」

気をつけてね。安全運転で!と別れて、一人になる。重たいスーツケースを引きずり、慣れない鍵で開けた部屋は夕焼けで染まっていた。着いたぁ。床に座り込む。そうだ、母に電話しなくちゃ。いや、やっぱりカーテンつけてからにしよう。

「……自分を見失わないようにね。」

換気のために窓を開ける。知らない街。生活の匂いがする。社会人って忙しいのかな。忙しいんだろうな。私もいろんなことに忙しくなるんだろうか。

もしこの先、灰色の生活に馴染んでしまったとしても。この色を覚えておこうと思う。

「よーしっ。」

積み重なったダンボールの上。ポケットからみかんをひとつ、置いた。

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野やぎ 待てうかつに近づくなエッセイにされるぞ あ、ああ……あー!ありがとうございます!!