“みんなでやる”と言われた仕事ほど、最後は一人に落ちる
「これは一人でやる仕事ではありません。みんなでやるものです」
この言葉を聞いたとき、安心したことは一度もない。
むしろ逆だ。
――ああ、これは最後、自分に来るな。
そう思うようになった。
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組織には、耳障りのいい言葉がある。
「みんなでやる」
「チームで対応する」
「全体で支える」
一見すると、責任が分散されているように聞こえる。
だが現場にいる人間は知っている。
それは責任を分ける言葉ではない。
責任を“曖昧にする言葉”だということを。
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仕事は、曖昧なままでは進まない。
だから誰かが最初に手をつける。
そして、その瞬間に構造が決まる。
最初に触った人間が、最後まで持つ。
これは経験則ではない。
ほぼ法則だ。
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「みんなでやる」と言われながら、
・最初の対応を任される
・状況を把握する役割を持つ
・関係者と連携を取る立場になる
こうした“入口”を引き受けた時点で、
その仕事はほぼ自分のものになる。
他の人間は、関与することはあっても、
責任を持つことはない。
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では、なぜこうなるのか。
理由は単純だ。
組織は「責任の所在が曖昧な仕事」を嫌う。
だから無意識のうちに、
“誰か一人に集約する方向”へと動く。
そしてその「誰か」は、
・断らない人
・処理能力が高い人
・空気を読んで動ける人
であることが多い。
つまり、
能力がある人ほど、構造的に押し込まれる。
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ここで多くの人が間違える。
「自分が頑張れば回る」と思ってしまうことだ。
だが、それは解決ではない。
固定化だ。
一度回ってしまった仕組みは、
「この形でいける」と認識される。
そして次も、同じ人に振られる。
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では、どうすればいいのか。
答えは一つしかない。
構造を変えることだ。
・役割を曖昧にしない
・責任の範囲を言語化する
・“担当”ではなく“関与”に留める
これをやらない限り、
どれだけ不満を持っても、何も変わらない。
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「みんなでやる」という言葉は、
本来は美しい。
だが組織の中では、しばしば逆の意味を持つ。
それは、
責任を分ける言葉ではなく、
責任を見えなくする言葉だ。
そして見えなくなった責任は、
必ず一箇所に集まる。
その矢印が、
たまたま自分に向いただけの話だ。
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だからこそ必要なのは、能力ではない。
“線を引く力”である。
