見出し画像

小泉八雲と北山修の浦島太郎物語理解の共通点

小泉八雲は、「夏の日の夢(THE DREAM OF A SUMMER DAY)」という随筆を1985(明治28)年に出した『Out of the East(「東の国から」)』という書物に収録している。
当時開港したばかりの三角港にある西洋ホテル「浦島屋」に逗留したときの思いを描いたものだ。

その旅館は、楽園のように思えたし、女中(メイド)たちも天女のようだった。
そのとき、風鈴の音(ね)を聴くようなすずやかな声で、「ご免くださいまし」という丁寧な言葉が聞こえると、私はうたた寝の白昼夢から覚めた。彼女はとても若くて、歌川国貞の「胡蝶(こちょう)の美女」や「青蛾(せいが)の娘図(むすめず)」を思わせて、うっとりする、とても愛想の良い人だった。

小泉八雲「夏の日の夢」青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/52948_42570.html

と、小泉八雲はまるで浦島屋のひと時が竜宮城での出来事のように表現している。そして、浦島太郎の話を続けるのであるが、一通りその物語を記した後に彼はこう続ける。

乙姫様は、宮殿の中で美しく着飾って、今日か明日かとあてどなく帰りを待ちわびている――そこへ「雲」が戻ってきて、無慈悲にも起こったことを話した――そして、正装した長い服を着た海の生き物たちは愛らしいものの、不器用であるが乙姫様をしきりと慰めようとしている。
 しかし、本当の物語では、これらのことはどれもなかった。日本の人びとが同情するのは浦島の方であるようだ。そこで、私は自分なりにつぎのように考えてみた。
 浦島を哀れむのは、全体、正しいと言えるのか? もちろん、浦島は神によって惑わせられている。神によって惑わせられていない者はいるか? 惑いのない「人生」なぞあるだろうか? 浦島は惑わせられたが、神の目的を疑って、ついに箱を開けた。にもかかわらず、何のトラブルもなしに往生し遂げた。人々は彼のために浦島明神なる神社まで建立している。なぜ、そんなに浦島に同情するのか?
 西洋では、まったく異なって取り扱われる。西洋の神々に従わなかったあかつきには、私たちは生かされ続けて、後悔の極みからその端ばしに至るまで、はてはどん底に至るまで完膚なきほどに思い知らされることになる。私たちの誰も、最良の時期に安心して往生することなど許されてはいないのだ。いわんや、死後に自分自身の権利として、小さな神になることなど微塵も認められていない。浦島が現身(うつしみ)の神たちとかなり長く暮らした後で、浦島が為なした愚行にどうして同情できるというのだろうか?

小泉八雲「夏の日の夢」青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/52948_42570.html

そして小泉八雲は浦島伝説にある日本人のメンタリティを指摘する。 

おそらく、この問いに答えることができるとすれば、まさしくこの同情されているという事実そのものなのだろう。この場合の同情とは、自己への憐憫(あわれみ)でなければならない。そうだすると、浦島伝説は万人の魂の言い伝えとなりうるのである。

小泉八雲「夏の日の夢」青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/52948_42570.html

一方精神科医でありフォーククルセイダーズのメンバーであった北山修は、『定版見るなの禁止』で浦島太郎や、夕鶴、蛇女、雪女など、小泉八雲も扱った日本の昔話を題材にして、物語に込められた日本人のメンタリティを「見るなの禁止」という言葉で論説している。
そこで、彼も「見るな」という約束を違った(たがった)主人公たちが非難されないことに言及している。
第八章「患者の羞恥体験に対する治療者の<受け取り方>でこのように書いている

「見るなの禁止」に違反した者の罪がとりあげられずに、 見られて恥じる者だけがとりあげられるところが、日本的なのかもしれない。「見るなの禁止」を犯したことについては、その物語を読んだり聞いたりする読者も共犯であるにもかかわらず、その〈覗き見〉の可能性が問われないのは、それを見るだけで誰にも見られない立場に身をおく読者がその覗き見を否認するからであろう。

北山修「定版 見るなの禁止」岩波学術出版社 http://www.iwasaki-ap.co.jp/book/b310375.html

そこで、小泉八雲が「自己への憐憫」と書き、北山修が「共犯」と述べていることの共通点を探るとともに、日本人の精神性について考えてみたい

自己への憐憫(あわれみ)

まず、小泉八雲が指摘している、自己への憐憫について考えたい

この場合の同情とは、自己への憐憫(あわれみ)でなければならない。そうだすると、浦島伝説は万人の魂の言い伝えとなりうるのである。

小泉八雲「夏の日の夢」青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/52948_42570.html

原文
Perhaps the fact that we do may answer the riddle.
This pity must be self-pity; wherefore the legend may be the legend of a
myriad souls.

The dream of a summer day / by Lafcadio Hearn,HathiTrust https://x.gd/fnbER

自己憐憫(self-pity)文字通り読めば、「自分を憐れんでいる」となるが、小泉八雲の文脈で理解すると、浦島太郎にかけられたあわれみを「私のものとしている」といえるだろう。
すなわち、物語をつづるうちで太郎と読者の同化が進んでいくと八雲は理解したのであろう。そこには、八雲が多くの文献で指摘している「日本の共感(Sympathy)の文化」を見出している。そして、「万人の魂の言い伝え」と示すことによって「自己憐憫がに日本人のメンタリティの底に潜んでいると指摘したといえる。

主人公と読者の共犯関係

北山修は、主人公と読者は共犯関係にあると指摘する。彼は浦島太郎以外にイザナミとイザナギ、夕鶴、雪女、蛇女、などを題材に分析を行った。これらの話では、禁止を破り覗いたものは罰をうけることなく、覗かれたものが恥を感じて身を引いていくという「恥の文化」の指摘もしているが、一方的に追放されるものへの追求は、『主人公の「覗き見ようとする」好奇心や「恐いもの見たさ」の分析の後に行われるべきである』と指摘する。
そして、「覗き見よう」としている主人公を、「覗き見ている」読者は、主人公側からはけして「覗き見られない」場所にいるのだ。そこに北山は「共犯関係にある」にもかかわらず、自己を憐れむがゆえに主人公を許してしまうという、自己憐憫のメンタリティを見ている。
北山修は、こうも書いている

見る者の責任は重い。私たちは、頻繁に「患者をみる」と言い、母親は「子どもをみる」と言う。みるときにどのような受けとり方をしているのかを問うとき、〈露呈したモノ〉をつきかえしたり、自らの嫌悪の情で反応している場合のあることに気づきはしないだろうか。

北山修「定版 見るなの禁止」岩波学術出版社 http://www.iwasaki-ap.co.jp/book/b310375.html

sympathy(共感)はギリシャ語のsyn(一緒に)とpathos(苦痛 )が語源だという。「一緒に苦痛を分け合うこと」だと解釈できるという。八雲の指摘した日本人のこころは、避けえないものを共有するこころ、と言えまいか。
慰めあうとか、気遣い会うといった、ともすれば後ろ向きになりがちな、日本人のこころを、北山修はどのようにみつめているのだろうか。



いいなと思ったら応援しよう!