『父の字を知らない』
第13章 その年、手紙は来なかった
父に電話をかけた翌朝も、返事はなかった。
昼休みに、もう一度かけた。
呼び出し音が十回鳴り、機械の声に切り替わった。
仕事を終えてからもかけた。
それでも、父は出なかった。
蓮はスマートフォンを机の上に置き、暗くなった画面を見つめた。
「まだ出ないの?」
台所から戻ってきた美咲が聞いた。
「ああ」
「家に行ってみたら?」
「そこまでじゃないだろ」
そう答えながら、蓮自身も違和感を覚えていた。
父は電話に出ないことがあった。
仕事中だったり、風呂に入っていたり、単に気づかなかったり。
けれど、しばらくすると必ず短いメッセージが届いた。
『何だ』
たった三文字。
用件を伝えると、必要なことだけ返してくる。
昔から、そういう人だった。
「昨日から出てないんでしょ」
「昔から電話に出ないことはある」
「でも、いつもはあとで連絡くるんじゃないの?」
蓮は答えなかった。
美咲はしばらく蓮の顔を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
その夜、蓮は何度も目を覚ました。
目を閉じるたび、父に言った言葉が浮かんだ。
――俺は、父さんみたいにならない。
言い方は悪かった。
だが、間違ったことを言ったとは思えなかった。
父は、いつも何も言わなかった。
大事なことほど、口にしなかった。
蓮が何を考えているのか。
何に悩み、何を怖がっているのか。
父から聞かれた記憶は、ほとんどなかった。
それでも、謝ろうとは思っていた。
言いすぎた、と。
父さんのことが嫌いなわけじゃない、と。
ただ、自分が父親になってみて、余計に分からなくなったのだと。
明日、もう一度電話をかけよう。
そう思いながら、蓮は眠りについた。
翌朝。
会社へ行く準備をしていると、知らない番号から電話がかかってきた。
一度は見送った。
だが、すぐに同じ番号からもう一度かかってきた。
「はい」
『朝早くに申し訳ありません。佐久間誠司さんのご家族の方でしょうか』
蓮の手が止まった。
「息子です」
電話の相手は、父の家の隣に住む小林という男だった。
顔は見たことがあったが、話したことはほとんどなかった。
『昨日から新聞が残っていましてね。今朝、声をかけたんですが返事がなくて』
「それで?」
『救急車を呼びました』
その先の言葉が、一瞬、聞こえなくなった。
「父は、どうしてるんですか」
『今、病院に運ばれています』
病院の名前を聞き、蓮は電話を切った。
「何があったの?」
玄関まで来た美咲が聞いた。
「父さんが倒れた」
美咲の顔色が変わった。
「病院に運ばれたって」
上着をつかみ、靴を履こうとしたとき、寝室から結衣が出てきた。
「パパ、どこ行くの?」
「じいじのところ」
「結衣も行く」
「今日はママと待ってて」
「じいじ、どうしたの?」
蓮は結衣の前にしゃがみ、髪を撫でた。
「ちょっと具合が悪いんだ」
「お薬飲んだら、よくなる?」
「うん」
何も分からないまま、そう答えた。
大丈夫だと、自分に言い聞かせるように。
病院までの道を、蓮はほとんど覚えていなかった。
赤信号で止まるたび、父へ電話をかけた。
呼び出し音だけが鳴った。
もう父が出られる状態ではないことを分かっていながら、それでも指が勝手に発信ボタンを押した。
病院へ着き、受付で父の名前を告げた。
看護師の表情が、わずかに曇った。
その顔を見た瞬間、蓮は何かを察した。
案内された小さな部屋には、白衣を着た医師が待っていた。
医師は蓮を椅子に座らせ、静かな声で説明を始めた。
父は自宅で倒れていた。
発見された時点で、すでに心肺停止の状態だった。
救命処置を行ったが、蘇生には至らなかった。
言葉は聞こえていた。
けれど、意味が頭に入ってこなかった。
「昨日までは、普通だったんです」
蓮はそれしか言えなかった。
「持病はありましたか」
「分かりません」
「通院されていた病院は?」
「知りません」
「飲んでいた薬はありますか」
「分かりません」
答えるたび、自分が父について何も知らなかったことだけが積み重なっていった。
父の体調を知らない。
どこの病院へ通っていたのかも知らない。
薬を飲んでいたのかも知らない。
最後に何を食べたのか。
最後に誰と話したのか。
何ひとつ、知らなかった。
「父に、会えますか」
医師は静かにうなずいた。
白いシーツの上に、父は横たわっていた。
眠っているようには見えなかった。
顔色は白く、頬は痩せていた。
髪も、蓮が覚えていたよりずっと白くなっていた。
父は、いつの間にこんなに小さくなったのだろう。
蓮はベッドの横に立った。
昨日、電話で言うはずだった言葉を探した。
言いすぎた。
父さんのことが嫌いなわけじゃない。
俺も父親になって、余裕がなかった。
本当は、分かりたかった。
けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「何で電話に出なかったんだよ」
父は何も答えなかった。
「俺、かけただろ」
声が震えた。
「謝ろうと思ってたんだよ」
父の手に触れた。
冷たかった。
子どもの頃、熱を出した蓮の額に触れた手。
自転車の荷台を支えていた手。
焦げた卵焼きを作った手。
結衣を不器用に抱いた手。
その手は、もう蓮の手を握り返さなかった。
「まだ、間に合うと思ってたんだよ」
泣くつもりはなかった。
父の前では、泣きたくなかった。
それでも涙は止まらなかった。
「何で、待ってくれなかったんだよ」
父は最後まで、何も言わなかった。
葬儀は、静かに終わった。
父には、蓮の知らない知人が何人もいた。
昔の仕事仲間。
近所の人。
行きつけの食堂の店主。
父が毎年、町内の祭りの準備を手伝っていたことも、そのとき初めて知った。
「誠司さんには、ずいぶん世話になりました」
「口数は少なかったけど、困っている人を放っておけない人だったね」
「息子さんの話も、よくしていましたよ」
その言葉に、蓮は顔を上げた。
「俺の話を?」
「ええ。結婚したとか、お子さんが生まれたとか。嬉しそうに話していました」
信じられなかった。
父は蓮の前では、何も聞かなかった。
仕事はどうだとも。
美咲とはうまくやっているかとも。
結衣は元気かとも。
たまに会えば、結衣へ菓子を渡し、帰り際に言うだけだった。
『気をつけて帰れ』
それだけだった。
葬儀のあと、父の家を片づけることになった。
美咲と結衣も手伝いに来た。
父の部屋には、物が少なかった。
古いテレビ。
小さな座卓。
使い込まれた湯飲み。
押し入れには、似たような色の服が何着も並んでいた。
「じいじ、どこ?」
結衣が、父の座布団を見ながら聞いた。
「じいじはね、遠いところに行ったの」
美咲が答えた。
「いつ帰ってくる?」
美咲は答えられず、蓮を見た。
蓮は父の服を段ボール箱へ入れながら言った。
「もう、帰ってこない」
「どうして?」
「死んじゃったから」
「蓮」
美咲が小さく名前を呼んだ。
だが、蓮は顔を上げなかった。
結衣はしばらく黙っていた。
やがて、父がいつも座っていた座布団の前にしゃがんだ。
「じいじ、もうお菓子くれないの?」
「うん」
「結衣、ありがとうって言ってない」
その言葉に、蓮の手が止まった。
自分も同じだった。
ありがとうと言っていない。
ごめんとも言えていない。
父から受け取ったものを返す機会は、もう二度と来ない。
机の引き出しを開けると、古い通帳や領収書が入っていた。
その奥に、病院の診察券があった。
薬の袋も残っていた。
日付を見ると、父は一年以上前から通院していた。
父は何も言わなかった。
蓮も、何も聞かなかった。
さらに奥には、小さな手帳があった。
予定はほとんど書かれていなかった。
町内会。
通院。
ゴミの日。
それだけだった。
ページをめくると、蓮の誕生日の日付に、小さな丸がついていた。
文字はなかった。
ただ、丸だけがあった。
蓮は、しばらくその丸を見つめた。
そして、何も言わずに手帳を閉じた。
父が死んでから、三週間が過ぎた。
蓮の三十三歳の誕生日が来た。
朝、美咲と結衣が小さなケーキを用意してくれた。
「パパ、お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「三十三歳?」
「そうだよ」
「おじさんだね」
「それ、誰に教わったの?」
美咲が笑いながら聞くと、結衣はすぐに答えた。
「ママ」
「言ってない」
三人で笑った。
蓮も笑った。
けれど、朝から何度も玄関を見ていた。
昼を過ぎても、郵便は来なかった。
夕方、郵便受けを確認した。
入っていたのは、広告と請求書だけだった。
母からの手紙は、なかった。
毎年、必ず届いていた。
七歳の誕生日から、一度も欠かさず。
中学生になっても。
家を出ても。
結婚しても。
結衣が生まれた年も。
必ず、母からの手紙は届いた。
蓮は広告を持ったまま、玄関に立ち尽くした。
「手紙、来てなかった?」
美咲が聞いた。
「ああ」
「少し遅れてるんじゃない?」
「母さんは、一度も遅れたことがない」
「でも、郵便だから」
「違う」
思ったより強い声が出た。
美咲は何も言わなかった。
蓮はもう一度、空の郵便受けをのぞいた。
何もなかった。
夜になっても、手紙は届かなかった。
蓮は押し入れから、過去の手紙を入れた箱を取り出した。
白い封筒が、何十通も重なっていた。
幼い頃は、ひらがなで書かれた宛名。
中学生になると、漢字に変わった。
家を出てからは、そのたびに新しい住所へ届いた。
差出人は、いつも同じだった。
母の名前。
一番新しい封筒を手に取った。
去年、届いた手紙だった。
便箋を開く。
『蓮へ。
三十二歳のお誕生日、おめでとう。
父親になったあなたは、きっと迷うこともあると思います。
でも、迷うのは、結衣ちゃんを大切にしたいと思っている証拠です。
完璧な父親にならなくていい。
言葉にできない日があっても、そばにいてあげてください。
あなたは、一人ではありません。
母より』
蓮は、同じ文章を何度も読んだ。
――言葉にできない日があっても、そばにいてあげてください。
父の顔が浮かんだ。
何も言わず、ただ家にいた父。
熱を出した夜も。
失恋した日も。
家を出る日も。
結婚式の日も。
父は言葉にしなかった。
けれど、いなくなったことはなかった。
昨日までは。
蓮は封筒の文字を、指でなぞった。
そのとき、胸の奥で何かがつながった。
母からの手紙が届かなくなった年。
父がいなくなった年。
それが、同じ年だった。
偶然だと思おうとした。
けれど、できなかった。
蓮は、父の字を知らなかった。
父が書いた手紙を、一度も見たことがなかった。
だから、その封筒の文字が誰のものなのかも、分からなかった。
三十三歳の誕生日。
その年、母からの手紙は来なかった。
そして蓮は初めて、父がいなくなったことと、手紙が届かないことを、別々の出来事として考えられなくなった。
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