官能小説家【シロクマ文芸部「花びらを」】
「花びらを開くと、彼女は微かに息を漏らすような声を上げて身悶えた」
と書きかけたところで、俺はキーボードから指を離した。どうも陳腐な表現に思えて仕方がない。
「鏡餅彦(かがみもちひこ)」という筆名で官能小説家を自称してから約五年、電子書籍として世に送り出した小説は十冊。しかし、明らかにスランプであった。ネタの枯渇。それに、妄想だけで描いているので、表現も陳腐化する一方だ。
そもそも「鏡餅彦」などという筆名が良くない。五年前、小説投稿サイトのコンテストに、単なる思いつきで『女教師 雑煮の戯れ』という官能小説を応募したら、それが入賞の末席に名を連ねてしまった。その時に「餅」つながりで「鏡餅彦」といい加減な名前を付け、そのまま今に至るというわけだ。
俺はコーヒーを淹れ直し、再びパソコンの画面に向かった。
「花びらを開くと…」
俺はバックスペースキーを連打する。花びらなんていう使い古された言葉が、もういけない。植物図鑑でも書くつもりなのか、俺は。
その時、部屋のドアがノックされた。
こんな深夜に訪ねてくる相手に心当たりはなかった。不審に思いながらドアを開けると、そこには一人の女性が立っていた。女は、トレンチコートの襟を立て、大きなサングラスをかけていた。
「鏡餅先生ですね?」
彼女の声は、低くて少しハスキーだった。
「はあ、まあ」
鏡餅ではなく鏡餅彦であると訂正しようかと思ったが、自分からそれを言うのは気が引けてしまったのと、訂正するのも億劫だったので、何も言わないでおいた。鏡餅でも鏡餅彦でも、どっちでもかまわないといえば、かまわなかった。
「実は、これを開いていただきたいのです」
彼女が差し出したのは、一輪の大きな、見たこともないほど真っ白な牡丹の花のつぼみだった。
「花びらを、開いてください。先生の指で」
俺は混乱した。こいつは、新手のファンサービスの強要か、あるいは読者による抜き打ちテストか何かか。
「さあ、鏡餅先生。そのつぼみを、あなたの指でゆっくり開いてください」
そう言って女はズカズカと部屋に入り込み、俺のデスクの前の椅子に座った。
俺は困惑しながらも、女が差し出した牡丹のつぼみを手に取った。
花は、なぜか熱を帯びていた。まるで、花そのものが体温に似たものを放っているかのようだった。
俺は女に命じられるがままに、「じゃあ、開きます」とか言いながら、慎重に、いちばん外側の花びらに指をかけた。
「あっ…」
女が、かすかに息を漏らした。
何なんだ、この女は。変態なのか。それとも、俺の知らぬ間に巷で流行っている新手のプレイか。
俺は、一枚、また一枚と、白い花びらをめくっていった。そのたびに女は、文字にするのも憚られるような、湿り気を帯びた奇妙な喘ぎ声を上げていた。
「もっと…深く。芯のところまで」
女はいつのまにかサングラスを外していて、目を閉じたまま顎を少し上に向けていた。目尻のところに、小さいほくろがあった。
そして、俺の指がつぼみの中の最も柔らかい芯に触れた瞬間、女は「××××」とひときわおかしな声を立てて身悶えた。椅子から滑り落ちんばかりに身体をくねらせるものだから、俺もおかしな気分になった。
すると、驚くべきことが起きた。つぼみの中から、文字が溢れ出してきたのだ。
花びらの隙間からこぼれ落ちた漆黒の文字は、俺のまぶたの裏側をすさまじい速さで通り過ぎ、デスクの上を、キーボードの隙間を、川のように流れていった。
俺は夢中でその文字を追いかけた。
そこにあったのは、陳腐な既成の言葉ではなかった。見たこともない、斬新で、かつて誰も官能という文脈で語らなかった言葉たちが、俺の目の前を埋め尽くしていった。
俺はキーボードに飛びついた。というより、必死でしがみついた。その文字たちを一文字も逃すまいと、俺の指は意識から切り離されたような爆発的な勢いでタイピングを始めていた。
指が熱を帯び、キーボードが悲鳴を上げ、文字が黒い生き物のように増殖していく。女の悶える声も、つぼみの香りも、すべてが文字へと変換され、俺のパソコンの記憶域へと吸い込まれていった。
これだ。こいつこそが、俺が求めていた真実の官能世界だ。
俺は法悦の中で震えるように、夜通しキーボードを叩き続けた。
どうやら俺は、キーボードを無我夢中で叩き続けているうちに寝落ちし、意識を取り戻した時にはすっかり朝になっていた。眩い日差しが、散らかった部屋に差し込んでいた。
女の姿はどこにもなく、デスクの上には、しおれた牡丹の花びらが散乱していた。
あれは夢だったのだろうか。しかし、俺の指先には、まだ激しいタイピングの余韻が残っていた。
俺は、夜通し書き続けた作品を確認するために、スリープモードになっていたパソコンを揺り起こした。当然そこには、あの「真実の官能小説」があるはずだった。
「あ、あれ?」
俺は大げさなまでの素っ頓狂な声を上げて、目をこすった。パソコンのモニターを二度見、いや、少なくとも三度見はしたが、それ以上だったかもしれない。
画面に映っていたのは、このような文字列だった。
『asdflkjlkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;a白日のもと、剥き出しにされたその芯は、月の光を吸って、青白い炎のようにslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslk指先が触れた瞬間、それは官能という名の冷たい毒となって、私の血管を駆け巡っdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf;aslkdjf……』
俺は、呆然としてパソコンの前に立ち尽くした。やはり、すべては夢だったのだろうか。
しかし、その時、床に何かが落ちているのに気が付いた。散らかり放題の部屋の片隅に、あの女がかけていた、大きなサングラスが転がっていたのだ。
俺はそれを拾い上げようとして、自分の身体にまとわりつく異変を感じた。下半身が、つまりはパンツの中が、奇妙な感覚に包まれていた。やけに冷たく、そして粘り気のある湿りを帯びていた。牡丹のつぼみの芯に触れた時の、あのぬるりとした、花らしからぬ湿った感覚に似ていた。
そして、床のサングラスのレンズの中には、それを拾いかけた俺の間の抜けた格好が、朝の光を浴びて映り込んでいるのだった。
(written by sakai_tama )
#シロクマ文芸部 さん(お遊び企画「花びらを)に参加させていただきました!
