《辛い経験で人の気持ちは分からない》健康は幸せと言い切った僕の傲慢さ
〚945文字〛
幸福とは健康であること。
そんなのは誰もが分かり切っていることである。
分かっていると言いながら、それを蔑ろにする他人が許せなかったのが、健康こそ最たる幸せと信じて疑わなかった若い頃の僕だった。
学校で何かあったか、或いはプライべートの人間関係か、口癖のように「自分はついてない」「嫌なことばかり」「不幸だ」「死にたい」と愚痴を言う健康な友達が理解できなかった。
出来るだけ優しい口調で「健康なんだから君は幸せだろ」と言って相手を封じたのは、お前何にも分かってねぇよ、ワガママ言いやがって、という怒りがあったからだ。
今思うとあれは非常に傲慢だったと思う。
辛い経験があるからこそ、人の気持ちが分かる、とか、人に優しくなれるというが、それには語弊がある。
分かるのは、同じ経験をした人間に対してだけで、経験のない人間に対しては寧ろ、区別して排除しようとする心が働くのかも知れない。僕は少なくともそっち側だった。
病気の実体験によって得た確証が正義の価値観を強固にし、優しくなれるどころか、その鋭い刃で相手に斬り掛かっていたのだ。
健康が一番であるという感情を押し付け、相手に分からせようとしていた傲慢に過ぎない。
分かっていないのは僕の方だった。
第一自分はツイてない、嫌なことなことばかり、不幸だと思って死にたいという人間が幸せであるはずがないし、健康でもないだろう。もしかしたらストレスで心に問題が生じ、思考できる状況になかったのかも知れない。
それを分かろうとせず、一方的な思い込みの正義を振り翳していた僕には自分しか見えていなかった。
勿論今でも健康が最も幸せだと思っている。肉体の苦痛や精神の拒絶が無ければ、人はただ生きているだけで幸福なのだ。
だが、あの時より色々な体験を経て、人には様々な不幸や苦しみの形あると理解し、以前より多少配慮できるようになった今なら違う。
もし仮に今同じ話をされたら、傾聴に徹し、最後に一言「僕は健康は幸せなことだと思っている」と言うだろう。
そしてそこで相手が救いを求めて来たとしたら、上から目線の押し付けなどではなく、
幸せで生きたいと思えるキッカケづくりのため、その人自身や環境の良い部分を探して提示し、自分はやっぱりツイてる、と気付いてもらえるように誘導するだろう。
それが人の気持ちを理解することか別にしても、一種の優しさではあるのかも知れない。
