見出し画像

境界 【シロクマ文芸部:昨日から】

昨日から、俺のマンションのベランダに、おじさんが住み始めてしまった。
夜中、俺の部屋に唐突にやって来て、「久しぶりだな、お前のおじさんだ」と言うなり、「ちょっとのあいだ、厄介になるぞ」と、登山に使うような小さなテントと寝袋を持ち込んで、狭いベランダに居座った。
「お前のおじさん」という、非常にアバウトな自己紹介からは怪しさが漂っていたが、おじさんといえば、たしかに、俺の母の弟に「修治」という名のおじさんがいた。昔は「修ちゃん」と呼んでいたが、会うのは小学生の時以来だから、二十五年ぶりくらいになるだろうか。四半世紀も経てば、子どもの頃の記憶なんて霧のようなもので、俺は「修ちゃん」の顔をぼんやりとも思い出すことができず、「こんな顔だったっけ」と言われたら自信はないが、たぶんそうなんだろうと思い、俺はさして疑いもせずにおじさんを受け入れ、おまけに毛布まで貸してやった。
「なあ、おじさん。せめて寝る時くらい、中に入りなよ。狭いリビングだけど、ソファもあるし」
網戸越しに声をかけると、おじさんはアウトドア用の小さな椅子に深く腰掛けたまま、缶ビールをプシュッと開けた。
「いや、いいんだ。俺は今、境界線の上にいたいんだよ」
「境界線?」
「そうだ。部屋の中は『社会』で、外は『虚無』だ。で、このベランダは、いってみればその境界だ。この幅一メートルのコンクリートが、今の俺にはちょうどいい」
おじさんはやけに哲学的なことを言って煙に巻いたが、意味はまったく分からなかった。
それからも、部屋で一緒に晩ご飯でも食べようと声をかけたが、おじさんは「いや、俺は遠慮する」と言って、カセットコンロに鉄網を乗っけて、直火で厚揚げ豆腐を焼いていた。

***

そして今朝、目が覚めてみると、おじさんはやはりベランダに居座っていた。テントの中からは寝息が聞こえた。
俺は会社に出勤し、一応、おじさんのことを実家の母に報告しておこうと、昼休みに電話をかけてみると、受話器の向こうで母が素っ頓狂な声を上げた。
「あんた、何を言ってるの。修治は今、ブラジルのコーヒー農園で働いてるわよ。昨日も写真が送られてきたわよ」
「は?」と、今度は俺が素っ頓狂な声を上げる番だった。「じゃあ、うちのベランダで厚揚げ豆腐を焼いていたおじさんは誰なんだよ」
「知らないわよ。あんたのおじさんが、少なくとも日本にいないことは確かよ」
電話を切った後、背筋に冷たいものが走った。おいおいおい、いったいどうなってるんだ。だったら、あの、自称「おじさん」はどこのどいつなのか。
俺は「急な私用で」と告げて会社を早退し、マンションへ急いで戻った。
すると、そこには、昨日と変わらず、自称「おじさん」がいた。彼はカセットコンロで今度はウインナーを焼いていた。
「あんた、誰なんですか」
俺が詰め寄ると、おじさんはウインナーを口に運び、熱そうにハフハフと回らぬ舌で、
「おじさんだよ。二十五年前、君の実家のベランダにいただろう」と言った。
「嘘をつけ。俺のおじさんは、今、ブラジルのコーヒー農園にいる。二十五年前、俺の実家にいたのは、そのおじさんだ」
「お前は勘違いしている。俺は、お前の『親戚のおじさん』じゃない。『ベランダのおじさん』なんだよ。どの家のベランダにも、ある時期、俺みたいな『おじさん』が住み着くようになっているんだ」
おじさんは平然と言った。それが、さも当たり前のように、悪びれた様子もなかった。しかし、言っていることはまったく道理が通っておらず、意味不明だった。ベランダのおじさんって、そんな話は都市伝説でも聞いたことがない。
「こう考えてみろ。お前の記憶にある二十五年前の男は、実は俺だったのかもしれない。子供はよく、ベランダに住んでいる男を親戚のおじさんだと勘違いするからね」
俺は警察を呼ぶべきか迷った。しかし、怪しさ満載とはいえ、おじさんに悪気はなさそうだし、悪事をしでかしそうな雰囲気もなかった。だとしたら、警察に突き出したところで、いろいろと事情を聞かれたり説明をしなければならないだろうし、それはそれで面倒なことに思えた。それに、おじさんが焼いているウインナーは、やけにいい匂いがした。
「境界線には、名前や血縁関係なんて必要ないんだ」
おじさんはそう言って、俺に割り箸を差し出した。
結局、俺はその夜、正体不明のおじさんとベランダでウインナーをひたすらつつきながら、ビールを飲んだ。

***

次の日の朝、目が覚めるとベランダはもぬけの殻だった。
テントも、寝袋も、おじさんも、きれいさっぱり消えていた。ただ、コンクリートの上に、ウインナーの袋が三つばかり転がっていて、風に揺れていた。ウインナーの袋が転がっているということは、おじさんのことは夢や幻ではなかったのだろう。
俺はベランダの手すりに手をかけて、朝の街を見渡した。
となりのベランダや、道の向こうのマンションやアパートのベランダ。もしかすると、あの怪しいおじさんは、別の部屋の「境界」に身を移したのではないか。そんなことを考えながら、おじさんの姿を探してみたが、もちろん、見つかるわけがなかった。
ただ、「境界」という言葉だけが、俺の頭の中でもつれ、ほどけることのない暗示のように残っていた。

(written by sakai_tama 

#シロクマ文芸部 さんの企画投稿(お遊び企画「昨日から」)に参加させていただきました!

いいなと思ったら応援しよう!