行き先のないバス
バスは、
曲がりくねった山道を、
黙って走り続けていた。
窓の外の景色は、
少しずつ現実から遠ざかっていく。
やがて私は、
夢の続きのような場所へ降り立った。
足元いっぱいに、
名も知らない花が咲いている。
赤。
青。
金色。
見たこともない色まで、
朝露をまとい、
光の中で静かに揺れていた。
蝶はいない。
代わりに、
透き通った魚たちが、
空をゆっくり泳いでいる。
羽ばたきもしない。
水音もしない。
ただ、
光の中を、
風に運ばれるように漂っていた。
私は思わず空を見上げる。
それまで自由に泳いでいた魚たちは、
一斉に泳ぎを止めた。
空は静まり返る。
まるで、
私が来るのを、
待っていたように。
***
花畑の奥には、
土でできた高い壁が続いていた。
壁一面に描かれた古代壁画。
鳥。
鹿。
蛇。
人。
そして、
一頭のジャガー。
その瞳だけが、
今も生きているようだった。
乾いた土の匂いが、静かに立ちのぼる。
森の王がそばにいるような、
息をのむほどの気配。
恐ろしいはずなのに、
なぜか目が離せなかった。
私は壁画を見ている。
……はずなのに。
見られている。
そんな感覚が、
背中をゆっくりとのぼっていく。
風が止んだ。
花畑から、
音が消えた。
その時だった。
ジャガーが、
ゆっくりと瞬きをした。
それだけだった。
私は、
一瞬息を呑んだ。
***
一匹の魚が、
私の目の前まで泳いできた。
淡く光る鱗。
水の中にいるように尾を揺らし、
花畑の奥へ泳いでいく。
私は、
気づけば、
その後を歩いていた。
***
花畑は、
どこまでも続いていた。
どれほど歩いただろう。
不思議と疲れない。
時間が流れているのかさえ、
分からなくなる。
やがて魚は、
水面の前で動きを止めた。
その先には、
鏡のように静かな水面が広がっていた。
風もない。
波もない。
空だけが、
吸い込まれるように映っている。
魚は、
くるりと回ると、
その水面へ潜っていった。
私は、
そっと手を伸ばす。
指先が水に触れた瞬間、
冷たいと思った。
次の瞬間、
その冷たさは、
懐かしさに変わった。
***
水面が揺れた。
魚たちの影が、
水の中へ吸い込まれていく。
花の香りが、
少しずつ遠ざかる。
耳の奥で、
電車のブレーキ音が聞こえた。
気づくと、
私は駅のホームに立っていた。
今より少しだけ若い頃の私が、
少し先に立っていた。
発車ベルが鳴る。
ドアが開く。
ゆっくりと、
列車へ乗り込んだ。
その横顔は、
泣きそうにも見えたし、
笑いそうにも見えた。
私は知っている。
あの日、
あの列車に乗った。
あの日を境に、
世界は、
少しずつ姿を変えていった。
でも、
なぜ、あの列車に乗ったのかだけは、
霧がかかったように
思い出せなかった。
***
気づくと、
私はまた花畑に立っていた。
魚たちは、
何事もなかったように空を泳いでいる。
風が吹く。
花びらが、
足元をゆっくり流れていく。
遠くで、
ジャガーが静かにこちらを見ていた。
「ありがとう。」
言葉だけが、
静かに口を離れた。
胸の奥で、
長い間固まっていた何かが、
ゆっくりほどけていくのを感じた。
ジャガーは、
静かに、
視線を花畑の向こうへ戻した。
私は、
もう一度だけ頭を下げた。
***
その奥には、
山へ続く細い石畳。
夕暮れが、
静かに山を染めていた。
その先には、
まだ何かがある。
なぜか私は、
そう知っていた。
空を見上げる。
太陽は、
もう山の向こうへ傾き始めている。
私は、
その道を見つめた。
そして静かに、
来た道を振り返った。
帰りのバスは、
もう待っていた。
私は、
静かに乗り込んだ。
誰も乗っていない。
走り出したバスの窓から、
花畑が少しずつ遠ざかる。
魚たちが、
空を泳いでいる。
***
街へ戻る。
見慣れた景色が、
バスの窓を流れていく。
見慣れたバス停。
降りようとした時、
運転席の上にある行き先表示が、
初めて光った。
そこには、
たった一言だけ。
『今日』
と書かれていた。
私は静かにバスを降りた。
靴の裏に、
見慣れた街のアスファルトの感触が伝わる。
車の音。
信号が変わる電子音。
誰かの笑い声。
ほんの少し前まで遠く感じていた日常が、
不思議なくらい愛おしかった。
私は、
一度だけ空を見上げる。
空を泳ぐ魚はいない。
花畑も、
ジャガーも、
もうどこにも見えなかった。
それでも胸の奥には、
あの日の私が、
確かに息をしていた。
私は小さく笑う。
そして、
今日を歩き始めた。
* * *
この作品は、カワムラさん企画の「ちび創作大賞」のテーマの一つ「あの日の選択」に参加した作品です。
