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渡辺祐真「世界文学の大冒険 連載第13回」人は苦しみからいかに解放されるのか〜初期仏教の仏典『ジャータカ』『スッタニパータ』『ダンマパダ』〜(『文学界』2026年1月号)

☆mediopos4051(2025.12.22)

■渡辺祐真
 「世界文学の大冒険 連載第13回」
 人は苦しみからいかに解放されるのか
 〜初期仏教の仏典『ジャータカ』
 『スッタニパータ』『ダンマパダ』〜
 (『文学界』2026年1月号)

□松本照敬『ジャータカ 仏陀の前世の物語』
  (角川ソフィア文庫 2019/3)
□『スッタニパータ 仏陀の言葉』
  (今枝由郎訳 光文社古典新訳文庫 2022/3)
□『ダンマパダ ブッダ 真理の言葉』
  (今枝由郎訳 光文社古典新訳文庫 – 2023/6)

渡辺祐真の連載「世界文学の大冒険」
前回の第12回(mediopos3977/2025.10.9.)では
「最初期の仏教経典」がとりあげられたが
第13回でも引き続き「初期仏教」について

日本人には『般若心経』や『法華経』など
大乗仏教の経とその教えが一般的に知られているが
初期仏教やその仏典については馴染みのないことが多い

初期仏教というのは釈尊の死後
その弟子たちやその弟子たちによって発展した
最初期の仏教であり
代表的な仏典には『スッタニパータ』や
『ダンマパダ(法句経)』がある

その初期仏教において
仏教の究極的な目標は
「苦」を取り除くことにあったが
初期仏教の言語であるパーリ語やサンスクリット語では
「苦」は「困難がある」「うまくいかない」
といった意味の「ドゥッカ」である

初期仏教ではその「苦」を取り除くために
苦を苦にしているのは自分自身だからということで
「苦を認識している自分に目を向ける」

そしてそのために
自分の「身体、言葉、心」(身・口・意)を調えることで
ニルヴァーナ(涅槃)や悟りを得ようとするのだが
そのためには何度も生涯をやり直す「輪廻転生」のなかで
みずからを磨いていかなければならない

しかし釈尊ですら悟りを得るために
何度も輪廻転生を繰り返したいうことから
その前世のエピソードが集められたのが
『ジャータカ』である

その成立は物語によってさまざまな時期にわたっているが
古いものは紀元前三世紀以前に遡る

『ジャータカ』には五四七の物語が収録され
それぞれの物語は
「現在の物語(導入)」「過去の物語(メイン)」
そして「再び現在の物語(結び)」の三部で構成され
「烏と孔雀」のほか
『今昔物語』にも収められている「わが身を捧げたウサギ」
「玉虫厨子」の絵画で知られる「捨身飼虎」などがある

釈尊自身の言葉を記録したものとしては
紀元前三〜紀元前二世紀には
原型が成立されていたと考えられている
『スッタニパータ』や『ダンマパダ』がある

『スッタニパータ』は当時流布していた
釈尊の主要な言葉や対話などであり
『ダンマパダ』はテーマに沿って集められたもの

『スッタニパータ』では
「犀の角」と題されている作品が有名であり

ほとんどが
「犀の一角のようにただ独りで歩め」
で結ばれているが

そこには
自分の心をいかに磨くかに焦点を当てた
初期仏教やそれを継いだ上座部仏教の特徴が
よくあらわれている

大乗仏教が自分よりも人々を救う教えであるのに対し
初期仏教は「自分のことも救えないような人間が、
どうして他人のことを救えるのかという思い」があり
そのことが「犀の角」という言葉であらわされている

この教えは『ダンマパダ』では
このように述べられている

 自分こそが自分の主である。
 他人がどうして主でありえようか。
 自制したならば、得がたき主を得る。

この『ダンマパダ』だが
「ダンマ」は「人間の真理」
「パダ」は「ことば」を意味している
漢訳はその意味をあらわす「法句経」

冒頭にある「対句」と題された作品は次のとおり

 心はすべてのものごとに先立ち、
 すべてをつくり出し、すべてを左右する。
 邪な心で話し、行動する人には、苦しみが付き従う。
 あたかも、荷車を牽く牛の足跡の上を車輪が付き従うように。

 心はすべてのものごとに先立ち、
 すべてをつくり出し、すべてを左右する。
 清らかな心から話し、行動する人には、幸せが付き従う。
 あたかも、影が身体を離れることがないように。

また初期仏教の特徴をよく表している言葉には
次のようなものがある

 感覚器官を制御せず、食事を節制せず、
 官能的快楽を追い求め、
 放逸に流れる人は、悪魔にうちのめされる。
 あたかも、根の腐った樹木が風に倒されるように、

 感覚器官をよく制御し食事を節制し、
 官能的快楽を追い求めず、
 信仰を持ち、勤しみ励む人は、悪魔にうちのめされない。
 あたかも、岩山が風にゆるがないように。

渡辺は
「初期仏教は、我々日本人に馴染み深い大乗仏教に比べると、
宗教というより、哲学のような印象を受ける」
としているが

大乗仏典のような
信仰ありきで仏様に救ってもらおうとするような
宗教的な教えよりも
初期仏教のこうしたわかりやすい言葉のほうが
「苦」から解放するために
「自分の心や体をほどよく律し、
世界への認識や自己の心を整える」ことで
「この世の「苦」から解放される」ための
大切な導きとなりそうである

『ダンマパダ』では「苦」から解放されると
次のような境地にたどり着けるとしている

 大地のように動じることがなく、
 固く閉ざされた門のように慎み深く、
 汚れた泥のない湖のように清い人、
 彼はもはや輪廻の世界にさまよわない。

 正しい叡智によって解放され、安らかな人、
 彼は心も言葉も行いもおだやかである。

釈尊から二千五百年
わたしたちは
こうした言葉を導きとして
どれほど智慧を得ることができてきただろうか

ニルヴァーナ(涅槃)をもとめる修行だとして
この世をなおざりにしたり
「悟り」と称して偏向した教えをつくりだしたり
そんなこともいまだに多いのではないか

それよりもやはり原点は
こうした
「苦を認識している自分に目を向ける」
そのことにあることを
初期仏教の仏典はわかりやすい言葉で伝えてくれている

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