文は人なり、か
☆photopos-4317(2026.7.6)
「文は人なり」
そう言ったのは
フランスの博物学者ビュフォンだが
レーモン・クノーの
『文体の練習』では
短いエピソードが
99通りの異なる文体・技法で
書き換えられている
エピソソード
つまり内容は同じでも
どう書くかで
違いがあるというわけだ
言葉の選び方
並べ方
リズム
長さ
口調
語尾
比喩
雰囲気
・・・・・・
そんなみんなが組み合わさり
書き手によって編集されて
文体なるものができている
そうして書き手が
文体をつくるのだろうが
そういえば
広告の文章はコピーで
文章を書くのは
コピー・ライターだが
文章の主体は
クライアントだから
そこでは
「文は企業なり」
とでもいえるだろうか
企業も法人だから
人であるともいえるし
コピーライターの書いたコピーを
OKしただけかもしれないが
昨今ではAIにも
それぞれの開発者の意図した
文体があるだろうから
「人なり」が
かなり怪しくなってきている
とはいえ
多くの場合なぜか
その人の文章からは
それなりの文体が
伝わってくることが多い
気のせいかもしれないが
少し読んだだけで
その人が伝わってくる
ひょっとしたら
それを「言霊」とでも
いうのかもしれない
逆にいえば、
こちらの書いた文章も
そのように伝わっていて
少しばかり偽装したところで
仮面の下の顔は
見透かされているのともいえる
困ったものだが
やはり文は人なのだろう
※愛媛県・小田深山渓谷にて




