見出し画像

【せりふ三題噺】これはローファーである【シロクマ文芸部】

三月は、送別会のシーズンである。
俺の部署でもご多分に漏れず、金曜日の仕事を終えた後、長年居座った上司を追い出すための、祝杯という名の呪詛が渦巻く宴が執り行われたのだった。
そして、土曜の朝。
二日酔いによる不快な眠りから無慈悲に引きずり出されるのは、毎度のことなので慣れたものだったが、いつもと様子が違ったのは、頭の中で何かを打ち鳴らされるような痛みとは別に、布団の中で右足に激しい痛みを覚えたことだった。むくんでいるというレベルではない。まるで巨大な蟻地獄に足先を突っ込んだまま、石灰で固められたような、逃げ場のない圧迫感だった。いや、実際に蟻地獄に足先を突っ込んだことも、石灰で固められたこともないから知らんけど。
「痛いな、畜生」とか独り言ちながら、今まで感じたことのない痛みに恐怖しつつ、俺は震える手で掛け布団を剥ぎ取った。
「あれ…」
絶句だ。それ以上の言葉が出てこなかった。
そこには、左右非対称の不条理世界が展開されていた。左足には、見慣れた自分の黒い革靴。こいつは、百歩譲って、まあ良しとしよう。問題は右足だ。そこには、茶色の、やけに小ぶりな、しかし無惨に横幅が拡張された物体がまとわりついていた。
よくよく見てみると、そいつはローファーだった。
俺は大げさに「ひいっ」とか何とか言いながら、右足の物体を跳ねのけようとした。しかし、右足を締め上げているローファーらしき物体はなかなか脱げず、力づくで無理やりにはぎ取るとようやく足から離れ、部屋の片隅に音を立てて転がった。
それは本来、二十三センチそこそこの、乙女の清楚な歩みを支えるべき可憐な履物であったはずだ。だが、それが今や、俺の二十七センチという足で無理やりに履いたばかりに、合皮の繊維が引きちぎられ、左右にパカッと割れ、何らかの深海魚が断末魔のごとく悲鳴を上げて口を開けたような、異形の姿に変貌していた。
その時、枕元のスマートフォンが、のたうち回る芋虫のように震えた。
通知欄に表示された名前は「花澤」。同じ課の後輩の女子社員の花澤さんだ。昨夜の宴の席では俺の真正面の席に座り、「ウーロン茶のお湯割りで」と意味の分からないことを言いながら、お湯を足してぬるくなった薄味のウーロン茶を啜りまくっていた。
「もしもし、花澤さん?どうしたの?」
「あ、先輩。おはようございます。お休みのところ、すみません」
花澤さんの声には、どこか不機嫌で、冷たい響きがあった。
「あのぉ…単刀直入に伺いますけど」
「うん、何?どうしたの、朝から。いや、もう昼か」
俺は、自分で言った面白くもない言葉に、アハハハハという愛想笑いを付け足してみたが、花澤さんはそれを無視して、低さを増した声でこう告げた。
「先輩、昨日、わたしの靴を履いて帰りましたよね?」
彼女の声は、低いどころか、地を這うような重低音だった。
「靴?靴って…」
「わたしのローファーです」
「ああ、ローファーね…」
俺は、部屋の隅に転がっている、無残に拡張された「元・ローファー」を凝視した。青ざめる、という表現では生ぬるい。俺の顔面は、おそらくは精製される前の塩化ビニールのような色に変色しているはずだった。
「ローファーっていうのは、それはつまり、靴のことか」
「はい、さっきからそう言っているじゃないですか」
「たしかに『ローファー』と言われれば、まあ、そうなのかな?というものが、存在しているといえば、存在している」
「なんか、奥歯に物が挟まったような言い方ですね。わたしのローファー、あるんですか?ないんですか?」
「たしかに、今、俺の目の前には『ローファー』らしきものがある。しかし、これが君の言う『ローファー』という概念に合致するかどうかは、いささか議論の余地があると言わざるを得ないかもしれない」
「議論も何もありませんよ。わたし、昨日、居酒屋の座敷の上で呆然と立ち尽くしたんですよ。自分のローファーがあるはずの場所に、片方しかない。で、加齢臭の染み付いたデカい革靴の片割れが、デデンと残されてるんですから。先輩はとっとと帰っちゃったし、仕方がないから、わたし、その臭そうな革靴を履いて帰りましたよ。もう、電車の中で恥ずかしいったら、ないですよ」
花澤さんは怨念のこもった声で一気にまくし立てた。
そして、俺の目の前にある「元・ローファー」は、もはや靴としてのアイデンティティを喪失し、怪物の口のように開いて俺に向かって何かを訴えているようだった。
「落ち着いて聞いてくれ、花澤さん」
俺は絞り出すような声で弁解を始めた。
「確かに色は茶色だ。素材も、かつては合皮であった形跡がある。しかし、だ。これを今、客観的に『ローファー』と呼ぶのは、あまりにも『ローファー』という存在に対して失礼というか、言葉のあいまいさの問題というか、言語表現の限界の露呈と言わざるを得ないだろう」
自分でそう口走りながら、もはや何を言っているのか、自分でも意味が分からなかった。
「で、もし、これを『ローファー』というのであれば、それは『ローファー』なのかもしれない。しかし、俺の主観では、こいつはもはや『ローファーではない何か』に変質していると言わざる得ないかもしれない」
沈黙。
電話の向こうで、花澤さんが凍りついたような様子であるのは、容易に想像ができた。
そして、長い長い沈黙の後で、「チッ」という舌打ちをする音が聞こえた。
「先輩、月曜日の朝、とりあえずそのローファーを持って、会社の屋上に来てください」
「お、屋上? なぜそんな、風通しの良い場所を…」
「決まってるじゃないですか。落とし前、つけてもらうためですよ」
「え?今、何て?」
「落とし前です。ちゃんとケジメをつけましょう。落とし前をつけるなら、昔から、体育館の裏か屋上に呼び出すのが相場って決まってるじゃないですか」
花澤さんは平然とそう言ってのけた。体育館の裏か屋上といえば、「付き合ってください」という愛の告白的な、そういうシチュエーションではないのか。それを、落とし前やらケジメって、いったい彼女は何者なのだ。
「わたし、昔の血が騒ぐと、自分でも何するか分からないんで」
昔の血。彼女の声はあくまでも静けさを保っていたが、それがかえって、春一番の突風のような、暴力的な響きで俺の鼓膜を震わせた。昔の血って、いったい何の血だ。そして俺の血が流れるのか。
「それから、今すぐ、わたしのローファーの写真を撮って送ってください。小細工しても、バレますからね」
花澤さんはそう言って、あいさつも無しに唐突に電話を切った。プープーという無慈悲な切断音の後、俺は小刻みに震える手でスマートフォンを構え、床に転がった「元・ローファー」の無残な姿を写していった。だが、角度を変えて撮ろうが、光の当て方を工夫しようが、何をどう足掻いても、それはもはや女子の可憐な履物には見えなかった。構造的に破綻した、おぞましい「ローファーらしき何か」でしかなかった。
そして、不条理の極みとも言えるその画像を、覚悟を決めて花澤さんのLINEへと放り投げた。
直後、スマートフォンが狂ったように震え始め、花澤さんからの地獄の返信通知が画面を埋め尽くしていった。
『先輩、これ、マジでわたしの靴ですか?』
『っていうか、何したんですか。爆破したんですか?』
『ありえない。物理的にありえない。象にでも踏みつぶされたんですか?』
『 誰が見たって、これはもう「茶色のゴミ」ですよね?』
『月曜、ぜったい、屋上に来てくださいよ』
通知のたびに、俺の手元ではスマートフォンが恐怖に怯える小動物のように震えまくり、俺は、ただただ茫然と、通知が溜まっていくのを見つめているよりほかなかった。

(written by sakai_tama 

遅ればせながら、 #せりふ三題噺 ( #屋上春一番ローファー )と #シロクマ文芸部 さん(お遊び企画「三月は」)のふたつの企画投稿のハイブリッド作品となります!

いいなと思ったら応援しよう!