見出し画像

荻野昌利『窓から何が見えるか/西洋美術文化史と「窓」のイコノロジー』

☆mediopos3738(2025.2.12.)

荻野昌利『窓から何が見えるか
西洋美術文化史と「窓」のイコノロジー』は

「窓」が西洋における「近代自我」の発達や
「文化」の育成に影響を及ぼしてきたことについて
絵画と文学を横断しながら批評を試みたものだが
興味深いことに日本における「窓」についても
さらに考察が加えられている

「窓」はヨーロッパの言葉のほとんどで
「戸」の一部とみなされ
それに準ずるものとして
光の入口や風穴としての扱いを受けてきた

また漢字の「窓」の古語「窻」も
「暗く閉ざされた空間に穿たれた穴」を意味し
日本語の「まど」は
「間戸」からきているのではないかと言われている

現代において「窓」といえば
ガラス窓がイメージされているが
ガラスの歴史は五千年に及ぶとはいっても
透明な板ガラスの歴史は二千年ほどに過ぎず
ヨーロッパのガラス窓の歴史は
さらにそれから千年以上経ってからのもの

古くは六・七世紀から
ビザンティウムの東方正教会で一部使われていたが
本格的に使われるようになったのは
十世紀以降の西方カトリック教会においてであり
「神は光となって教会に顕現し、
神の生命を与えるもの」であることを示唆するための
「天上から聖堂内に射し込む光を
絢爛豪華に彩られたステンドグラス」である

そうした「天上から斜めに射す全能の神の視線を」
「神から奪取した」のは
十四世紀フィレンツェにおいてであり
「ルネサンスをルネサンスたらしめる最大の偉業」となった

「見られる立場から、見る立場への視線の主権奪取である」

そのように
「ガラス窓とルネサンス以降の西洋近代自我とは、
つねに持ちつ持たれつ協力しながら発達を続けてきた」

絵画においてはアルベルティによる遠近法が重要である

「ユークリッドにはじまり、彼の時代に至るまで、
視覚は円錐形のものと受け止められてきた」が

アルベルティは
「視覚というものを、目を頂点とし
対象物の四角形の外郭を底辺とする光線の
ピラミッド型の立方体とみなした」

しかも「視線を物理的光線として捉え、
かならずそれが消尽点に向かって収斂してゆく
有限なものであるということ、
つまり「見る」という行為のもっている
物理的即物性を明確に示した」のである

そうしてルネサンス以降
「人間中心の「見る」ものと「見られる」ものという
平等な相互関係に置き換える習慣」が
形成されていった

しかしイタリアの絵画の世界では
「アルベルティの「開いた窓」の理論」は
「《窓》そのものをモチーフにした作品」として
流行したわけではなかった

むしろそうした作品が描かれるようになったのは
極寒の冬において室内に閉ざされた生活を送る
北欧の国々においてだった

かつては西洋の建物に窓があったとしても
板張りか油紙が張られたものだったのだが
十五世紀の後半ごろから
平板素通しの窓ガラスがヨーロッパ各所に普及し始め
十六世紀半ばごろには
一般中流家庭にまで普及するようになり
「次第にガラス窓を通して世間を見、
時に窓越しに外の世界と交流する機会を持つようになった」

著者は「「このことが自我の成長・発達に
大きく貢献することになった」としている

北欧のルネサンスにおけるデューラーや
オランダのレンブラントの自画像も
そうした自我意識と深く関わっている

しかしやがて逆にそれが窓によって開かれるのではなく
「窓の中に閉じ込められている不自由感を生み出」す

十八世紀末からのロマン主義の
「窓という障壁を取り払ってより自由な
外の世界を味わいたいという衝動」である

たとえばフリードリヒの《窓》をモチーフにした絵画にも
「囚われの人間の解放への限りない憧憬」が表されている

さらに二十世紀絵画になると
「窓を認識の手段として用いるのではなく」
「《窓》を外の景色の一部、あるいは
室内装飾の一部に換骨してしまう」

「デュシャンやマグリットの絵画に見るように
《窓》そのものが絵画の主題となり、
人間の様々な矛盾に満ちた状況を皮肉る暗喩を
果たすことになる」のである

しかしそうした《窓》は
西洋的な自我を背負った人間にとって
「具体的な窓が存在する限り《窓》を
意識の埒外に追い出すことはけっしてできない」
そんな存在となっている

さて話は日本に移るが
伝統的家屋には神社仏閣を含め原則的には窓がない

窓の代わりに
「上下二枚の板戸からなり
上の部分を昼間は金物で吊り上げたり、
棒で持ち上げたりして支え、
それによって外光と空気の流通をはか」る
蔀(しとみ)があった
「間戸」(「窓」の古語))である

そしてそれが
日本人の意識構造に大きく影響を与えてきたのだが
それが明治以降西洋から入って来た
「素通しのガラス窓」が
その意識に大きな影響を及ぼすことになった
夏目漱石の模索しつづけた西洋的自我との和解が
それを象徴している

現代ではさすがに漱石のような苦悩は
表面的にはなくなっているかのようだが
明治以降の日本絵画では
「《窓》をモチーフにした作品はほとんど見かけない」
という

明治時代に生まれた「和魂洋才」という言葉は
いまもまだ現役だといえるのだろう

「窓から何が見えるか」

著者は《窓》という言葉を
「それぞれの時代時代の「窓」という言葉によって
喚起される意識活動の総体を指示する記号として」
使っているというが

私たちじしんがそうした《窓》の内と外
つまり自我のありようを
どのようにとらえているのかについて
とらえなおしてみる必要がありそうである

■荻野昌利『窓から何が見えるか/西洋美術文化史と「窓」のイコノロジー』
 (彩流社 2024/11)

**(プロローグ)

・歴史のなかの窓

「私たちの生活にとってかけがえのない窓である。先祖の人々が、この生活になくてはならない存在をさぞやいとしみ、大切に遇してきたことと思ったとしても不思議はないだろう。だが、文化史的に見ると、かならずしもそうとばかりは言えない。語源的にも、「窓」は「戸」に比べるとずっと控えめである。ヨーロッパ語のほとんどで、「窓」は「戸」の一部とみなされ、光の入口や風穴としてそれに准ずる扱いを受けてきた。たとえば、ギリシャ語で「窓」は「戸」“thura”の小型のものを表す“thuris”つまり「小さい戸」であり、ラテン語では“fenestra”で「光を入れる穴」を意味した。これが現代フランス語の“fenětre”ドイツ語の“Fenster”の語源である。また英語のwindowは古いスカンディナビア語の“wind's eye”「風の目」を意味する“vindauga”に由来するものである。東洋に目を向ければ、今日私たちの用いている「窓」の古語「窻」は、「暗く閉ざされた空間に穿たれた穴」を意味するものであったし、日本語の「まど」については、『広辞苑』は、「目門」か「間戸」から来たものではないかと推測しているが、その起原は定かではないようである。『万葉集』にも出てくる古い言葉であるが、いずれにしても、「戸」の一部と見なされ、語源的にはヨーロッパ語のそれと極めて似通った意味を持つものだったことがわかる。

 このことはもうひとつの重要なことを私たちに教えてくれる。今日「窓」というと、だれでもがガラス窓を連想することだろう。だが、五千年におよぶガラスの歴史のなかで、透明な板ガラスの歴史はいまだ二千年に過ぎず、ローマ時代のこと。西暦七九年にヴェスヴィオ火山の溶岩に呑まれて死滅したポンペイの浴場跡から出土の鉛枠にはめこまれたガラス窓が、現存する世界最古の窓ガラスだということである。(・・・)

 しかしながら、ヨーロッパのガラス窓の歴史はそれから一千年以上の長い空白の期間を経なければならなかった。そもそもガラスの製法自体がごく限られた職人たちの間で伝承されや、いわば門外不出の秘伝であって、ヴェネツィアなどの特定の地域でかろうじて生きながらえていたのである。(・・・)」

「当然のことながら、板ガラスの販路は絶大な権力と資金力を誇っていたカトリック教会と、一部の王侯貴族の独占物となる、古くは六、七世紀からビザンティウムの東方正教会でも一部使われていたというが、ガラス産業にとっての最大の得意先は十世紀以降の西方カトリック教会であった。元来キリスト教会においては、(・・・)光は神であり、神の言葉(ロゴス)である。神は光となって教会に顕現し、神の生命を与えるものである。この教義をもっとも有効に活用する方法を見出したのが、中世キリスト教会であった。彼らは天上から聖堂内に射し込む光を絢爛豪華に彩られたステンドグラスを濾過させることによって、神のロゴスへと変容できることを発見したのである。」

・神の目から人の目へ

「この天上から斜めに射す全能の神の視線を————ギリシャの昔プロメテウスがオリュンポスの神々から光を奪い取ったように————人間は神から奪取した。それが十四世紀フィレンツェの成し遂げた、まさに離れ業といってよい。ルネサンスをルネサンスたらしめる最大の偉業であった。その簒奪行為を端的に表現するとすれば、人間による見られる立場から、見る立場への視線の主権奪取である。上からの視線を平行の視線へと、ものを見る角度を自らの側に劇的に変更することによって、ルネサンス人は神の権威におびえることなく、自分の目で自由にものを見る喜びを発見したのである。そしてそれを可能にしたのは、ほかでもない素通しのガラス窓の発達であった。」

「ガラス窓とルネサンス以降の西洋近代自我とは、つねに持ちつ持たれつ協力しながら発達を続けてきたことだけを、ここでは強調しておきたい。」

・遠近描法にも窓が

「アルベルティが視覚というものを、目を頂点とし対象物の四角形の外郭を底辺とする光線のピラミッド型の立方体とみなしたことは、視覚論の歴史におけるたいへん重要な改革であった。ユークリッドにはじまり、彼の時代に至るまで、視覚は円錐形のものと受け止められてきたからである。これが古代からジョットの時代にいたるまでの軸式(axial)遠近法の基本であった。」

「円形の平面から方形の平面への変化。この変化を可能にしたのは、アルベルティが対象物を「開いた窓」や「透明なガラス」をはめてある方形の窓の形で視覚的に認識していたからにほかならない。だがこのような形で概括化できたのは、彼だけではなく、彼の周辺の人たちの生活のなかで、方形に区切られた窓枠を通してものを見るという習性がすっかり定着したものとなり、人々の間で特に意識せずとも自然に行われていたからこそ可能だったのである。人間の認識というものは、結局、われわれ個人の取り込んだ視覚的データに大きく依存している。中世の宗教画には情報が楕円形をした縦長のものが多いのは、つまりはその当時の画家の目がゴシック教会のアーチ形の高窓に慣れ親しんでいたからだろうし、ルネサンス以降の絵画のほとんどが、伝統的に四方形に仕切られた額縁に納められている理由も、実はこのような四角い窓を通して外界を捉えようとする。全般的なものの見方の変化にあるといってよいであろう。

 アルベルティの開発した遠近法が内包しているもうひとつの重要なことは、視線を物理的光線として捉え、かならずそれが消尽点に向かって収斂してゆく有限なものであるということ、つまり「見る」という行為のもっている物理的即物性を明確に示した点である。」

「ルネサンス以降、西洋世界は神を視線の権力の座から遠ざけ、替わりにあらゆるものを人間中心の「見る」ものと「見られる」ものという平等な相互関係に置き換える習慣を形成していった。」

・北国の《窓》

「しかしながら、イタリアの絵画の世界では、アルベルティの「開いた窓」の理論は、遠近法の発達を促しこそしたものの、《窓》そのものをモチーフにした作品の流行を促すきっかけとはならなかった。」

「要するに、方法論として「開かれた窓」は、彼らにとって必要不可欠な知識であったかもしれないが、イタリアの温暖な気候風土ではあえて窓を通してものを見る必要はなかったからである。」

「だが、北欧の国々ではそうはいかない。極寒の冬の長くて暗い日々、人々は外へ出ることもままならず、日中でも部屋にランプの明かりをともし、温かい暖炉のぬくもりのなかで、ときに窓にすがって外に向かって募る思いを吐き出し、ときに窓辺に座って日向ぼっこをしながら、ひたすら春の到来を待ちわびてきたことだろう。そして春が来て緑が再び萌え出るころともなれば、温かい日差しのなか、窓を開放し、自然の息吹を胸いっぱいに味わう。北国おいては、十五世紀以降のガラス窓の普及は、そのような季節の移ろいを窓越しに、目や肌を通して感覚的に味わうという習性をいっそう助長したはずだ。

 そしてその普及の原因となったのは、十五世紀以降の北欧諸国における急速な資本主義経済と都市の発達だった。」

・二つの《窓》

・《窓》のイコノロジー

「《窓》という言葉の使い方であるが、『視線の歴史』のなかで私はこう言ったことを記憶している。「ここで私が《窓》というとき、それは個々具体的な窓を指すというより、むしろそれぞれの時代時代の「窓」という言葉によって喚起される意識活動の総体を指示する記号として理解していただきたい」と。今でも基本的にその考えに変わりはないが、それをもう少しわかりやすく言い換えれば、単に建具としての窓だけでなく、記号「図像」あるいは「イコン」としての《窓》、私たちがふだん窓と等価のものと見なしているもののすべてを、楔形の括弧に入れた《窓》と表記したということになろう。それらを総称したのがすなわち本書のタイトルにある「イコノロジー」である。」

**(エピローグ 西洋の《窓》、日本の《窓》)

・西洋の《窓》

「西洋の歴史において十五世紀後半から十六世紀前半にかけてのガラス窓の誕生と発展は画期的な出来事だった。従来西洋の建物には木造にせよ石造にせよ基本的に窓はあってもその窓は板張りか油紙が張られたものだった。」

「十五世紀の後半ごろから、平板素通しの窓ガラスがヨーロッパ各所に普及し始め、相変わらず贅沢品ではあったが十六世紀半ばごろには一般中流家庭にまで普及するようになる。次第にガラス窓を通して世間を見、時に窓越しに外の世界と交流する機会を持つようになったのである。」

「このことが自我の成長・発達に大きく貢献することになったと言ったら言い過ぎだろうか。私はそうは思わない。素通しのガラス窓は板戸と異なり、視覚を介して内界と下界を明確に分別する。居ながらにして自者と他者を弁別し、二次元の世界を認識させるのである。自分は窓の外の世界とははっきり次元を異にする存在である。どう異なるか、人間がそれを、考え始めたとき、それが自我の誕生する時なのであり。あのデューラーの自画像の自尊心に満ちたモデルの表情はまさしくこの時代の窓から生まれてきた強烈な自我意識を抱いた画家自身の表情である。レンブラントも青年のころから老人に至るまで多くの自画像を描いたが、(・・・)《窓辺でエッチング中のレンブラント》も同様な表情をしている。彼は人生折あるごとに自分の姿・表情を克明に描き続けた画家だった。自分はなにものかを問いつづけた画家だったのである。」

「その習性が逆に窓の中に閉じ込められている不自由感を生み出すようになるから人間というものは厄介な存在である。皮肉なことに窓の存在がやがてもだし難い自由への衝動を生み出すようになる。窓という障壁を取り払ってより自由な外の世界を味わいたいという衝動、それが十八世紀末からのロマン主義の運動に連なってゆくのである。フリードリヒの一連の《窓》をモチーフにした絵画は囚われの人間の解放への限りない憧憬である。」

「こうした行き詰まった状況から脱却する知恵をひねり出してきたのは二十世紀絵画であった。彼らはその難局を打開する手段として窓を認識の手段として用いるのではなく、厄介者の《窓》を客観化し、絵画中の独立したモチーフとして用いることを発案する。T・S・エリオットの言う「目的対象物」(objective correlative)として活用しようとしたのである。彼らは《窓》を外の景色の一部、あるいは室内装飾の一部に換骨してしまうのである。もはたそこには自者と他者との対立を巡っての厄介な論争もない。画家の描くアートとなりきることである。さらにそれが進化すれば、デュシャンやマグリットの絵画に見るように《窓》そのものが絵画の主題となり、人間の様々な矛盾に満ちた状況を皮肉る暗喩を果たすことになる。だが考えようによっては、これは《窓》が人間の意識構造の中でいかにいかに重要な位置を占めているかの証拠であろう。西洋的な自我を背負った人間は、具体的な窓が存在する限り《窓》を意識の埒外に追い出すことはけっしてできないのである。これはいわば西洋人の宿業とも言えるかもしれない。」

・日本の《窓》

「日本の伝統的家屋は神社仏閣を含めて原則的には窓を置かない。窓の代わりに蔀(しとみ)と言って多くの場合上下二枚の板戸からなり上の部分を昼間は金物で吊り上げたり、棒で持ち上げたりして支え、それによって外光と空気の流通をはかり、いわゆる「間戸」(「窓」の古語)、雨戸の原形である。」

「そのことが日本人の意識構造に大きく影響を与えることになった。蔀を開ければそこに自然が、街並みが控えている。遮るもののない絶えざる自然や人的な交流が待ち構えている。そこには自意識云々を論じる場所も機会もない。人間は外界と一体となり、理想的に言えば漱石流のいわゆる「則天去私」、「無我」の精神が覚醒されるようになるのである。そして自然流れで自然の中の美なるもの、力あるもの、偉大なるものをひたすら崇敬し、それを神として奉った。当然のこと神は無数にあった。西洋のように窓外にこの世界から超絶した絶対無二に神の存在を思い描くようなことはまったくなかった。

 このような独特の世界観、宗教観を持って何百年、いや何千年もの間、外の世界からの影響に曝されることもほとんどないままに生きてきた日本人である。明治に入って西洋からの外圧に曝された時、素通しのガラス窓が彼らの意識にいかなる甚大な影響を及ぼすことになったか想像に余りある。そしてその典型的事例として夏目漱石を思い浮かべるのである。明治の知性がいかに西洋文明の急流に遭遇し、その流れの中で苦しんだか。彼こそその影響をまともに受け、受容しようと努めたが果たせずに苦しみぬいた知性人の典型だった。」

「積年の病魔に苦しめられながら、彼は西洋的自我との和解を模索し続けた。それには改めて過去に回帰すること、過去の自分を再発見することである。窓と壁だけの密室とどう和解したらよいか。そして彼の晩年に過去の思い出を綴ったエッセイが多く見られるのは、その表れであろう。彼の最晩年の作品に『硝子戸の中』といういかにもそれを象徴するかのようなエッセイがある。題名からして暗示的である。山房の窓の中に引き籠もった作者が過去・現在の身にまつわる思い出の数々をエピソード風に書き綴ったものであるが、病身の作者がガラス戸の中から窓外の世界を眺めつつ思い出に耽るという構図がなにか西洋のロマン主義絵画を彷彿とさせるものがある。出たくても出られない。おそらく漱石もそんなロマンティック・アイロニーを心に抱きつつ外の世界を眺めていたのではないだろうか。

 漱石の辿った人生は明治維新以降日本が歩んだ道程の縮図のようなものだった。」

「だが明治時代が進むにつれて日本がガラス窓を受容するのと平行して、漱石のように苦しまずに無意識のうちに自然と、日本人の精神も構造的変化を遂げ両者を融合できるようになっていった。

 とは言うものの果たして日本人の美意識が西洋人のそれに訓化した結果そうなったかというと、それには疑問の余地が残る。私は不詳にして日本画に詳しくないが、明治以降の日本絵画を私なりの目で観察するに、どうも《窓》をモチーフにした作品はほとんど見かけない。これはどうしたことか。マティスやボナールと同時代に活躍し、かつパリに留学して当時の美術の枠を学んだはずの日本人画家にしてそうなのがどうにも不思議でならない。この《窓》に寄せる関心のズレ、この美的関心のずれをどう理解したらよいか。」

○荻野昌利(おぎの・まさとし)
1933年、横浜市生まれ。東京教育大学卒業。東京教育大学大学院修士課程修了。文学博士(名古屋大学)。南山大学大学院教授を経て、南山大学名誉教授。日本英文学会会員・評議員・編集委員。日本ヴィクトリア朝文化研究学会理事・同会長。著書には『暗黒への旅立ち』(名古屋大学出版会、1987)『さまよえる旅人たち』(研究社出版、1996)『視線の歴史』(世界思想社、2004)『歴史を〈読む〉』(英宝社、2005)『ヴィクトリア朝筆禍事件始末記』(英宝社、2007)『小説空間を読む』(英宝社、2009)『文化とはなにか』(大阪教育図書、2021)『文化とはなにか追考』(大阪教育図書、2023)、訳書に『ミドルマーチ』(G・エリオット著、大阪教育図書、2020)『エゴイスト』(G・メレディス、大阪教育図書、2023)等がある。

いいなと思ったら応援しよう!