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レポート|経験を重ねるーこの一年、珠洲に通った映像記録を見て、話す

2024年1月の能登半島地震、同年9月の豪雨と、たび重なる災害を経験した能登半島。その半島の先端にある珠洲市。映像作家の阿部修一郎さんは2024年8月から定期的に現地へ通い、映像での記録を続けています。

2025年8月22日。阿部さんが撮影した映像記録を見ながら、この一年の珠洲での経験を振り返る上映とトークを開催しました。聞き手は、東日本大震災後に被災したまちの風景を撮り続けてきた、映像作家の小森はるかさん。

被災地で何にカメラを向け、どのように記録を続けるのか。その記録を、どう扱っていけばいいのか。“これまで”の記録をきっかけに、能登と東北、ふたつの経験を重ね合わせながら、能登にかかわり続けるための“これから”を考えました。本記事では、当日のレポートをお届けします。

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▼ イベント詳細は以下のリンク先よりご覧ください。


佐藤 今日は「経験を重ねる この一年、珠洲に通った映像記録を見て、話す」というタイトルで、昨年の能登半島地震と豪雨の被害を受けた石川県珠洲市の映像記録を撮り続けている阿部修一郎さんの映像を見ながら、いろいろと話をしていきたいと思っています。聞き手は、映像作家の小森はるかさんです。

私は本日の進行を務めさせていただきます「noto records」の佐藤と申します。本日、みなさんのお手元にはA3ふたつ折りの資料をお渡ししております。表面にはチラシと同じ情報、裏面には登壇者のプロフィールを掲載しています。阿部さんがどういうふうに珠洲に通っていたかということと、小森さんの東日本大震災後の動きを掲載しています。 

最初に今回の趣旨を説明させていただきます。noto recordsとは震災と豪雨を経験した能登に対して記録や表現活動を通じてかかわるプラットフォームとしてつくった活動です。目的は大きいですが、細々と活動しており、対面でのイベントは今回が初めてになります。

もともと私自身は、2011年の東日本大震災のあとに、東京都が芸術文化活動を通じて被災地支援をする「Art Support Tohoku-Tokyo」という事業を担当していました。10年ほど東京から東北に通い、そのなかで小森さんとも知り合いました。

能登半島の地震が起こったあと、小森さんとアートユニットとして活動もされている瀬尾夏美さんと、東日本大震災のときに比べて、能登では圧倒的に地域の外からかかわっていく人が少ないのではないかと話していました。そして、震災のあと、最初は何かをつくりに行くというよりは、とにかく現場に入って記録をとったり、その場に「いる」ということからはじめていったりしていたことを思い出しました。

2011年3月11日に東日本大震災が発生したあと、小森さんは瀬尾さんと一緒に沿岸部へボランティアに通うことからはじめて、やがて岩手県陸前高田市に行き着きます。一方、2011年5月3日に宮城県仙台市の公共施設である「せんだいメディアテーク」は市民の手によって記録を残す活動である「3がつ11にちをわすれないためにセンター」(以下、わすれン!)を立ち上げています。ここは地域の外からかかわるアーティストや表現者が集まる場所にもなっていました。わすれン!にかかわり、「記録者」としての役割が生まれることで、被害の大きかった沿岸部に地域の外から訪れた人たちもかかわることができるようになったわけです。

東日本大震災のときはプラットフォームを使う側にいたけれど、今度は、そういうものを自分たちでつくっていくことが必要なんじゃないかと考えたのが、noto recordsを立ち上げたきっかけです。施設をもっているわけでもなく、大きな何かができるわけではないけれど、いまは現地に行く人をサポートすること、そして、帰ってきたら、それぞれの場所で、こうやって報告会のような場を開くことからはじめています。阿部さんも、その一人です。まだかたちになっていなくても、まずは、いま、どういう状況なのかをいろんな人たちと共有する場をつくる。そこから、また次に能登へ行く人が増えてくる……そんなことを後押しできればと思っています。

阿部さんは1年前から石川県の珠洲市に通い、映像での記録を続けています。ただ、それはまだ記録であり、それが何であるのか、これからどうまとめていくかはご本人も不明瞭なものだといいます。

聞き手の小森さんについては、みなさん多くの方がご存知だと思いますが、東日本大震災のあとに現地に通い、その記録をもとに、いくつもの作品を発表されています。小森さんのたどってきた道のりに重ねてみると、阿部さんの経験やいまの状況を確認する手がかりになるのではないか。今回のタイトルである「経験を重ねる」は、そう考えてつけたものです。阿部さんに限らず、能登で記録を続け、表現につなげようとしている人たちが、こうした対話を必要とするタイミングを迎えているのではないかとも思っています。こんな問題意識を小森さんと話すことから今日この場を設定しました。

これから今日に合わせて阿部さんが編集した3つの記録映像を、みなさんと見ていきます。その合間にいろいろと話をしていきたいと思います。 

小森 私自身、東日本大震災のあとに記録をはじめて、「作品をつくる」ことが、なかなか前に進まないことがありました。作品を発表することは、とても勇気がいることでした。わすれン!では、編集が途中の段階の記録をみんなで一緒に見たり、撮影している人たち同士で話したり、それを少しだけオープンにした場をやってみたりしていたのですが、そうしたサポートが、後々、作品をつくっていくことの力になりました。なので、今回は自分が、そういう場をつくりたいと思いました。私より若い世代の人たちが能登の記録に動きはじめています。それを続けてほしいということ、なにより、そこで撮っているものを私が見たいということがあります。阿部さん、今日はよろしくお願いします。 

佐藤 阿部さん、こうして能登の映像記録をスクリーンで見るのは、今日がはじめてですか?

阿部 そうですね。

佐藤 なるほど。では、映像を見る前に、自己紹介と阿部さんが珠洲に行かれたきっかけから、まずはお話しいただけますか?

左から登壇者の佐藤、阿部、小森

阿部 今日はよろしくお願いします。阿部修一郎です。いまは大学院に通いながら、映像作品やドキュメンタリーの短編映画をつくっています。昨年の8月から能登半島の珠洲市に通うようになったのですが、そのきっかけはいくつかありました。

もともと僕は青森県の青森市出身で、能登半島地震の前に、珠洲市はおろか、石川県にも訪れたことがありませんでした。そのなかで最初のきっかけになったのは、私が去年の6月頃から働いている高円寺の本屋「ヤンヤン」で鹿野桃香さんの『地震日記』に触れたことでした。地震が起こった2024年1月1日から1月5日まで5日間、珠洲市で被災した経験を記した日記を個人で出版されたものです。ヤンヤンには、出版されてからすぐ店頭に置かれていました。

1月1日は元旦で、僕は青森の実家に帰っていました。当然、現地で被災はしていませんでしたが、そのとき青森で乗っていた電車が止まりました。青森も日本海側の津波が少し来ていたはずですが、そのときは、どこで地震があったのかも分かりませんでした。あとで話を聞いたら、自分のいるところからは遠いと感じる場所で、地震が起こっていた。でも、遠く離れた場所であっても、乗っていた電車が止まるような影響を受けていたように、潜在的にそこに対する関心というか意識はあったのだと思います。

また『地震日記』を知った同じ週の大学院のゼミで、珠洲の奥能登国際芸術祭で働いたあとに大学院に入った同期が、珠洲の話をしたんです。1週間に2回、同じ珠洲の話に触れることになりました。それで、何か縁があると思いました。芸術祭で働いていた、その同期に「珠洲に行ってみたい」と話して、2024年8月1日に初めて珠洲を訪れました。それから、ちょうど1年になりますね。

小森 そのときはカメラを持って行ったんですか?

阿部 はい、持って行きました。

小森 何かを記録をしようと?

阿部 そうですね……。珠洲に行く以前に撮っていた作品が、自分の実家が解体されるものでした。解体が決まったところから、解体されるところまでを撮りました。それもあって、家や空間が変わっていくことへの関心が、ずっとありました。ただ、カメラを持ちつつも、初めて行く土地ですし、撮り方も定まらず、見せられるようなものは撮れていないと思います。たとえば、崩れた家を、最初は撮ったりはしていました。やはり外から行って、分かりやすく目に飛び込んでくるのは直接被害を受けたと思われる場所でしたから。でも、だんだん、そういう風景を撮らなくなっていきましたね。

小森 これから見る映像には、8月に行ったときの映像は入っていましたっけ?

阿部 なかったと思います。最初に珠洲を訪れたときには、一緒に行った大学院の同期に、彼の現地の知人とつないでもらいました。そこで出会った人と話しているなかで「この辺の風景がどんどん変わってしまい、住宅展示場になってしまうんじゃないか」、「外から来た人だからこそ撮れるものがあるんじゃないか」ということばが出てきました。それで、翌月9月に今度はひとりで11日間行って、現地の風景を改めて撮りはじめました。そのときの映像からあるはずです。

佐藤 能登の風景をご存知ない方もいらっしゃると思います。それを共有ためにも、まずは1本目の映像を見てみましょうか?

阿部 そうですね。ひとつ目の映像は、ストーリー的なものがあるというよりは、淡々と珠洲の風景を撮影したものです。珠洲市は10地区に分かれているのですが、地区ごとに1分くらいずつ撮影した映像です。

佐藤 それでは、見てみましょう。

阿部修一郎《各地区の風景》(2025年、12分51秒) 

佐藤 1年目のお祭りがあって、また翌年のお祭りがやってくる。珠洲市の各地区の風景の記録であり、1年間という時間の記録でもありましたね。

阿部 上映前にも触れたのですが、珠洲市は10地区に分かれています。配布資料に手書きの地図が載っていますが、宝立、上戸、飯田、直、正院、蛸島、三崎、日置、若山、大谷です。

石川県珠洲市の地名(画:kiyama yui)

珠洲市は1954年に誕生します。誕生前は9町村。大谷と日置はもともと西海村だったので、珠洲市になる前は9町村でした。いまも、公民館はこの地区ごとに分かれており、祭りはそれぞれの地区で行われています。実際には地区のなかに細分化された集落があります。全体でおよそ160の集落があり、それぞれに祭りが行われるなど、行政区のなかに、そうした区分が生きています。いま流した映像には、3つのお祭りが入っていました。去年撮影した蛸島のお祭りも、そのひとつですが、これは小森さんも一緒に行きましたね? 

小森 そうですね。

阿部 ほかに先月撮った飯田のお祭り、あとは3週間前くらいに撮った宝立の見附島でもお祭りがありました。地区や集落ごとにお祭りがあり、それぞれに文化がある。風景としては、まちがあり、里山里海がある。

佐藤 この地図の周りは海ですよね?

阿部 そうですね。上の大谷、日置が面しているのが日本海側に面していて、南側の飯田、直、正院、蛸島、宝立が面しているのが富山湾です。富山湾に面しているほうは、「内側・外側」の「内」と書いて「内浦」。大谷や日置の日本海に面しているほうが「外側」の「外」と書いて「外浦」。外浦と内浦では海の様子というか、表情が全然違います。いわゆる、荒々しい日本海側の海と、少し穏やかな海。その暮らしも全く異なったものです。

佐藤 能登半島とは……こうでしたっけ?(左手、親指を上に立てて、親指を少し下向きに折り曲げ、他の指を閉じる)

小森 そうですね(笑)

佐藤 日本列島から突き出した能登半島が親指で、その先端が珠洲市。

阿部 そうですね。先っぽのところです。

小森 珠洲市内でも地形の違いによって、被災の状況が違いましたよね。

阿部 違いましたね。土砂災害が集中した地域があれば、津波被害があった地域があったり。外浦側では土地の隆起が起きていましたね。

小森 外浦側で海底から土地が隆起してきたものですね。

佐藤 映像では海岸沿いに白い地面が見える風景がありましたね。

阿部 そうです。

小森 逆に内浦のほうは地盤沈下し、津波の被害があった……。私も現地に行かないと全然分かりませんでした、ひとくくりに珠洲とは言えないですね。

阿部 10地区がある珠洲市の映像記録と言いつつ、僕自身も撮っている風景が偏っていました。何カットもある地区があれば、1カットしか撮ってないところもある。編集していて改めて気づいたことでした。全然撮ってない地区もありました。特に上戸は全然撮ってなかった……。

佐藤 なぜ、偏りが出来たのでしょうか?

阿部 現地で出会う人とのかかわりのなかで撮っているうちに、知らず知らずのうちに偏っていったのだと思います。明確に「これを撮ろう」となるのは出会いが大きいので。関係する人が多くいる内浦側を中心に撮っていたり、特に正院地区は、あとでも触れる奥能登珠洲ヤッサープロジェクト(以下、ヤッサープロジェクト)やスズレコードセンター関係の依頼で撮る機会があったため量がすごく多くなりました。

佐藤 小森さん、どうでしたか?

小森 先ほど、被災した家や津波を受けた場所のように直接的な被害を受けた場所を撮ることへの抵抗があったとお話しされていましたが、想像以上にそれを撮っていない……(笑)

阿部 撮ったけど見せてないというのもあります(笑)

小森 なるほど。撮っているけど編集でカットしていると……。音も全然うるさくない。それも地域の状況として、いろんな理由はあると思うのですが、すごく静かで。被災した跡の風景を見ているという気にまったくならない。むしろ、そういうところを選んで、見てほしいと、阿部さんは編集しているのだと思いました。

阿部 今日の上映会という場ありきという編集だったので。はじめは、映像を見る人が知らないかもしれない、被災したまちの風景をちゃんと見せようと思いました。でも、地震があったことだけが、そのまちのアイデンティティではない。もちろん、被災という出来事も土地に積み重ねられた歴史の一部ではあるけれど、それを全面に出すことには抵抗感がありました。このあとの映像では、被災が目に見えてはっきりと分かりますが、この映像ではこうした編集を選択しました。

佐藤 今日のこの場が能登半島地震の記録をテーマにしているから、そこに目を向けることができるのだけど、それがないと、被災の痕跡が見つけられないくらい静かな地域の風景が記録されている映像でしたね。

ちなみに小森さん、東日本大震災から1年後の頃は、今日のような報告会はやっていましたか?

小森 そうですね。報告会は1年が経つ前からやっていました。

 佐藤 そのときはどんな映像を出していたのですか?

小森 結局、瀬尾さんと話して、報告会では「映像を見せるのはやめよう」となりました。おそらく、阿部さんと同じ理由だと思います。「被災した地域のいまは、こうですよ」と言って、そのイメージを定着させたくないという気持ちが、当時はとても強くありました。写真は少し見せましたが、映像は使わなかったですね。

でも、撮影はやはり、どうしてもというか、はっきり被災したと分かるような風景ばかり撮っていたと思います。それを撮ることしかできなかった。それを撮るまでにも時間はかかったんですけど、結局、それを撮らないとはじまらないなという感じがありました。阿部さんの映像を見ていて、自分よりよっぽど、何を撮りたいかがはっきりしているなと思いました。

小森はるか、瀬尾なつみ「東京の人へ、東北報告会」(2011年4月25日、3331 Arts Chiyoda)

阿部 先ほどの映像には映っていなかったですけど、更地になっているところが多く、それが被災の跡だと感じています。なんにもない場所に、たくさんのセイタカアワダチソウが生えている。壊れた建物はないけれど、地震の跡だというのは確かで、そういった場所はカメラを向けるようにしています。今年の10月までに石川県は公費解体を終わらせようとして、珠洲はもう85%終わっています。カメラを向けようにも、向ける建物が少なくなっているというのもありますね。

小森 東日本大震災と比べると、公費解体がかなり遅かったのではないかと感じています。震災から半年後の能登に行ったとき、崩れたままの家が多くて、1月1日からこの風景が、ずっと同じまま続いていたんだということにショックを受けました。

でも、片付けがはじまると速い。まちの人たちも「家屋がなくなっていくと寂しい」と話していましたが、そのときに(次に見る映像にあるように)阿部さんが建物を撮っておかないといけないという気持ちになっていくのは想像がつきます。ずっとこのままだったものが急になくなっていく。そういう変化がありましたよね。 

阿部 でしたね。このあと流す映像に写っている建物は、まだあまり現地の道を覚えていない時期に撮ったものです。その家に行くためには、この看板がある家を曲がればいいんだって覚えていたら、翌月には、その目印の家がなくなって迷子になる、みたいなことになっていた時期のものです。

佐藤 では、その映像を見てみましょうか。

阿部修一郎《坂本家酒蔵の記録》(2025年、4分59秒)

 佐藤 《坂本家酒造の記録》をご覧いただきました。

今回の配布資料にも入れましたが、災害を語ろうとすると、震度、マグニチュードに加えて、亡くなった方の数、いわゆる人的被害が話題にあがります。もう一つ、被害を表現するうえで、家の全壊、半壊、一部破損、一部損壊といった、住まいを基準とした物的な被害も、おもな指標として使われます。家が壊れる、その壊れた家をどうするのか。公費解体に申請するが、被害の判定によって対応が変わるなど、震災後の話題として「家」は大きいものだと思います。この家についての記録映像だと思いますが、先ほどの風景の記録のように、結局、映像内で家は解体されていない。

小森 そうですね。解体してなかったですよね。

阿部 単純に解体する日に珠洲にいなかったということがあります。

小森 むしろ、記録としては解体される前の家を撮っておこうと思ったのですか?

阿部 そうですね。そもそも、僕自身が家を撮りたいという動機があったのですが、珠洲で解体前の家を記録していこうという動きもあって。その依頼を受けて撮ったものでもあります。

佐藤 先ほど話しかけていた、スズレコードセンターにつながっていく動きですね。

阿部 もともと珠洲で開催していた奥能登国際芸術祭をやっていた人たちが中心になって、ヤッサープロジェクトが震災後に立ち上がっていました。そのなかで地域の人から記録を残したいという依頼や相談を受ける活動として「出張レコード」がありました。のちにスズレコードセンターにつながるものですね。坂本さんの酒蔵を壊してしまうという話があって、ヤッサープロジェクトから委託を受けるかたちで今年の2月に撮影をしました。

佐藤 それは阿部さんが珠洲に通い続けている理由ともかかわっているのでしょうか?

阿部 通い続ける大きなきっかけは、坂本さんの酒蔵の記録とは別に、ヤッサープロジェクトから現地の写真を含めた記録撮影の仕事(市内 10 地区の定点観測)を受けたことがあります。今年は1月から5月まで、その仕事があることで毎月通えていました。仕事とはいえ、個人的にも変わっていく風景を見続けていると、いつまでかはわからないけれど、一度かかわってしまったならば行き続けないといけないなと思うようになりました。去年、珠洲に訪れたとき、映像も撮って、そこで行かなくなるのが、すごく半端だなと感じましたし、そのときに撮った映像も、半端に切り取ったかたちでしか見せられないようなものでしたし……。 

佐藤 どこかのタイミングで現地に行く役割を見つけたようなことがあったんですか? 

阿部 そうですね。仕事という意味での役割でもありますが、途中で終わるのは無責任だな、と。仕事として記録を納める、そうすることで現地に返すことは当然の役割だと思います。でも、同時に作家という立場があることも考えました。外に対して発信する立場であるからこそ、途中で行かなくなるのはかかわり方として不誠実だな、と。言い方が、とても消極的に聞こえるかもしれませんが、正直、現地で友達も増えてきて、楽しくやれるようになってきたこともあります。

スズレコードセンター(撮影:阿部修一郎)

小森 珠洲では家を撮ってほしいという方が、たくさんいるなと感じていますか?

阿部 何軒あるかという数はなんとも言えないですが、目と耳が届く範囲には絶えずいらっしゃいます。ぜんぜん撮れていないんですけれど、継続的にそんな話を聞いています。

小森 撮ってほしいという方々がいるから、それに応えたい気持ちなのだろうと、映像を見ていて思います。阿部さんなりの作家としての視点と、その人の記録を残してあげたいという気持ちがわかります。

阿部 あまり自分からは撮りに行かないからかもしれません。頼まれることによって、初めてできることが間違いなくある。自分が主体で撮ると、外からの人間として目が行くところが、どうしてもある気がします。さっきから話しているような、いわゆる被災地的な場所には目が行くけれど、それだけやっていると、その場所から切り離された自分目線の映像にしかならない。頼まれたり、かかわりあったり、その先にないと撮れないものがあるし、それがないと外には出せるものにならないのではないかと……。

小森 頼まれるポジションにいることがとても大事なのだと思います。そもそも、通っていないと、頼まれもしないわけですから。阿部さんなりに、さまざまな理由があって通っていたとは思うんですけど、そのなかで顔を見せているうちに「よく来てるな」と関係性も変わっていったからこそ、いろんなことがはじまったんだろうなと思います。その意味では、次に見る映像が通い続けたなかで最新の映像ですか?

佐藤 また、家の話ですね。

 阿部 そうですね。次は少し長めで、20分ほどあります。映像の内容は、タイトル(澤野麹味噌店の解体)で言ってしまっているのですが、お味噌屋さんの解体の様子を撮ったものです。 

佐藤 これは阿部さん自身が通い続けたことで生まれたかかわりから撮ったものですか?

阿部 もともとは坂本家酒蔵の撮影と同じく、「出張レコード」として仕事の依頼が起点でしたが、そこから徐々に自分でカメラを向けたいものに向けつつ撮ったものです。

阿部修一郎《澤野麹味噌店の解体》(2025年、21分18秒)
※ 本編は、会場での上映のみとなります。

佐藤 これで今日、阿部さんにお持ちいただいた映像は、すべてご覧いただきました。

小森 いまの映像について、もうちょっと聞いてもいいですか?

阿部 きっかけから話すと、これもヤッサープロジェクト関連の依頼からはじまったものです。今年の3月に澤野麹味噌店さんの家自体の記録と、解体作業の記録映像を撮りました。先ほどの酒蔵の記録との大きい違いは、そこにかかわっている人にカメラを向けるようになったことです。たまたま撮れてしまった映像が多いのも特徴です。はじめは物としての家を撮ろうとしていました。いつか人にもカメラを向けたいなと思っていましたが、まずは建物にカメラを向けました。そしたら、赤い部屋で(解体工事を行う瀬戸電気商会の)瀬戸さんがエアコンを外すシーンがあったじゃないですか、あれがたまたま撮れてしまった。あのときは、窓からの風景を撮ろうと思っていたのですが、思いがけず瀬戸さんが窓から入ってきたんですよね。

小森 瀬戸さんが急にクレーンで上がってきた(笑)

阿部 気まずいというか、どうしよう……と思いました。僕がいることを、瀬戸さんは知っていました。でも、あの時点では、まだ挨拶すらまともにしていないタイミングでした。いや、もうそのまま撮り続けてしまえと思って、十数分ほど撮り続けました。あれがターニングポイントでした。記録の仕方に、こういうのもありうると思うきっかけになりました。

解体の風景は家がなくなっていく過程である。それと同時に解体作業に携わっている人自身も、被災者であって仕事をしているわけです。ああやってエアコンを外したり、細々とした解体の作業をしたりする仕事の時間は、その土地での生活の時間でもある。瀬戸さんのお家を後半で映像に入れたのは、そういう理由もあります。

家の解体と生活の時間という二つの軸の重なりを見るなかで、生活の記録を撮るという意識でその場にかかわろうとすることによって、もう少し今までよりも広いものにカメラが向けやすくなるのかもと思うようになりました。澤野さんも解体される家を見て、その心中の実際はわかりませんが「ああやって屋根に上がること自体がすごいですよね」ということばを言っていましたが、仕事に取り組む生活の姿を映す方法もあるのではないか、そういう記録の向き合い方があるのではないかと思いました。 

《澤野麹味噌店の解体》の1シーンより

小森 面白い話を聞けましたね。解体というと、家を壊していくことや家主の気持ちに目が向いてしまうところがあると思います。でも、この映像では、エアコンを取り外している人たちの手作業や、それを見守っている人たちのことが映っていて、瓦の落ちる音も聞こえてくる。そうしたことが毎日の生活があり、時間が過ぎていることを感じさせてくれる20分でした。新鮮というか、いままで見たことがない記録だなと思いました。

阿部 ただ、この映像は現地で見せられるかは微妙なところです。現時点では、現地の外に伝える、現地の外で共有するほうがいいと思っています。澤野さんのお父さんは、自分の家の解体を見たくなくて、このときは金沢に行っていました。 

小森 現地では見せられないと思ったきっかけはあったんですか?

 阿部 坂本さんの映像は2月に撮って、3月に坂本さんたちにお見せしたのですが、「撮ってくれてありがとう」ということばがありつつ、いまはまだ「生々しくて見られない」ということばもいただきました。それがきっかけですね。現地では、まだ見せられる映像ではないと思っています。それもあって、いま東京で見ているわけなのですが。

ただ、いつか現地で見せられるものになるのかもしれない。そのときを考えると、地震ありきじゃない映像を撮っておきたいと思っています。家にしても、風景にしても、壊れていることありきでは撮らないようにしているのは、いずれ現地で共有する可能性を考慮しているところはあります。 

佐藤 現地で撮れば撮るほど、地震の前の生活が気になるということをおっしゃっていたと思います。映像でも出てきていましたが、能登半島では2024年1月1日の地震の前の年、2023年5月5日にも地震がありました。この場もそうですが、2024年の地震や豪雨の「後」と言ってしまうのですが、現地に行くほどに「前」の生活が見えてくることを、どう考えていますか? 

阿部 地震や豪雨そのものも自分の身体で直接経験していません。昨年の豪雨は9月21日からはじまり、23日まで雨が降りました。そのときは9月20日まで珠洲にいたので、ニアミスというか、雨と行き違いになってしまい、豪雨を体験していません。そういう意味でも、地震ありき、豪雨ありきの記録はどうしてもできないと思ってしまいます。

同じように「前」を想像はするけれど、やはりどうしてもわからないことが多いです。たとえば、小森さんが昔つくった映像では、写真を見ながら、みんなで会話しているシーンがあったと思います。そうしたかたちで、僕が前のことを語るのではなく、その場所の記憶を喚起させるものとして、人に見せられるものをつくっていきたい。そうやって、その場所にいる人たちに映像を返していきたい。そういう意味でも、地震ありきの映像にはあまりしないようにしています。 

小森 地震の前を知っているか、知らないか。私も撮影をするときには考えていました。知っていたら目を背けないで撮れるものを撮れていないんじゃないか、私がもともとは家やまちをつくっていたものを「瓦礫」だと思っているから撮れないんじゃないか……といったことは、よく思いました。前の風景を知っている人と一緒にまちを歩いていると「壊れている」と言う前に、「誰々さんちのなんとかの何々が……」みたいな話になる。そういう人と歩いていると撮れるものと、自分だけで撮ったものには違いがあるんです。本当に知らないから、ただ撮る、ということはできないと思いつつ、それを撮れるようになる必要があるかどうかもわからない。それでも、いまは辛くて見られないと言っている人たちが、これが残っていてよかったなと思えるものを撮っておきたいじゃないですか。それはもしかしたら、本当にただの瓦礫なのかもしれない。そんな考えを行ったり来たりしながら、自分なりに想像をして、いま撮れるものを残していくしかない。風景はあっという間に変わってしまうので、それに尽きるのだと思います。

佐藤 小森さんは東日本大震災の直後から現地で多くの映像記録を残されています。わすれン!のウェブサイトにデータがアーカイブされていますが、いくつかDVDにもなっています。この頃は「記録」というかたちで映像を残していますね。

そうした記録がベースとなりつつ、劇場公開作品として《息の跡》が2016年に出来る。このとき、震災から5年が経っています。最初の頃は作品としての公開が、いつか必要かもしれないけど、それがいつかはわからないという阿部さんの感覚に近いものが、小森さんにもあったに思うのですが、どこかで公開をしたほうがいいと切り替わったタイミングはありましたか?

小森 そうですね。私は、しばらく岩手県の陸前高田市にいましたが、復興工事が急激に加速した時期がありました。家屋の解体が一気にはじまり、震災後にずっと更地だった場所にまた土が盛られる。元の地面が見えなくなっていくなかで、被災地の風景が撮れないと悩んでいたけれど、その被災地の風景すらもなくなってしまうと感じました。それでは本当にここにあったことが誰にも伝わらなくなってしまうかもしれない。その状況に直面したときに、ただ記録として撮ることとは別の方法で、いまの風景や住む人たちが感じていることを残さなくてはいけないと思いました。それが「作品をつくらねば」と切り替わったことに結びついています。

私自身も、震災後の風景を喪失するという経験をしたことによって、「私から見たら、ここには何もないけど、みなさんにとっては何かあるんだ」と陸前高田の人たちが語ってくれた風景がなくなることの意味を、少しわかるようになったのかもしれないです。

それは上映する作品のなかに残らなくとも、映像を撮っておかないと気づかないことでした。あとは、その時点で陸前高田の方々とは2〜3年ぐらいのお付き合いになっていたので、一緒に作品をつくっていくことができるような関係性になっていたんだと思います。

佐藤 もともとの風景を知っている人としゃべっているところを撮るという方法は、小森はるか+瀬尾夏美としての作品のつくり方なのかなと思いました。瀬尾さんはカメラを持たず、誰かと歩いて、話を聞く。それを小森さんが映像を撮るという役割の違いは大事でしたか?

小森 大事だと思います。私は人の話を聞きたいということも、もちろんありますが、カメラを人に向けて、その人が見ている先を一緒に撮っておきたかった。つまり、カメラマンとして、そこにいたいんです。でも、聞き役とカメラマンの両方をやれないし、聞くという役割よりも、カメラを向けるのを優先することはしたくなくて、それをする勇気も持てなかった。私は今日はカメラマンなんで、と割り切ってその人の隣にいれないんです。そういう関係性の上で、カメラを向ける人ではなくて、小森としているんですよね。瀬尾さんと一緒に歩くと、自分が相手の話の全部を聞かなくてもよくなって、たとえば歩いているところを、すごく引いても撮れる。その人が何かを思い出している身体は離れていたほうが、ちゃんと伝わるように撮れることがあります。そういう風に「人が話しているところを撮る」ということを瀬尾さんと一緒にいたから試せたし、撮れるようになっていった気がします。それは二人組だからできたことですね。

佐藤 阿部さんの映像で家の瓦を落としているところを見ているシーンで、瓦の話をしている人(澤野さん)が指を差したほうにカメラが向くことがありましたね。そこにいる人の語りで視点が切り替わっていた。それが、その人にしか見えないものが垣間見えるようになっていることなのかもしれませんね。

小森 澤野さんの存在はとても大きかったですね。私も印象に残りました。阿部さんが見ているというよりは、澤野さんが見ているものを一緒に見せてもらえる時間になっていたように思います。 

阿部 あのとき、「一緒に何かをつくろう」と話し合ったりした上でいたわけではなくて。 

小森 そうなんですか。

阿部 「作品」という意味での「何かをつくろう」という意識を共有して一緒にいたわけではなくて。「作品」ではなくて「記録」をしようという意識でその場に一緒にいさせてもらいました。一緒にいた、というか、後ろから僕が勝手に付いていったみたいなかたちでした。 

小森 撮ってほしいと思っている人なのかと思いました。

阿部 もしかしたら、そうかもしれないですね。

佐藤 阿部さんは、これからも記録を撮り続けるでしょうし、どこかで作品を公開するタイミングを迎えるのだと思います。その道のりの途中で、今日は、みなさんと映像を共有したともいえます。阿部さんがこれから先に進んでいくなかで、東日本大震災後を歩んできた、ある意味で先輩ともいえる小森さんに、最後に何か聞きたいことはありますか?

阿部 記録を積み重ねていくなかで、記録であることと作品であることは重なる部分はありつつ、やはり別のことだと感じています。小森さんの初期の作品、たとえば、わすれン!に収めている映像であれば《米崎町のりんご農家の記録》であったり、ボランティアセンターのスタッフインタビューであったり、具体的な記録として公開されているものが多い。でも、映画や作品になると抽象化されて、記録が昇華というか変化されていると思います。記録は、いつ作品になるのか。そのことについて、何かあればおうかがいしたいです。

小森 今日、阿部さんの3本の映像を見ただけでも移り変わりがあったと思います。映像を撮る意識や撮り方、編集の仕方も変わっていましたね。記録から作品に、どこで変わるのか……どう答えたらいいですかね……。

佐藤 タイトルにしても、わすれン!にあるような◯◯の記録から、劇場公開された《息の跡》は抽象化されていますが、何か作品に飛躍したタイミングはあったんですか? それか意識して変えたのですか?

小森 私の場合、映画が完成してから変わることもありました。《息の跡》は何バージョンもあります。最初は陸前高田にいる複数人を描こうと《息の跡》というタイトルでつくっていました。だけど、最初に大学院の修了制作として発表するタイミングで、まとめることができたのは佐藤さん一人の映画だったんです。最終的に、そのまま《息の跡》になってしまった。だから、本当は構想としてあった《息の跡》じゃなくて、《佐藤さんの記録》をつくってしまっていて、《佐藤たねやの記録》というタイトルに変更してもよかったのかもしれない。でも、見てくれた人たちと意見交換をするなかで、この記録のタイトルとしても、抽象化された《息の跡》が一番しっくりくるんじゃないかとなって、変えませんでした。でも私のやっていることは、基本的にはずっと「◯◯の記録」なんだと思います。

《ラジオ下神白ーあのとき あのまちの音楽から いまここへ》も、最初は映画ではなく、《ラジオ下神白 ドキュメント映像》というタイトルでした。同じ内容で、ほとんど編集は変わっていない。その意味では、公開して見てもらうことは大きいかもしれないですね。作品を誰かと共有すると、それが自分だけのものではなくなる。その経験から、自分から離れたところに「◯◯の記録」をどう置いておくべきなのかを考える。そうすると記録というタイトルがいいのか、もっと「◯◯の記録」では届かない人にも観てもらえるようなタイトルにしたほうがいいのかといった話にもなってきますよね。 

阿部 《息の跡》の公開版は秦(岳志)さんが編集されていますよね。

小森 あ、そうですね。途中から秦さんに入っていただいて、一緒に編集をさせてもらいました。

阿部 公開までに別の人が入ってくるところが変化のきっかけになったのですね。

小森 そうですね。だから、私も、どうなるかわからない。自分が記録だと思っているうちは、ずっと記録でいい気がしてしまう。これも自分にしかわからない。実際、阿部さんはいま、今日の映像に「このタイトルがいい」と思っているわけですよね。

阿部 そうですね。

佐藤 《息の跡》は、公開前まで何度も、それにつながる記録を、さまざまなやりかたで公開していたのだと思います。最終的にいまの《息の跡》という映画になっていますが。

今日、この場も阿部さんにとっては、そうだと思いますが、作品が「できた」から共有するのではなく、その間でこういう場があることが、先々に作品という「かたち」になるには必要なのだと思います。

小森さんが今回このような場が必要だと感じられたのも、能登にかかわり、記録をつづけ、これからかたちにしようとしている人たちの中継地点をつくりたいというものでしたね。小森さんは、ご自身が経験されているから、その意義を実感しているのだと思いますが……。

小森 そうですね。私は自分だけではかたちにし切れなかっただろうから、そういうプロセスを経験させてもらえてよかったです。でも、それが一番いい方法だとは思っていません。ただ、作品を途中段階で公開するのは、とても怖いことです。そこで良し悪しを判断されてしまうこともあるし、被写体になっている人たちにとって、まだ良いと思えないタイミングで公開されてしまう危険性もあります。今日みたいなやりかたもあっていいのではないか、と思ってもらえるといいかなと。阿部さんの場合は、途中段階でいろんな人の目に触れて進んでいくのが合っているかなと思ったので、今日この場をつくりましたが。

佐藤 阿部さんは、このようなかたちで映像を公開するのは初めてでしたか?

阿部 大学内では、こういう上映形式で少し見せたことはありました。ただ公の場では初めてです。ちょうど8月31日までヤンヤンでは展示形式で映像を流しています。ヤンヤンは日記や小説など人々の記録に関するものコンセプトにした書店です。そうした場所で記録映像の展示をしていますが、ひとつの映像に集中して、時間を体感する上映形式は今日が初めてでしたね。

ヤンヤンでの展示風景

佐藤 やってみて、どうでした?

阿部 自分で撮ったものでしたが、上映形式だと、まったく印象が変わりました。長めに編集したつもりだったものが、あっという間に終わったり……いろいろと気がつくことがありました。

僕は映像を、あまり物語にはしたくないと思っています。物語にしないためのひとつのアプローチとして、長回しの映像を入れています。映画だとカットを分けて、つくりこんでいきます。でも、長回しの映像だと、こちらが受け身になって、ふいに映りこんでくるものがたくさんある。窓からやってくる瀬戸さんもそうですね(笑) 長回しの映像を編集していたときは、どう映るのかが不安でしたが、意外とすらっと見られたので、僕にとっては発見でした。 

佐藤 いま展示中の映像は同じものを見られるのですか?

阿部 少しだけ構成変えていますが、素材はほとんど同じです。1本だけ違うものを流しています。

佐藤 そちらは展示形式で31日まで展示をしていますので、ぜひこの機会にご覧ください。また今後も、阿部さんのように記録を続けている方と、こうした場をつくっていければと思っています。

小森 そうですね。いまわたしは山形国際ドキュメンタリー映画祭の「ともにある Cinema with Us」という東日本震災以降にできたプログラムの枠内で、能登の記録を見て話す座談会を準備しています。そこで見る映像も募集する予定ですので、ぜひ。

佐藤 ぜひ、今後のnoto recordsの活動にもご期待ください。本日はありがとうございました。


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